Art Outbound Digest Vol.12
1:写真の位置づけ
今日は写真の公募について概観してみましょう。
写真が実用化されたのは19世紀半ばのことです。
そして、実は、写真をファインアートのメディアとして使おうという試みは19世紀後半には既に始まっていました。
ピクトリアリズム(絵画主義)というのですが、化学反応によって記録された画像を紙にプリントしていくときに、人の手で色々と加工することで絵のように仕上げていくというのがこの時期の考え方です。
今はフォトショップなどの画像加工ソフトが全盛ですが、方向性としては同じ。
ただし、当時はピクトリアリズム写真はファインアートとしてはさほどというかほとんど評価されませんでした。実際に作品を見ても、うーーーーん、大したことねえっすなーこれはというものですね。都立写真美術館に行くと見られるんじゃないかな。見られた気がします。
今だったら間違いなくロリコン犯罪者で炎上のルイス・キャロルの作品もありますね。アリスの作者ですよ。
ロベール・ドマシーのこれなんか典型的なピクトリアリズム写真ですね
ところがこういうのはやっぱりそこまでウケないわけですよ。
で、1920年代からはストレート写真という、余計な加工をしない写真が主流になります。アンセル・アダムスとかエドワード・ウェストン。遡って19世紀のウジェーヌ・アジェやアウグスト・ザンダーなどの写真も評価されるようになった。
この辺の話はどうなんでしょうか、日本の美大芸大では習うんですかね? 絵画史じゃないですからね。複製メディアによるアートだから版画にも近い。版画やポスター。でも21世紀にファインアートをやるなら知っておいた方が良いと思います。複製メディアの美学史。メディアアート公募多いですからね。メディアアート領域に関わる作品制作をやるん
だったら写真史は知っといて損は無いです。損は無いというよりは得しかない。
んーでもまともな写真史の教科書が日本語ではほとんど無いんだよなあ。
あ、飯沢耕太郎とか清水穣とか小林美香は読まない方が良いですよ。飯沢は日本国内の諸々との利害関係が強すぎて、言ってみればポジショントークですよね。彼の立場からのポジショントークになっている。ガーリーフォトとか木村伊兵衛写真賞とか写真新世紀とかひとつぼ展とか、日本ローカルのどマイナーな界隈ですので履修はほぼほぼ不要です。
清水と小林は必要以上に難解な言い回しで些末なことを書いていると私は思っていて、現代アート作家が読むのはコスパが悪すぎる。
たとえば清水穣のこのリヒター展評ね。
この部分。
意味わかりますか?
まずシャインってなんやねんってとこで引っかかると思うんですが。
これ、ドイツ語なんです。Schein.
それをカタカナに写してるんですけど、普通カタカナでシャインって書かれたら英語のshineのことだと思いません?
でもこれ、リヒター論における英語への定訳はsemblanceです。なんせリヒターの英語公式がそう訳してるから。
リヒターが考えていることは多分こういうことです。
物体には表面があります。あなたや私の体にもあるし、目の前のPCにもある。
ところが人間が見ることが出来るのは、それらの物体の表面から飛んでくる光だけです。
ものそのものは光ではないので、光ではないものを見ることは出来ないですよね。人間の体の構造的に無理です。出来ねー。
その、私たちが見ている光の向こうにある、光を反射した(ここでのリヒターはPCのモニターのようにそれ自体が発光するものを想定していませんが、概念の構成には影響を与えないのでひとまず気にしないで良いです)面をリヒターはsemblanceと呼んでいる。そして、それをどう表現するかが私の生涯のテーマなんじゃあああと言っている。
ここまではわかりましたかね?
わざわざこうやって補足しないとわからない文章を書いている時点で、何故私が清水穣はコスパが悪いと言っているかわかってもらえるかな。最低でもドイツ語のスペル付ける、出来れば注で補足しとくのが親切ってもんですよ。
それを何故しないかというと、日本の界隈では「リヒターのシャインといえばあれですよね」「ですよね」「知らないのは潜り」「にわか」「ですよね」みたいな暗黙のアレがあるわけです。アレだなあ。
からのこれ
それってあなたの感想ですよね?
