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障がい児お世話係 任命って インクルーシブ教育を拒んでいるんでしょうか?
・お世話係はイヤな事?
担任の先生が、障がい児のお世話係を特定の生徒に任命するのは、インクルーシブ教育を拒む
と、SNSで見かけました。
それぞれの児童が、自ら考え、自発的に障害児に配慮する形が理想と、目指す方向には異論はないけれど。
( なんか、ちょっと違う気がしたので、書き出したら色々寄り道してしまって、長文になってしまいました)
「お世話をすること」を「よいこと」と捉える風潮があるからだと思います。
しかし、お世話係は「お世話をする側」と「お世話をされる側」のヒエラルキーを生み出してしまう。ここが問題。
クラスで飼っているウサギ「お世話係」ならどうなるでしょう?
生徒の中には、小動物に触れたことのない子もいるし、逆に、ウサギ家でも飼ってるよ、大好き!な子もいます。
担任の先生が みんな平等や!って、全員均等に同じ時間、当番制にしてウサギの世話を割り当てたなら、近寄れず見てるだけの子、スケジュールを忘れやすい時間を守るのが難しい子、野原へ逃がしてしまう子…
色んな事件が起こりそうです。
危惧されるのは、ウサギの命。
ウサギの世話は、単に「良いこと」ではなくて
「当たり前にしなければならないこと」です。
ボクは常々思っているのですが…
(最近、菅田将暉さんの影響を受けています)
『同調力』って、あると思います。
多くの日本人が、しっかり持っている美しい力かもしれません。
競技観戦後のスタジアムを、みんなでお掃除。
陸上の400mリレーの日本チーム、それぞれの持ちタイム合計で敵わない相手に勝つには、リレーを繋ぐ時のバトンさばきがカギと聞きます。
ラグビーのワンチーム、それぞれの役割で個性を活かし、同調する力が勝利へとつながります。
一方、言葉に力があり、言葉の暴力はヘイトスピーチになるように、服従による意志を伴わない同調力が纏まると、同調圧力という名の暴力となります。
もし、平等に!で当番制にしてしまうと、往々にして同調圧力になりそうで。
みんなで飼っている可愛いウサギ、でも、お世話が出来ない子にとっては、お世話はイヤな事。
だからといって、檻の中に放ったらかし、SNSにUPするときだけ出してきて一緒にピース✌️は許されません。
ウサギは生きています。
国語や算数の授業はパスできても、ウサギのお世話は、クラスの誰かがしなければなりません。
「当たり前にしなければならないこと」です。
ボクは、そう思います。
・平等.公平性の変化
第二次大戦後、焼け野原の何も無くなった日本へ帰って来たものの、働きき先を失った多くの兵隊さんが、教員となられました。
誰もが平等には、全ての人に生きるための食料等が行き渡る事が大原則、背景には悲惨な戦争体験と、飢餓の恐怖の克服があったのではないでしょうか。
教育についても憲法26条は
ひとしく教育を受ける権利を有すると。
全ての人に行き渡るを最重要視していた時代がありました。
ところが、みんな同じの給食、同学年でも既に大人の体格の子は空腹を満たせない、逆に小さい子は食べきれない、残す事も許されない…
むしろ、体格に合わせた食事量の提供が平等・公平なのではないか?
