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桜の樹があるように
午後、満開の桜並木の横にある公園のベンチ。
近くのパン屋で買ったあんドーナツを頬張る。外で食べると気のせいか2割増しで美味しいく感じる。
さて、今日は多様性と自己主張の話。
最近、様々な方のお話をお伺いする機会に恵まれています。時に相談者として、伴走者として、メンターとして、参加したセミナーにたまたま居合わせた人として。
今さらながら、誰にでも個性はあるし、その人なりの美学や価値観がある。人によってはそのことを自覚していなかったり、上手く言語化出来ていないことはあるけれど、それでも話を聞いていくと、何かしら出てくる。
半年ほど前、職場でやりたいことが見出せなくなって仕事を辞めた。当時は職場外でもこれといってやりたいことがなく、モヤモヤとした感情を引きずりながら日々を送っていた。
この半年の間に、たくさんの本を読み、色んな人と話し、過去を振り返り、自己開発的なセミナーにも参加し、そしてまた自分を見つめ、やっと自分のやりたいことを見つけ(思い出したと言うべきか)、今はフリーとして活動している。
それは幼い頃の原体験から始まり、今日に至るまでの日々の中で小さな点として刻まれる続けていたものだった。その無数の点をつなぐ一本の糸を見つけ、今はそれを握りしめている。
同じように、今どのような状況にある人でも、誰にでも“大切なもの”があると、今ならば素直に理解できるし認めることができる。
例えそれが飛び抜けて個性的なものだったとしても、自分が思う“常識”に当て嵌まらないものだったとしても、どうということはない。自分とは生きてきた道が違うだけのことだ。
けれど、少し前まではその違和感についつい反応してしまう自分がいた。面と向かって(或いは匿名で)違和感を口にしたり、ディスったことはないが、“常識”に当て嵌まらないことで、特に不利に見える言動をとる人に対して、「変なの」と思っていた。
改めて、違いがあることが当然だし、誰にでも個性やこだわり、その人なりの美学や価値観がある。
ただそれだけでいい。
自分と異なるものを否定する必要もないし、排除する必要もない。
確かに自分に賛同してくれる人がいると嬉しく感じるし、安心もする。けれど、それを求める必要もないし、理解者がいなくても不安になる必要もない。
ただ在るがままに、在るを認める。
自分の肉体と精神が老いていって、新陳代謝が出来なくなったとしても、妬まずに羨まずに、ただ在ることを受け容れる自分でいたい。
春が溢れる木の下で。
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