【儒教】俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本~真理は存在するのか?~
古代ギリシアでは、古代ギリシア人たちは真理について思考してきた。彼らは真理が存在するのかを問うた。
ある主体は真理は存在しない、そしてあらゆるものは相対的であると主張した。別の主体は絶対的な真理が存在する、しかし人々はその真理をまた獲得していないだけであると主張した。
近代科学の発達は自然界の仕組みを明らかにした。そして、現代の人々の大部分は「俺らは同じ自然界を見ている」と信じ切っている。つまり、世界は一つであり、人々は同じ世界を見ていると感じている。
しかし、俺が国家や日本国について考えるとき、上記のような真理に対する考えは必ずしも実際的でない。実際、俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本は互いに異なる。自然科学の場合と異なり、この場合は自然界のような同じ対象すら見ていないように思える。
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俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本
儒教系統の認識
俺の日本≠英利アルフィヤの日本≠アン・クレシーニの日本。
俺の日本は英利アルフィヤの日本と異なる。俺の日本はアン・クレシーニの日本と異なる。英利アルフィヤの日本はアン・クレシーニの日本と異なる。たとえ俺らが日本と言う同じ単語を使用するとしても、”日本”それ自体が異なる。
つまり、上記の自然界の場合と異なり、俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本には、共通した何か=それは自然界に相当するすら存在しない可能性がある。当然、現実としての日本は存在するけれども…。しかし、共通した自然界がそこには存在しない。
例えると、俺の住んでいる宇宙は英利アルフィヤの住んでいる宇宙と異なる。俺の住んでいる宇宙はアン・クレシーニの宇宙と異なる。英利アルフィヤの住んでいる宇宙はアン・クレシーニの住んでいる宇宙と異なる。このような状態は生じている。
上記の場合は自然界の状態と反対であるように見える。自然界の場合、自然界と言う共通した何かが存在した。そして、言語による自然界の表現それ自体が異なっていた。それぞれが思う自然界の言語的な表現は1つでなかった。ある人物は間違った表現を持っていた。別の人物は正しい表現を持っていた。しかし、自然界それ自体は1つであった。
俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本の場合、日本と言う単語は1つである。しかし、日本が指している対象(自然界に相当する
それ自体がそれぞれ異なっている。
この状態はある人物は宇宙Aを自然界と呼ぶ、別の人物はこの宇宙を自然界と呼ぶ、さらに別の人物はあの宇宙Bを自然界と呼んでいるようなものである。言語上は同じ自然界であるが、その単語が指している対象それ自体が異なる。俺の日本と英利アルフィヤの日本とアン・クレシーニの日本はこのくらい異なる。
言語的な表現
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