【儒教】部族的な思考の段階
大和民族は椎野カロリーナを日本人と呼んだ。しかし、この思考は非常に部族的であり、身内や自己の民族、自己の国家でしか通用しない。彼らの思考は個人や身内、村を超えない。
そこで、俺は部族的な思考の段階を以下のように提示する。部族的な思考の段階には、個人→身内→村→民族→国家という段階がある。
なお、以下では、俺は科学技術的な部族思考と社会的な部族思考を分けない。例えば、ドイツ人の思考は科学技術的には部族的でないが、社会的には部族的である。
個人
儒教系統の認識
(1)最も部族的な思考は個人的な思考である。
言い換えると、その思考は自分個人にしか通用しない。酷い場合、時間の変化によって、複数の思考が個人の内部でも対立する。
日本人と言う単語の使い方が代表的な例である。大和民族は自分にしか通用しない日本人と言う単語を使用する。しかし、その単語は拡張可能でない。
身内
儒教系統の認識
(1)部族的な思考は身内的な思考である。
言い換えると、その思考は自分の身内にしか通用しない。身内には、家族や研究室、小規模な会社やその部分が存在する。
例えば、日本人と言う単語の使い方が代表的な例である。大和民族は自分の政治集団にしか通用しない日本人と言う単語を使用する。しかし、その単語は拡張可能でない。
村
儒教系統の認識
(1)部族的な思考は村的な思考である。
言い換えると、その思考は自分の村にしか通用しない。例えば、~人と言う単語の使い方が代表的な例である。未開の村には、その村でしか通用しな~が蔓延する(はず)。しかし、その単語は拡張可能でない。
民族
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