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母親は、子どもの成長とともに、観れる映画が変化する

小さい子どもがいると、映画館で観れる映画が限定されますよね。「あっちの映画の方がいいなあ」と洋画のポスターを横目で見ながら、スクリーンに映るドラえもんを観ることになります。

おもしろい映画なんですよ。「ドラえもん」も「クレヨンしんちゃん」も「名探偵コナン」もいい映画で、大人が観ても退屈しません。
だけど満足できない物足りなさ、焦燥感。
楽しそうにスクリーンを観ている子どもの横で、いくつになったら字幕付きの映画が大丈夫になるのかしらと考えている親でした。

1999年の「マトリックス」がわが家の映画史のエポックです。

ちょうど、今までの映画館が無くなり立ち見が無くなり、全席指定のシネコンに変わっていく過渡期で、両方が存在していました。
そして、うちの息子がドラえもん映画を卒業し、字幕付き洋画を観れるようになった時期でもありました。

「マトリックス」は前評判も高く、斬新といわれる映像に興味津々の息子と、SFが好きでキアヌ・リーヴスファンの母親。
映画館に足を運ばないわけにはいきません。

どちらの映画館にするか、二人で相談した結果「2回は観たいよね」と意見が一致しました。
シネコンなら一度観たら追い出されますが、入れ替え制ではない従来の映画館なら、何回でも観ることができたんです。

階段には、今上映されている回が終わるのを待つ人々が、長い行列を作っています。終わって扉が開くと、出てくる人と交差しながら部屋になだれ込みます。予想どおり空いてる席などないので、1回目は立ち見です。

上映開始時間には、壁際も人で埋め尽くされ、変な言い方だけど立ち見も満席。それでも入ろうとする人は、劇場側は止めないので部屋に入ることは可能だけど、スクリーンは見えず音を聞くだけ状態になってしまいます。

エンドロールになると、立ち見の人たちが、席を確保しようと張り切ります。帰る人を見定めるのがポイントなんです。人を押しのけたりすることなく、ちょっと離れた席になったけど、2回目は二人とも座ることができました。

今では考えられない熱気に包まれていた映画館。
そこからの帰り道、もちろん話すのは「マトリックス」のことです。

激しい銃撃戦の後、キアヌが動作を止めコートがすっと静まっていく、その動から静への移り方がかっこいいと息子。
有名なのけぞって銃弾を避けるシーンで、キアヌをかすめた弾が、まっすぐ自分に向かって飛んでくるので、思わず伏せそうになったと母。

うちの息子は、どちらかというと無口で、幼い頃から、あまり自己表現をしない子でした。しかも思春期となり、会話の内容が難しくなっている時に、共通の話題があるということは、とても貴重でした。

学校だ勉強だ部活だという日常から離れ、ありえない異世界の話をする。
現実に向き合うことが大事だと考える人は、意味のないことだと感じるかも知れません。
でも、そこから見えてくることもある、とわたしは思います。

映画というワンクッションを置くことで、普段とは違う会話をして、何を考えているのか何を感じているのか、相手を知る機会にもなります。
そして親子なら、観る映画が年齢とともに変化していることで、成長を感じることもできるのです。

アクション映像だけではなく、母であるわたしでさえ難解な「マトリックスとは何か」ということまで、二人の興味の対象でした。
一緒に映画を観ていなければ、話題にならなかったであろう哲学的な概念を、息子と語り合うことは楽しいことでした。

そして、そんな彼の成長を教えてくれた映画に感謝しています。

母親は自分の好みではなく、子どもの成長に合わせて、観る映画を変化させざるをえません。
我慢ガマンと思うこともあるけれど、子どもの成長を感じとらせてくれるなら、映画館に足を運ぶのも悪くないことですよね。

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