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集中力なし、話が聴けない人の勉強法

小中学生の頃、教室の窓際の席になると、窓越しに見える運動場にずっと気を取られていた。退屈な授業より、運動場の体育の授業が気になって仕方がない。サッカー、ソフトボール、ハンドボールなどのボールゲームや1500メートル競走などをやっていたら、もう大変だ。授業なんかそっちのけで、完全にそちらにのめり込む。そんな注意散漫が先生にばれて、運動場が見えない内側の席に移動させられることもあった。心を入れ替えて、「さあ! 今度こそは授業に集中するぞ!」と思った。が、数分後には、僕の心は授業から離脱し、空想の世界へと入り込んでいった。気づくと、授業は進んでいて、何も聴いてない自分がいた。学校の先生の授業を聴いて、学ぶことが全くできなかった。僕は怠け者脳を持っていた。

己を知る

傲慢とコンプレックスを同時に持つ厄介な奴だった。「だった」と過去形にするのも後ろめたい。傲慢な自分。授業が面白くないから、先生の教え方が下手だから、聴く気がしないんだ。教えてもらわなくたって読めば分かる。その方がずっと効率がいい。とんでもなく傲慢だ。しかし、自信満々で動じない振りをしながら、大きなコンプレックスも持ち合わせていた。他の生徒が皆ついていっている授業に、自分だけついて行けない。集中できない。理解できない。置いて行かれている。そして自分で読んで覚えた知識なんてすぐに風化し、自分の中に何も残らない。自分の致命的弱さにうすうす感づいている。実際はコンプレックスの塊だ。傲慢とコンプレックスを同時に持つ、とんでもなく厄介な奴だ。

そんな矛盾を抱えたまま、学生時代を終え、社会に出た。社会に出て、自分の仕事分野でプロフェッショナルを目指せば、そんな傲慢とコンプレックスを併せ持ったままで通用する訳がない。少しずつ少しずつ、学校では教えてくれない、厄介な自分の性格を逆手に取った勉強法を築いていった。死ぬまで続く終わりのないプロジェクトだ。。。

簡単に風化してしまう薄っぺらな知識をぶ厚くし、強く強く焼き付ける工夫が必要だった。

孤独の時間

なぜ学校の先生の授業について行けなかったのか? インプットに集中できる時間が短い。そして、インプットを他人のペースでできないからだ。先生はたくさんの生徒に向かって授業をする。ひとりのためだけに、集中力が切れるところまで来たら一呼吸おいてくれたりはしない。置いていかれたところまで戻ってもう一度教えることなんてできない。ひとりで孤独に教科書や本から知識をインプットすれば、自分のペースでできる。集中力が切れたら、休んでから切れた場所まで戻って、そこからもう一度読み直せばよい。そしてさらに重要なことは、インプットする内容を他人に決められたくない。もちろん自分の超関心事のインプットなら、集中力もその持続時間も爆上がりするはずだ。自分の関心事でない試験勉強でさえ、孤独の時間にやるのであれば、その時間に何をインプットするかは少なくとも自分で決められる。僕のような厄介者には、自分のペースで知識を吸収できる孤独の時間が超重要だ。

孤独の時間のインプットは、実際は純粋にインプットだけではない。ある知識をインプットすると、それに追従して、アクティブな思考が自分の頭の中に起こる。「ふむふむ。理解した。これは、あのプロジェクトのあの部分に使えるな」「ワオ! ここに書かれている状況は、自分があの時大失敗した状況にぴったり一致する。同じ失敗をしないために使えるぞ!」など。一見、注意散漫で、非効率に感じられるインプットの後に起こる小さな思考は実はとても重要だ。インプットと小さなアウトプットを繰り返しながら、知識を自分事として焼き付けているのだ。

学生時代の定期試験前の一夜漬けでは、そんなアウトプットの焼付作業に時間を割くのは、無駄でもったいないことだと勘違いしていた。アウトプットしている暇があれば、その分、次のインプットに進んで、もっとたくさんのことを頭に叩き込めと、ただただ詰め込むだけのインプット作業をひたすら行っていた。だから、試験が終わるとインプットした知識はたちまち風化し、何も残らなかったのだ。本当は詰め込んだ知識の中には、好奇心をくすぐるものがたくさんあったはずだ。その中のいくつかにでもアクティブに思考を働かせていれば、もっと楽しい身に着く勉強ができたはずだったのに。。。

