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不満を生み出す構造:現代社会の弱点

現代社会では、社会の仕組みや技術は進歩しています。社会は豊かになり、生活の利便性も大きく向上してきました。

それにもかかわらず、多くの人が幸福を実感できずにいます。それは、一般論としては社会格差の大きさの問題として扱われていますが、私はその見解をあまり支持していません。

私の見解は、現代を生きる私たちは、幸福を感知したり表明する能力が弱体化しており、代わりに不満を感知して表明する能力が発達している、というものです。さらに、社会は私たちに向かって、この社会は欠陥だらけであり、十分に豊かな生活ができている人は少数であるという言説を毎日のように発信しています。

社会からこのような情報を浴び続け、かつ幸福を感知して表明することが苦手で不満を感知して表明することが得意な人が大勢いれば、どんなに進歩しても、多くの人が幸福を実感できない社会になることは明らかです。

なぜこのような社会的なメカニズムが働いているのかについて、この記事では掘り下げて考えていきます。

■民主主義と資本主義

民主主義による政治と、資本主義に基づく経済は、社会の不幸を解消するための仕組みとして上手く機能してきました。

これらの基本はボトムアップの構造です。簡単に言えば、一般の人々の不満や問題が政策や商品に反映される仕組みです。

民主主義は、上手く不満や問題を解消することができる政治家や政党が選挙で票を得て権力を拡大させる構造を作り出します。

資本主義は、上手く不満や問題を解消することができる事業家や企業が市場で利益を得て資本を拡大させる構造を作り出します。

権力や資本の拡大は、次の活動において、より不満や問題を解消しやすくする基盤となります。

■不満駆動型社会

民主主義と資本主義は、このように人々の抱える不満や問題を解消することで、上手く機能する仕組みと言えます。

つまり、民主主義と資本主義は不満によって機能する仕組みとも言えます。そうした社会は不満駆動型社会と表現することができます。人々の不満を燃料として前進する社会であるということを意味しています。

この社会は、不満が多くあれば上手く機能します。一方でこの社会の仕組み自体が不満を解消していくため、やがて燃料となる不満が不足していきます。

燃料が少なくなると、不満駆動社会はかつてほど上手く機能しなくなります。

■不満の残留と開発

不満駆動社会は、不満に対して上手く機能してきましたが、結果として社会の不満の総量が小さくなったのかと考えると、そうなってはいないように思えます。

そこには不満の残留と開発の問題があります。

不満の残留は、政治的あるいは経済的な手段で解消することが困難な不満が社会に残り続けるという現象です。

不満の開発は、既存の不満が解消された後に、新しい不満が掘り起こされることを指します。

不満駆動社会は、不満という燃料を前提としているため、残留不満や新しい不満の開発をむしろ必要としています。

このため、解消が困難な不満を我慢することや、新しい不満の開発を抑制する力が働きづらい構造になっています。

むしろ、積極的に残留不満に焦点を当てて不満への認識を高めたり、意図的に新しい不満を開発したりすることが、社会にとって良いことであるという風潮すらあります。

■問題の整理

まず、残留不満の問題について整理します。

政治や経済の仕組みによって解決が難しい残留不満の中には、困難ではあるものの引き続き政治や経済によってしか解決できないものと、そもそも政治や経済によって解消することができない、あるいは合理的ではないというものが含まれています。

前者の不満はそのまま残留させて、政治や経済の仕組みで解消する努力がなされるべきでしょう。一方で、後者の不満は、そのまま残留させても社会的な意味はありませんし、解消されることがないため個人にとっても不幸をもたらします。

しかし、こうした不満を利用して政治的な権力の獲得あるいは経済的な利益の獲得に結びつけようとする行為も、民主主義や資本主義の仕組みの上では可能ですし、むしろそれを正当化する人たちもいます。

次に、不満の開発について整理します。

不満の開発には、社会的な経緯でそれまで潜在していた不満を顕在化させて、政治的あるいは経済的な手段による解決に結びつけるものと、もともと特に不満ではなかったけれども、焦点化されることで不満として認識されるようになり、結果として不満が大きくなって政治的あるいは経済的な解決が求められるようになるものとがあります。

これまで表明することができなかったけれども潜在していた大きな不満は、主にマイノリティの不満や文化的に抑圧されてきた罪悪感に起因するものです。こうした顕在化されてこなかった不満に焦点を当てて解消に導くことは、社会的には望ましい姿でしょう。

