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春琴抄を読んだ妹は、鼻を盛大にかみながら「純愛じゃ…」と言った

谷崎潤一郎の「春琴抄」を読んだと、高校の授業で先生がおっしゃった。
師匠兼主人兼恋人のために、おっさんが自分で自分をアレするんですよ…フフフ…とのことだった。

さっそく自分も読んで、これはエッチな書物だと思った。
すばらしい。
この感動を誰かと分かち合いたい。
妹に「この本…、すごく…エッチですよ…」と勧めたらノリノリで読んでくれた。

半日ほど経って、読み終わった妹が本を返しに来た。
顔を見ると滂沱の涙をながしている。
どうしたと聞くと、鼻をブーっと盛大にかみながら、感動した、純愛である、という。

ん、春琴抄に純愛成分なんてあったかな…とよくよく反省したが、たしかにまあ純愛といっても問題はないと思った。
どうあっても、ものの見方は人それぞれという陳腐な結論に至ってしまうのだった。
恥ずかしい。

春琴抄は短い。
当時自分が買った新潮社の文庫本は薄かった。

そしてものすごい文章だ。
一文がすごく長い。
そしてヘンな漢字がたくさん出てくる。
たたずむとか。

一見、読みにくいように感じる。
しかし、私の妹はそんなに本を読む子どもではなかった。
そういう子でも読めたのだから、難易度自体は高くないのではないか。

超絶技巧なのに読みやすい。
そして面白い。
トリプル役満である。

これは私が勝手に想像しているだけの話だが、谷崎潤一郎もこれを書いた後、どんなもんだい、人みな平伏せよ、小説の王が誕生したのである、百年先も語り継がれるであろうと、たいそう悦に入ったに違いないのである。
幸せだったろうな。

春琴抄を読んでから十年間ぐらい、私はこじらせてしまって、ああいう実験的文体こそがかっこいい文体だと思って、自分もがんばってわざと読みにくい文を書くようになった。
今でも正直かっこいいと思っていて、会社のレポートなどああいう調子で書いて提出したいものだと、常々夢見ている。

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