もはや戦後ではない、オリンピック、万博、戦争を知らない子供たち…
時代とともに、平等・公平も変化します。
教育についても憲法26条は
ひとしく教育を受ける権利を有する
の前に記された、その能力に応じてに、目を向けられるようになりました。
ですが、残念なことに、教職の方には、戦後70年を過ぎても未だに、その能力に応じてをアップデート出来ない人達がいます。
昔ながらの軍隊様式の教育、上から下への命令系統は、間違いなく、インクルーシブ教育の障害になっています。
同じ動きの強制は、没個性と紙一重。
お隣の国のマスゲームの映像を観た事が有ります。
演技者全員の無機的な笑顔、一糸乱れぬ動き、それを観る独裁者の満足気な表情が、醜悪なパフォーマンスを増長させていました。
それぞれの個性を活かしつつ、グループとして構成され、観る者をワクワクさせるBTSのパフォーマンスとは真逆。
(比較にさえなりませんね、ごめんなさい)
どうせなら、子供達には、BTSのパフォーマンスを目指して欲しいものです。(私見)
・分離するドレッシングとマヨネーズ
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日本のインクルーシブ教育は、使う時にシェイクする分離型のドレッシング。
本来のインクルーシブ教育は、きっと、マヨネーズ。
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分離する液体が常に混ざったマヨネーズ状態をエマルジョンと言います。
きっと、インクルーシブ教育もダイバーシティも エマルジョン。
水と油のような、本来混じり合わないものの境界面で働いて、均一な状態を作る作用を持つものを乳化剤といいます。
例えば、マヨネーズは、卵黄中に含まれるレシチンが乳化剤として働いて、サラダ油が卵や酢の中に均一に混ざっている食品です。
エマルジョンにするために必要なもの、マヨネーズならレシチン、インクルーシブ教育のための乳化剤って?
⭕正解はこれだ!
なんて自信は全くないのだけれど、
SSW(スクールソーシャルワーカー)が重要な乳化剤の一つになると考えています。
ただ、現状のように
教育委員会⇒校長⇒教員⇒生徒
の縦のライン、校長の横にスタッフで付け加えられても、SSWは本来の力を発揮することが出来ない気がします。
むしろ、教育委員会とは別方向からのアウトリーチ、寝屋川市の監察課 (名称は厳ついけど) スタイルに、乳化剤としての萌芽性を観ます。
期待しています。
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分離したドレッシング、しっかりシェイクすればエエやん。
おそらく、そう思っている教職の方は、多数居られると思います。
しかし、一時的には混ざりますが、しばらくするとしっかり階層ができてしまいます。
また、先生⇒生徒 の一方通行だけでは、インクルーシブ教育は、成り立ちません。
先生は、本来の、児童の学力向上をも担っています。
分離をシェイクすることさえままならないでしょう。
障がい児は、何かのセレモニー以外は、別枠の特別支援学級へ別け隔てられ、階層がしっかり維持される 日本の統合教育はインクルーシブ教育とは別物のようです。
国連に中止を指摘された特別支援学級、日本は無くす事ができるでしょうか?
でもきっと、日本は優秀ですからマヨネーズにできる日が来ます。
知らんけど。
・参加する事に意義がある
オリンピックで謳われる「参加」は
take part in ~
直訳すると、一部分を担う。
欠けてしまったら、全体が成り立たなくなってしまう可能性を秘めています。
しかしまだ、多くの人が誤解している「参加」は、ただ出席すれば良いと。
たとえ自分一人欠席したとて、大勢に影響無いやろ…かまへんやん。
学力の向上は、登校して授業に出席するより、学習塾の方がより効率的なスタイルに思えます。
国 数 社 理 英 体 音 美…
テストで高得点を目指す、技術力、表現力を向上させるだけなら、能力に応じてそれぞれの学科によって、支援級、飛び級を選択、必要ない科目は棄てて良いかもしれません。
能力に応じて。
やりたくないのは、やらんでエエやんと。
しかし、義務教育過程の『学校』には、正解の必ずあるテストで高得点を取る学力以外にも、学ぶものがあるはず。
それは、同学年ホームルームを柱に、道徳、家庭科、保健、倫理社会、福祉、人権、ボランティア活動などひっくるめて… 生活科?