リヒターの作品と言説を精緻に分析した結果としての解釈であれば、こんな断定は出来ません。研究ってそういうもんです。研究は真面目にやればやるほど断定的なことが書けなくなる。
美術批評は逆で、雑でも断定する。論拠がよくわからないのでみんなのアタマの中に????が飛び交う。この構造自体が美術批評を神秘化していたわけですが、だからもうほとんど相手にされなくなったんですよ。
小林美香のこれも同じ。
実証ではなくて感想。感想としては気が利いていてとても面白いんですが、個人の見解でしかない。社会学や心理学なら統計かインタビューか言説分析かで証拠を積み上げるんですが、どれもやっとらんからね。
70年代までならともかく、今はあらゆる学問領域とアートがクロスオーバーする状況なんで、文芸批評の方法論は、まあ面白いし示唆的な部分もあるけれど、言ってみればテクノロジーとしてはせいぜい初代から5代目のカローラみたいなもん。
味はあるし5代目なんかAE86は今も熱狂的なファンがおるくらいだけどさ。どっちがエコで快適で安全かつったら最新型に決まってるじゃん。
いや、感想は感想、雑な断定は雑な断定、批評は批評で良いんですけど、こういう文章は「それってあなたの感想ですよね」ってことが見分けられる私のような人間向けのチューニングなんですよ。ちゃんと勉強してMFAやMAくらい取らないとそこは見分けられない。
趣味で読むなら良いんですけど、実作者がそこまでコストかけるよりは制作に時間使った方が良いです。ま、どれもあなたが読みたければ読めば良いんですが、もっとリソースを優先配分すべきところがいっぱいあると私は考えますね。つまるところROIが悪すぎる。
極端なことを言えばね、同じ時間とカネを使うなら日本語美術批評村の文章なんか読んでるより、むしろ単純に英語の勉強した方が良いです。
そうですね。今だと伊藤俊治のこれですかね。本当はもうちょっと入門サイドに振ったチューニングのが良いんだけど。理解を深めて腹落ちさせるにはウェブ読書会とかやるのもありかもしれないですね。(個人的にこれをもう少し深めて学んでおきたいというものがあればご相談ください)
さてさて本題に戻りましょうか。
写真。現代アートのメディアとして写真が本筋、本流の一つになったのは1970年代です。
もちろんそれ以前にもマン・レイとかラルティーグとかスタイケンとかアートとしても今日高く評価されているフォトグラファーはいっぱいいましたよ。リチャード・アヴェドン、ロバート・フランク、ブラッサイ。ですが、そういう人たちは後から「これもアートだよね」という形でアートに編入されたのであって。
「よし、私は現代アートを制作する! 今回使うのは写真だ!」
という、出発点から現代アートが念頭にあった人が現代アートのシーンの真ん中に現れるのが70年代。ハンス・ハーケの”Shapolsky et al. Manhattan Real Estate Holdings, A Real Time Social System, as of May 1, 1971”とか、ゲルハルト・リヒターとか、ベッヒャー夫妻あたりが70年代のアタマにみんなの視界に入ってきた。そしてシンディ・シャーマンの Untitled Film Stillsが1977-80年。
もちろん、1970年代に現代アートのメディアとして浮上したのは写真だけではなく、ビデオなどメディアアート全般です。そこは見落としちゃだめです。
で、そこからはグルスキーとかティルマンスとかスーパースターが続く。
グルスキーの新美術館の個展、すごかったですよね。
カタログも買いましたよ。
ナン・ゴールディンとか。ロバート・メイプルソープ。トマス・ルフ。リネケ・ダイクストラ。キャサリン・オピー。バーバラ・クルーガー。女性多いですね(良いことです)。ザネレ・ムホリくらいになるともう日本では知られていないですけど。
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