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労働は義務であるのか?〜アメリカ大陸奪還党7〜
第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
上記では、すべての日本国民は勤労の義務を負うらしい。これが労働の義務と解釈されているように思える。しかし、労働は義務であるのだろうか?
以下では、俺は義務は労働でなく、社会形成、または社会性の保持であると認識する。なぜなら、労働は義務を課さなくても、生きるために、勝手にやるものである。それに対して、社会形成はそうでなく、義務化する必要がある。
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1. 労働は義務であるのか
儒教系統の認識 労働は義務でない。
または、俺らは労働を義務とする必要はない。なぜなら、労働は私的な利益(個人的な利益)の追求である。だから、たとえある主体が労働を義務としないとしても、人々は生きるために、儲けるために、個人的な利益を追求するために、労働を勝手にやる。
つまり、労働を義務とする必要はない。これは受験勉強を義務とする必要がないようなものである。医師免許取得のために、医学に関する勉強を義務とする必要がないようなものである。個人的な利益がある場合、義務を課す必要はない。なぜなら、人々は利益を獲得するために、勝手にやる。
2. 社会形成は義務
儒教系統の認識 自己の社会形成は義務である。
一方で、社会形成は義務である。なぜなら、社会形成は個人的な利益の追求でなく、集団的なものや社会的なものである。そして、たとえある主体が彼の社会を形成するとしても、その主体はお金をもらえない。むしろその主体は時間やお金を消費する。
例えば、社会形成には、景観の保持や治安、衛生がある。また、言葉の使い方も社会形成の一種である。例えば、日本人という単語を大和民族という意味できちんと扱うことが社会形成の一種である。社会性を持たない、人々は日本人という単語を大和民族と日本国民という意味で誤魔化して使用する。
その他には、自己の文明や自己の宗教を言葉で表現すること、自己の人種的な侮辱や民族的な侮辱に関して、白人やネグロイド人種ときちんと対峙することがある。しかし、大和民族はこれらを実行しない。なぜなら、お金をくれないから。なぜなら、不安が嫌だから。
たとえ何回批判されるとしても、大和民族は自己の文明や自己の宗教を言葉で表現しないし、自己の民族に関する単語すらちゃんと扱おうとしない。なぜなら、彼らは社会を形成する義務を持っていない。
3. 中途半端な日本
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