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宗教書の読み方【儒教における宗教書の読み方】
菊池誠のような大和民族の一部は宗教書を読んで、現実的でない、科学的でないと笑ってすましてきた。しかし、アブラハムの宗教が契約宗教であることを考慮すると、彼らの笑いは文明的でない。この種の個体は事実であるのかや分析行為しか認識することができない。
以下では、俺は(儒教における)宗教書の読み方を次のように提示する。宗教を社会形成と考えると、アブラハムの宗教や仏教、そのほかの神話に関する書物やその非現実性はそこまでおかしくないように思える。
契約書
儒教系統の思考規範 もしある主体が宗教書を読むならば、その主体は宗教書を契約書と解釈する。
このとき、宗教書における非現実性はそこまでおかしくない。例えば、もしある主体が「創造主がこの世界を創造した。」という契約書に合意するならば、その主体が「創造主がこの世界を創造した。」と考えるのがそこまでおかしくない。
例えば、もしある主体が空を飛ぶと契約したならば、たとえその契約が現実的でなかったとしても、その主体は空を飛ぶ必要がある。もし空を飛ばなかったならば、契約違反で罰される。
契約の概念がない個体は宗教書の意味のようなものをうまく把握することができない。すくなくとも、契約の概念がない個体はアブラハムの宗教書を理解できないだろう。
政治書
儒教系統の思考規範 もしある主体が宗教書を読むならば、その主体は宗教書を政治書と解釈する。
政治では、事実は必ずしも重要ではない。例えば、いじめっ子は他人をいじめるが、彼らは政治的にうまく振舞うので、彼らはいじめられっ子をいじめっ子にしたてあげることができる。
もしいじめっ子がこの種の行為を宗教書として記録するならば、そのとき、その政治それ自体が歴史的に記録されることになる。これは西欧白人による「日本は差別主義」に通じる。
政治上手な人々は「日本は差別主義」を歴史(実態は政治)にしようとする。アブラハムの宗教書における「~が悪魔」は政治の記録であった可能性がある。
さらに、その政治を契約書にすると、アブラハムの宗教書や神話、そのほかの契約宗教が生まれてくる可能性がある。
歴史書
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