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漱石も谷崎も女の人を「着物に顔が生えた存在」と認識していた(言い過ぎ)
夏目漱石の「硝子戸の中」を読んでいたら、「自分の記憶の母は、でかい眼鏡・顔・着物だけの存在」とかいっていた。
女性からしたら無礼な話だ。
しかし、これ、どこかで似たような話があったような…。
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谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」だった。
…昔の女と云うものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う。
和服と暗い家屋敷が、女性を服に手と顔がついた存在のごとくしたのだという。
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現代の居間の明るすぎるのが、自分としては長年の不満であった。
「日本の居間を暗くする会」をラー友(ラーメン友達)と結成したこともあった。
しかし、明るい部屋、女性には必要なものなのかもしれない。
誰だって、服が自分の本体と思われたらたまらない。
反省である。
暗くする会は解散だ。
まあ、もともと、間接照明原理主義の私と、何でも暗ければ間接照明と言い張るラー友の見解の相違により、休眠状態だったのだが。
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夏目漱石というと、みんな「吾輩は猫である」に行きがちだが、あれは長いので、挫折しても問題ないと思う。
挫折した方がもしあれば、「永日小品」とか、「硝子戸の中」とか、「草枕」で傷を癒やしてほしい。
そしてまた元気が出たら、クソ長い「虞美人草」に挑戦して、藤尾さんの魅力を堪能したらよいのではないか。
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