大げさなアウトプットの機会を強制的に作る

孤独の時間の勉強は確かに大事だ。でも、僕のような怠け者脳の人間には、それだけでは、まだ不十分だ。読んだだけで理解したつもりになった薄ぺらな知識を風化させずに、ぶ厚くし、しっかり焼き付けるには、インプット時に、ちょこっと追従させる自分の中だけのアウトプットだけでは足りない。もっともっと大げさなアウトプットの機会が必要だ。

プロジェクトに携わっていて、自分の責任領域で問題が起これば、やっかいだ。でも、ちょっとワクワク嬉しいと思う自分がどこかにいる。ここでも、大変ひねくれ者の自分がいる。内向的で小心者のくせに、どこかで目立ちたがり屋だ。自分の専門領域で問題が起これば、問題解決策が出せる第一人者はその領域の専門家である僕だと皆が思う。皆が僕が出す問題解決策を期待する。自分に注目が集まる。そこで皆をあっと言わせる問題解決策をプレゼンしたら、気持ちがいい。っと、傲慢とコンプレックスを併せ持つひねくれ者の承認欲求が顔を出す。厄介な奴だが、仕方がないから、そんな厄介な気質を逆手に取る。次の大きな会議で問題解決策案をプレゼンするとアナウンスする。これで後戻りできなくなった! すぐに取り掛からねば! 中途半端な勉強でプレゼンしたら、あっと言わせるどころか、無様な結末になるぞ!

プロジェクトで生じた問題解決策の提案のようなアウトプットの機会をどんどん作る。アウトプットに巻き込むオーディエンスをイメージする。ある時は同じプロジェクトのチームメンバー、ある時は会社幹部、ある時はパートナー会社の人たち、ある時は業界の別の会社の人たち、などなど。アウトプットが大げさなものであればあるほど、アウトプットを成功させるためのインプットが大切となる。インプットする際の熱が上がる。真剣度が増す。何をインプットして、どのように体系化し自分の問題解決策に導くか、オーディエンスをイメージし、彼らをあっと言わせるプレゼンを真剣勝負で考える。他人を巻き込んでアウトプットを大げさにし、その目的を明確にすればするほど、孤独の時間のインプットの集中力は上がり、それを徹底的に自分の頭の中に焼き付ける自分の頭の中でのアクティブな思考も強烈なものになる。

アウトプットのもう一つの絶大な効果は、自分が偉大なギバーになれることだ。問題解決策案のプレゼンのような、皆にとって有用な情報をギブすれば、その見返りはものすごい。こっちから頼んでいなくても、皆がそれに触発され、面白いアイディアや有用な関連情報を持ち込んでくれる。思い切って先頭を切ってアウトプットすることで、ギバーとなり、その見返りとして極上の一次情報がたくさん集まってくるのだ。そして、自分がアウトプットしたことだから、すでに自分の中には、ある程度、知識が蓄えられ、焼き付けられている。そこにそれに関連するさらなる極上のインプット材料が舞い込んでくるのだ。まさに複利効果だ。自分の力だけでインプットした簡単に風化してしまいそうな薄い知識が、回りから舞い込んできた極上のインプットで、ぶ厚くされ、本物の知識・経験として自分の中に焼き付けられる瞬間だ。

家庭教師勉強法 「誰もが何かを教えたい」

怠け者脳の僕は、自分の専門分野でさえ、学会の講演やセミナーのような受け身のインプットでは、知識を吸収することがとても難しい。自分の中で炎上真っ最中の超関心事のセミナーをたまたまタイムリーに見つけたなどの奇跡的な状況でもない限り、役に立たない。そんな僕でも他人からとても効率よく知識を吸収できる方法がある。1対1のマンツーマンで家庭教師のように教えてもらうことだ。