人間としてどないやねん? です。
海外の名の通った大学には、入学の考査に、高学力はもとより、ボランティア等の社会活動経験を要するところもあるようです。
社会には⭕❌では 決まらないない、さじ加減の問題、正解があるのかもわからない問題は溢れています。
情報を収集、取捨選択する力も、大切なスキル、また、人との関わりは、AIに代替え出来ない分野、生きていく上で学ばなければならない必須科目、
人間としてどないやねん?です。
今、最も求められているスキルかもしれません。
障害者雇用の義務化が進んでいます。
生産性を追求し続け、障がい者を包括した社会を想像すら出来ない大人たちにとって、障がい者の受け入れは超難題、未だに合理的配慮って何?
今まで通り、別枠へ排除する方法しか思い浮かべられないのです。
残念なことに、業績を上げる事に偏りすぎ、成人しても
人間としてどないやねん?
が、学べなかった大人達は、ソーシャルインクルージョンに困惑するばかりです。
ボクだって、その中の1人、後れ馳せながら人間としてどないやねん?
学び始めたばかりです。
『学校』での『学校生活』の一部分を担うことは、卒業後、ダイバーシティを目指す社会での『生活』を迎えるにあたって有効な学習機会。
ウサギの お世話も『学校生活』の一部です。
もうすぐ、民間企業まで合理的配慮が義務化になります。
ボクは常々思っているのですが…
健常児と言われる子も障がい児も、今は小さくても、何年か経てばみんな大人になります。
将来、合理的配慮をちゃんと心得て、義務として実践しなければならないのは、おおよそ、今、健常児と呼ばれる子供たちではないかと。
今既に、いち早く 義務化されている所、 ガイドラインをさっと眺めただけで、様々な特性に対して当たり前に合理的な配慮ができるわけがない、ただ避けているだけの合理的排除なのに、それを合理的配慮と唱えていれば、ちゃんとできてると勘違いしてる大人、山ほどいます。
小さい頃から、障がい者が身近な存在で当たり前に関わる環境で育ってくれたなら、合理的配慮のできる大人になってくれると、期待できそうです。
合理的配慮
美徳どころではありません、もう義務です。
担任の先生は、ウサギの世話ができる能力があって、かつ、世話をしようと思う児童を募って、引き受けた子らに任せる手続きを踏むのが望ましいと考えます。
能力に応じて、当たり前のことを、本人の意志で。
障がいを持つ児童についても同様に思います。
ウサギと障がい児を一緒にするな!と叱られるかもしれません。
ごめんなさい。
『学校』に参加すること (take part in ~ )には意義がある… はず。
先生も、生徒も、障がいを持つ児童も、誰もが『学校』の一部分を担っています。
障がい者、LGBT、貧困と、穢れ思想を源に『別枠』へ合理的に排除してきた今までの日本に、ダイバーシティはまだ、絵に描いた餅状態。
将来、ダイバーシティを担ってくれる子供達に、インクルーシブ教育は必須です。
『お世話係』といっても、手取り足取り、何でもかんでもしてあげるのは、余計なお世話。
何が障壁になっていて、どんな支援をするか、本人の望みや意志の確認、コミュニケーションが重要です。
必要な、合理的配慮。
障がい児は当たり前に近くにいて、合理的配慮を必要としています。
いきなりの目指せインクルーシブ、
みんな一緒、ごちゃまぜはステキ!
に即対応して、各児童が自発的に、障がい児に合理的な配慮できるとは思えません。
あなたがお世話しなさい!
理不尽な命令に聞こえるか、
あなたにお世話をお願いします。
本人の意志を尊重しているか、
『任命』の仕方で、受け取る方には大きな違いが生じますが…
『お世話係』の言葉の響きが、押し付け、上下関係のイメージを強くするなら『ピアサポーター』と呼べばどうでしょう。
『ピアサポート』はもちろん『学校生活』の一部を担う事、大事な一部分だからこそ、ピアサポーターの能力を有している児童にしか担えません。
その適材適所の判断を、担任の先生に委ねて、公平で合理的な『任命』に期待するのは自然な成り行きと考えます。
担任の先生によるピアサポーター任命は、インクルーシブ教育を拒むどころか、インクルーシブ教育へと導く重要な行程の一つに違いありません。
ボクはそう思います。