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意志の力学:社会的な見えざる手
環境問題をはじめ、AIによるリスクなど、様々な問題を解決するためには、社会全体が協調することが重要です。一般的に、社会が全体的に調和するためには、利己心を抑えて利他の精神を持つことが重要だとされています。
しかし、こうした利他の精神が広がって社会が変化することを期待することは、難しいという現実があります。豊かさや余裕がない人にとっては、日々の自分の生活を守ることで精一杯であるはずです。一方で一定の成功を収めた人であっても、必ずしも利他の精神を持つわけではありません。
私は、利他の精神に依存するのではなく、各自が利己心に基づいて行動することで社会が調和していくようにすることが重要だと考えています。利己心は調和を乱すわけではなく、健全で合理的な利己心は、むしろ社会が調和するように積極的な力となるためです。
このことは一般的な直感に反するかもしれません。しかし、論理的に考えていくと、このことは明白になります。
この記事では、このことを説明するために考案した、意志の力学という思考フレームワークを紹介します。人間の行動の動機の志向性をゴール志向、比較志向、存続志向に分類し、社会環境全体の豊かさと調和度合いによって、これらの動機がどのような作用を及ぼすかを分析する、というアプローチです。
この意志の力学に基づけば、健全で合理的な利己心が、自然に社会の調和を形成し、積極的にその調和を維持することが理解できます。
■意志の力学
人間が行動する動機には、ゴール志向、比較志向、そして存続志向のものがあります。
ゴール志向の動機は、ある目標に到達することを目指します。目標に到達すると消えてしまいます。
比較志向の動機は、他者や過去の自分自身と比較して、よりポジティブな状態を目指します。
存続志向の動機は、その動機自体が存続し続けることを目指します。
社会の調和という観点から見ると、ゴール志向と比較志向の動機は、多くの場合、調和に貢献しないか、調和に反します。
存続志向の動機は、社会環境により大きく性質が変わります。
社会環境が非調和的な場合、合理的な存続志向は社会への影響力を強めようとします。このため、非調和的な社会では、存続志向同士が衝突します。
一方で、社会環境が調和的な場合、合理的な存続志向は社会への影響力のバランスを取ろうとします。
なぜなら、非調和的な社会では、影響力を強めなければ、存続が困難な状況に陥りやすくなるためです。
反対に、調和的な社会環境では、全く異なる動機や相反する動機との間でも、影響力のバランスを取ることを優先します。なぜなら、調和を維持する方が存続しやすいためです。
調和的な社会環境では、バランスを崩して強化した影響力と、バランスを崩したことで受ける周囲からの圧力を比較すると、後者が大きくなってしまうためです。
これが、意志の力学です。
■慣性の問題
社会環境を調和的なものにするためには、存続に対して十分な豊かさが必要です。致命的な欠乏は、存続志向の動機を不調和へ向かわせます。
一方で、存続に対して十分な豊かさがあっても、調和的な社会環境になるわけではありません。
そこにはゴール志向と比較志向の慣性が働くためです。
豊かさが不十分な社会環境では、存続志向の動機から、派生的にゴール志向と比較志向の動機が生み出されます。
存続に必要なものが欠乏していれば、短期的に必要なものを手に入れることに集中するために、ゴール志向の動機が生み出されます。
また、他者との競争が必要になるため、他者に対する比較志向の動機が生まれます。
さらに、欠乏や競争に備えるために、過去の自分自身との比較志向の動機も奨励されます。
このように、豊かさが不足している社会では、ゴール志向や比較志向の動機には、必然性があります。
しかし、十分な豊かさが得られる社会になれば、ゴール志向や比較志向の動機は必然ではありません。しかし、相変わらず必然であるかのように見えます。そこには慣性が働くためです。
■不調和の継続
十分に豊かな社会になっても、ゴール志向と比較志向の動機が継続すると、社会の不調和が継続します。
社会の不調和が継続すると、全体としては不合理であるにも関わらず、個人や組織にとってはゴール志向と比較志向の動機が、合理的であるかのように見えます。
このため、ゴール志向と比較志向の動機と、社会環境の不調和は、強いフィードバックループを形成し、状況が持続します。
この状況は、大きく3つの問題を引き起こします。
1つ目は、豊かさの分配への抵抗です。全員の存続志向の動機を満たすのに十分な豊かさがあるにも関わらず、比較志向の動機が分配を阻む力として働きます。
これにより、存続志向の動機にとって必要な豊かさを享受できないという不幸を生み出します。
2つ目は、個々の存続志向の動機に対するリスクです。社会環境の不調和は、存続志向の動機にとって、存続が不可能になるリスクが常に高まる状態です。
これは過度のストレス、不正や犯罪の誘発、そして実際に存続が不可能になるリスクが顕在化する形で不幸を生み出します。
3つ目は、社会全体の持続可能性に対するリスクです。ゴール志向と比較志向の動機が持続している限り、社会全体は常に最大化を目指します。
社会全体が最大化を目指すことで、外部環境や内部環境の耐久性の余裕を消耗していくことになります。これは天然資源の枯渇、自然環境の過剰破壊、社会内部の崩壊という形で社会の持続が不可能になるリスクの顕在化として、取り返しのつかない不幸をもたらします。
■欲求の混乱
ゴール志向、比較志向、存続志向の動機は、それぞれ欲求に基づいています。