多人数での会話に比べ、1対1の会話は、コミュニケーションの難易度がぐっと下がる。1回で分からなくても、聞き直せる。相手にとって話し相手は自分一人だから、ペースも併せてくれる。怠け者脳の僕でも、ひとりの相手との一対一の会話では、さすがに空想の世界に入り込むこともできない。それでもたまにそうなりそうにはなるが。。。

本当に相手から何かを学びたいのなら、僕のような怠け者脳を持つ人間は準備が大切だ。1対1だからといって何の準備もせずに、ただ相手と会話するだけで大切なことが学べるほど甘くはない。話を聴きたい相手は、どんな知識や経験を持っているのか? 教えてもらった知識や経験を、自分は何にどのように使いたいのか? 僕は、自分の孤独の時間を大切にしている。だから他人の時間も尊重するようにしている。自分のために時間を使ってくれる相手には感謝したい。相手にも使った時間を有意義に過ごせたと思ってほしい。僕のために時間を割いてよかったと思ってほしい。だから、あらかじめその時間に達成したい目的を相手に明確に伝える。人は誰でも、役に立っていると思える自己有用感と、自分にはこんな知識や得意があると気づかせてくれる自己効力感を持ちたい。だから、1対1で何かを教えてもらいたい時に、自分は相手の持っている何を学びたくて、それを何に役立てたいかを伝える。相手は自己有用感と自己効力感を感じて、とても快く応じてくれる。誰もが何かを教えたいのだ。だから、このような贅沢な家庭教師勉強法をお願いをしても、断られることは滅多にない。

僕自身が相手から頼まれた場合も、よろこんで引き受ける。そんな1対1の対話には、相手に知識や経験をギブするだけでなく、必ず何かの学びがある。自分が望まなくても必ず大きな見返りがあるのだ。

少子高齢化の今、子供は少なく、お年寄りはたくさんいる。お年寄り層は、さまざまな知識や経験を極めた人材の宝庫だ。子供は本当に様々なことに好奇心を持つ。そんな子供の好奇心をくすぐる様々なことを実際に経験し、知識を存分に蓄えたお年寄りがたくさんいるはずだ。僕のような集団の中で学習できない子供が、自分の興味を持ったことを、それを極めたお年寄りからマンツーマンで教わることができるマッチングシステムが進んでいけばいいなと思う。もちろん、自分の古い価値観を押し付け、子供の好奇心を奪うようなお年寄りはご遠慮願いたい。

学校にも多様性を

僕は、繊細さんではない、鈍感さんだ。だから、のびのびと自分の将来にワクワクしながら学生時代を過ごすことができた。嫌いで面白くない授業は、聴いている振りをしながら、孤独の時間として自分の興味のあることをこっそり学んだり、考えたりしていた。あるいは、空想に浸ってエネルギーを蓄える時間に充てていた。子供ながらに無意識のうちに自分に合ったズルい生存戦略を作り上げていた。僕が子供の時代は、一クラスが40人以上もいたから、そんなことができた。ただ振り返れば学校教育自体は自分には全く合っていなかった。浮いている存在だったし、変わった子供だったかもしれない。先生に目をつけられたり、クラスの友達から仲間外れにされたり、いじめられたり、不登校になったりしてもおかしくない存在だったかもしれない。環境がたまたまよかったのか、時代がよかったのか、鈍感さが功を奏したのか? 学生時代はそんな嫌な目にはいっさい合わずにのびのびと過ごして社会に出た。でも、僕のように集団での授業が合わない上に、繊細で、ズルい生存戦略が作れない真面目な子供もたくさんいるはずだ。学習環境改善のためにクラスが少人数化されることは素晴らしいことに聞こえる。が、それが集団で授業を受けさせ、強制的にそこから逃さないようにしているのなら、どうなんだろう? 僕のような子供は、クラスを牢獄のように感じて、とんでもなく迷惑な話かもしれない。

僕は子供が大好きだ。子供の輝いた目、何かに没頭して自分だけの世界に入り込んでいってしまう姿を、はたから見ているだけで楽しい。元気を分けてもらえる。すべての子供が自分の大好きなことに目を輝かせ没頭できる環境であってほしい。自分が気になって仕方がないことを勉強すればいい!



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