一方で、当事者が特に大きな不満を抱いていなかった物事に対して、危機感や劣等感を煽って不満化し、それを政治的な権力の獲得や経済的な利益の獲得に結び付ける行為は、社会的な不幸を生じさせます。しかし、これも民主主義や資本主義の仕組み上では可能であり、潜在不満との客観的な区別がつけづらいため、正当化しようとする人たちも多くいます。

加えて、これらの不満とは無関係の社会問題の整理も必要です。

個人や少人数では解消が難しく、社会全体での解決や公共的な資金や労力が必要とされる問題は、政治や経済の仕組みによってしか解決できないことになります。しかし、民主主義や資本主義は不満駆動型であり、一般の人々の不満になっていなければ、その問題に政治や経済が取り組むことは困難です。

これは、不満に結びついていない社会問題や環境問題の解消に、不満駆動社会が適応できていないことを意味しています。特に、未来に問題が起きる可能性が高いけれども、過去に発生したことのない問題は、人々の実感としての不満にはなり得ず、政治や経済への影響が小さくなります。また、これらの未来に懸念される問題が、目の前の生活の不満と競合する場合、不満駆動社会は目の前の不満の解消の方に大きく偏ってしまいます。

■不満駆動社会の弱点

問題を整理したことで、不満駆動社会の2つの弱点が浮き彫りになりました。

1つ目の弱点は、不満駆動社会は不満の残留と開発による副作用により、人々に社会は劣悪であり、自分たちは不幸であると認識させる作用を持つという点です。

客観的には、不満駆動社会はそれ以前の社会に比べると驚くほど多くの不満を解消し、豊かな社会にしてきました。治安の問題、物質的な欠乏、その他の社会的な問題は、政治主導による社会制度の改善と経済主導による技術革新によって大きく改善されてきたと言えるでしょう。

一方で、そうした不満駆動社会に生きる私たちが、社会の客観的な改善を受けて幸福になったという認識を持っているわけではありません。もちろん、社会の改善に慣れてしまうことで、幸福に対して鈍感になるという人間の本来的な性質はあるでしょう。

しかし、それだけではなく、そもそも不満駆動社会が、社会の改善と個人の幸福を認める能力を人々から奪いつつ、不満を抱くことを人々に強いているという側面があるのです。

政治家、コメンテーター、インフルエンサーなど多くの人々が、社会は問題だらけであり、私たちは豊かではないと主張します。そして日々目にする広告やドラマでは、現実の平均的な生活よりも豊かでオシャレな生活をしている姿が、あたかも一般的な生活であるかのように映し出され、私たちの中に誤った平均像を刷り込もうとしてきます。そして、経済評論家や政治家は内需拡大や経済成長、つまりより多くの商品やサービスを私たちが欲するようにすること、が社会を良くするために重要であると言い続けています。

私たちはこれほどまで豊かで安全な社会を実現することができたにもかかわらず、その社会の中で、不満と不幸を増大させながら生活することを強いられているのです。

不満駆動社会の2つ目の弱点は、未来の問題を解決する能力の弱さです。不満は常に現在的であり、過去の経験に基づきます。未来の問題に対しての不安や危機感は、不満にはなりません。そして、未来の不安や危機感よりも、過去の経験と現状に基づく不満の方が、民主主義や資本主義の仕組みでは大きな力を持ちます。

過去の経験や現状の問題の多くが解消されてくると、このアンバランスは顕著になります。

餓死や絶対的貧困がほとんど解消された豊かな社会においてさえ、未来の環境問題のために行うエコバッグ運動のような小さな取り組みですら、面倒であるとか余計な支出が増えるという理由で公然と不満を口にして批判する人たちもいます。より大きな負担を伴う取り組みは、より大きな反発を生むでしょう。

真に未来のことを考えれば、そのような反発の声を抑え込んででも、大きな取り組みを力強く進める必要な段階に来ている可能性があります。しかし、不満駆動社会の2つ目の弱点により、社会はそうした取り組みを進めることができずに手をこまねいているように見えます。

この問題が根深いのは、それがまだ余裕があるので本気になっていないだけなのか、不満駆動社会の弱点のために進められないのかを明確にできない点です。このため、ゆでガエルのように気がついた時には手遅れになってしまうとしても、私たちは現状がどの時点にいるのかを判断することができないのです。そして、この判断は人によって異なり、問題に対して不安を抱く人たちの声よりも、対応に対して不満を持つ人の声の方が強くなってしまいます。

■理想的な社会

理想的な社会は、豊かさを無限に増大していく社会ではありません。当然、不満や不幸を意図的に増幅させて社会を進歩させていくような社会でもありません。

望ましい姿は、必要な豊かさを確保した上で、その豊かさによって生み出された物質的な余剰と心の余裕を利用して、単純な豊かさだけでは直接的には解決できない問題に取り組むことができるような社会でしょう。