この中で、存続志向の欲求が最も重要な欲求です。個人の生存、文化や社会の持続、信念や愛情の永続など、多くの人やコミュニティにとって基礎的で不可欠なものです。
存続志向の欲求と比較すると、ゴール志向や比較志向の欲求は二次的です。
目標の達成や承認の獲得、他者との競争や自己の成長などは、何れも一定の価値があります。一方で、それが自らの存続志向の欲求を犠牲にするのであれば、本末転倒です。
特に、社会が十分な豊かさを確保できているにも関わらず、存続志向の欲求をリスクにさらしてまでゴール志向や比較志向の欲求を追求することは、非合理的な欲求の混乱と言えます。
これは、利他的な観点ではなく、利己的な観点での欲求の混乱です。
個人や組織が、ゴール志向や比較志向の欲求を追求することが、他者だけでなく自らの存続志向の欲求をリスクにさらしているのです。
そして、社会が十分に豊かであれば、この欲求の混乱は必然ではなく解消ができるのです。しかし、ゴール志向と比較志向の動機と、社会環境の不調和のフィードバックループが、それを困難にしています。
■社会的な見えざる手
経済学において、個人や組織が自己利益のことを考えて合理的な選択をすることが、自然に経済全体の調和につながるという性質を持ち、見えざる手と呼ばれています。
意志の力学は、社会においても、個人や組織が存続志向の動機によって合理的な選択をすることが、社会全体が調和につながるという性質を持たせることができることを示しています。
この社会的な見えざる手は、次の3つの利点があります。
1点目は、人間の自然な欲求に従っているということです。自己犠牲や利他心を多くの人が強く持つような社会的な努力をし続けなくても済むため、この仕組み自体の持続可能性が高くなります。
2点目は、個人や組織の創意工夫や努力を引き出せることです。完全な平等やユートピアのような社会では、社会をより良くするためのモチベーションを引き出すことが難しくなります。社会的な見えざる手は、この弱点を克服します。
3点目は、個人の能力の多様性を包摂できることです。競争的な社会では、社会への適応能力の差により疎外される個人を生み出します。また、競争への適応能力が高い個人が競争に没頭するあまり、虚しさを感じるという欲求の混乱も生じやすくなります。
社会的な見えざる手は、社会への適応能力に応じて個人が社会の調和に寄与できます。そして存続志向の動機に基づく活動が優先されることで、欲求の混乱が生じることも少なくなります。
以上の3つの利点は、単に理想的であるだけでなく実用的で現実的です。
そして、一度この見えざる手が機能し始めると、社会にはこの状況の維持を強化し続ける、フィードバックループが機能します。
これは単に安定しているだけでなく、自己強化的に安定が増していくということです。
したがって、この状況を一度作り出すことができれば、後は自然に強化されていき、これらの利点を持続的に享受できるようになります。
■バーベキューパーティの例
定期的に開催されるバーベキューパーティを思い浮かべてみてください。
集まった人たちは、自分のできる範囲で、自分の得意なことや人がやっていない作業を、積極的に分担して進めます。小さな子どもや体が弱い人は、体を動かす作業は手伝えないかもしれませんが、それでもお皿を並べたり、お喋りの話題を提供することでパーティを楽しくすることに貢献できます。
ほとんどの人はさぼろうとすることはなく、一つの作業が終われば積極的に次の作業を見つけてパーティに貢献します。そして、多く働か、役に立ったかどうかには関わらず、全員が満足できる量の食べ物を得ることができます。他人の分まで食べ物を奪おうとしたり、人よりも多く食べることに固執する人はいません。
そして、次回以降のパーティも継続的に実施できるように、道具は丁寧に扱ってきれいに洗って片づけます。また、予算や資材も、今回のパーティに必要な分だけを使うことを心がけます。
このパーティを継続させている動機は、人によって異なります。美味しいものを食べることが好きな人もいれば、楽しくおしゃべりすることが好きだという人もいます。肉を焼く自分の特技を自慢したい人もいるかもしれません。
それぞれの動機はごく個人的なものでよく、そこに特に利他的な精神は必要ありません。単に、パーティ全体が楽しくなり定期的な開催が維持されれば、各個人の利益になるのです。
■さいごに
バーベキューパーティは、社会的な見えざる手が効果的に機能している例です。
そして、バーベキューパーティではこうした調和が容易に想像ができるということは、私たちは既に社会的な見えざる手について深く理解しているのです。ただ、社会全体を見るときには、わざわざ違うメガネを通して見てしまっているに過ぎません。
また、バーベキューパーティは、社会の仕組みや個人の考え方を変えた際に、どのようなことが起きるかを思考実験するための便利なモデルにもなります。
毎回強制的に参加させられて、食べ物の量は十分にあるけれども、全員が多くの食べ物を奪わないと自分の食べる分がなくなるという想定を持っている場合はどうなるでしょうか。そのようなバーベキューパーティに、どのような提案やルールを持ち込めば、楽しいパーティに変えられるでしょうか。
このような思考実験を行うと、現在の社会にどのような意志の力学が働いているかが、より鮮明に理解できるようになります。そして、多くの人がこうした理解を深め、そこで得られた洞察を広めていくことができれば、少しずつ社会は見えざる手によって変化していくでしょう。
そして、やがてある地点を越えると、押し戻すことができない大河のような流れとなって、社会は調和へと悠然と流れていくことになります。
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