そのような姿を思い描いた上で、不満駆動社会を見つめると、最初の豊かさを確保するという部分には成功しています。一方で、後半の物質的な余剰や心の余裕を生み出すという点と、豊かさでは直接解決できない問題に取り組むという点は失敗しています。

常に不満や不幸を増幅させることを許していれば、物質的な余剰と心の余裕を生み出すことはできません。そして、不満がなければ権力や資本が集中できないのであれば、未来の不安や危機感への対応はバランスを欠いてしまいます。

民主主義や資本主義が根本的に誤っているということではありません。前半の部分に対しては非常にうまく機能しているのです。この前半の成功を投げ出してしまっては、後半の部分を実現することはできません。問題は、いかにしてこれらの弱点を克服する仕組みを社会に追加し、後半部分も成功するような社会にするか、という点です。

■不安の注入

不満駆動型社会の弱点を克服するためには、まず社会を牽引する方向付けと燃料になるものを考える必要があるでしょう。その候補として有力なものは、不安です。

不安は不満とは異なり、未来に焦点を当てています。そして、悪い状態をより良くしたいという不満とは異なり、現状を悪化させないということが目的となります。したがって、不満に加えて不安を社会に注入するというコンセプトを軸にして、社会的な仕組みを追加することで、過去や現状の不満と将来の不安とのバランスが取れた社会が実現できる可能性があります。

不安の注入の仕組みを考える上で難しい点は、不安もまた意図的に増幅されてしまうという問題です。むしろ不満よりも不安の方が増大しやすく、かつ、精神的にも悪影響が大きくなります。

■社会の理解可能性

不満や不安の意図的な増幅の問題は、社会の構造や現状を理解することが困難であるという点に原因の一端があります。

この困難は、もちろん個人の理解力には差異があるという問題もあります。しかし、そもそも社会の仕組みや問題が複雑すぎて、強い関心を持ち、長い時間をかけて情報を集めて学ばなければ、理解力の高い人であっても適切な理解が難しいということは間違いありません。

この理解の困難性は、誤解している人がその誤解を含んだ情報を再発信する問題や、意図的に問題の本質をずらして発信する人たちによってさらに複雑化します。いわゆる陰謀論やデマといったものに惑わされたり、安直に誰かを悪人として攻撃することで問題を理解したつもりになったりするという陥りやすい罠も多数あります。

このような状況下で、不満や不安を増大させながら政治的な権力や経済的な利益を獲得しようとする意図的な行為を阻止することは極めて困難です。

このため、社会の理解可能性を向上させるという取り組みが不可欠です。社会の理解可能性の向上には、個人に対する教育、メディアのあり方、政府や政党による情報発信など様々な面での大きな努力と工夫が必要になります。

しかし、ここを避け続ければ、不満や不安が再生産され続けるという社会的な不幸が永続化し、かつ、本当に対処しなければならないリスクへの対応ができない社会からは永遠に抜け出すことはできないでしょう。

■さいごに:余剰と余裕の創出

社会の理解可能性を高めることができれば、私たちは不満主導社会の弱点を明確に意識することができるようになるでしょう。

多くの人がこの弱点を把握していれば、意図的な不満の増大に対する抵抗力を持つ社会が実現でき、かつ豊かさの増加を継続できていれば、不満を抑えつつ物質的な余剰や心の余裕を生み出すことができるでしょう。

この余剰や余裕の創出ができれば、不安によって駆動される将来的なリスクへの対応のための取り組みに政治的な力と経済的な力を振り向けることが可能になるはずです。

これは現在の政治システムのままでも政治家や政党が政策として将来的なリスクへの対応について今まで以上に強く織り込んでいくことを促すことが考えられますし、より明確な仕組みとして、例えば二院制を取っているなら片方をリスク対応のための政策を決定するための政治の枠組みとして再定義するなどの仕組みの変更も考えられるでしょう。

経済的な面でも、SDGsのような取り組みを熱心に行う企業の商品を優先するような消費者の行動を誘導するような社会的な仕組みを考えたり、余剰資金を集めて将来的な社会リスクの対策に振り向けるための民間組織の枠組みを規定することなどが考えられます。

こうした取り組みは現状でも実施されているものや、その延長線上にあるものがほとんどです。しかし、経済的な余剰と心の余裕が不足しているために、必要な力が得られていないのです。つまり、画期的な仕組みが必要なのではありません。不満駆動型社会の罠から抜け出し、余剰と余裕を生み出すことこそが、重要なのです。


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