記憶力が落ちたことを「老い」や「時代」のせいにするより
まじで記憶力が低下している。
それは、年齢によるものもあるのだろうけど、時代的なものもあるのではないかと思っている。
時代のせいにしたいだけかもしれないけど。
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一昔前、ほんの20年ほど前。
まだ携帯電話が誰でも気軽に持てる時代ではなかった。もちろんスマホなんてない。
だから私は10代前半まで、自宅のみならず友人や日常生活に必要な人の電話番号(家電)をいくつか暗記していた。
スポンジのようにあらゆることを吸収していく子どもの怖いくらいの記憶力があったとしても、当時は両親も、祖父母ですら、よく使う電話番号というのは暗記するものだった。
当時の電話が、ダイヤルを回したり、ボタンを押したりするという物理的な動作が必要だったのも大きいだろうけど。
そのうち家電にもナンバーディスプレイ機能が登場し、あっという間に家に家電を設置しないことすら珍しいものではなくなっている時代になった。
今、私が覚えているのは実家の家電と、書類等で記入する機会も多い夫の電話番号くらい。
あなたはいかが?
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いろんなことが自動化されて、「あれ、なんだっけ?」って思ったらすぐに検索出来て、自分で求めなくてもあらゆる情報が次々にやってくるから、必死に(覚えておこう)(忘れないようにしよう)と努力することがものすごく減った気がしている。
これは、たとえば旅行でも、片手で気軽に写真が取れて、現像しなくてもいつでも見ることが出来て、アルバムを用意しなくても保存や共有をすることができるから、旅先でも(この景色を目に焼き付けよう)とか(この料理を忘れないようにしよう)とかいう、願いにも似た想いを込めることが少なくなった気がする。
それは、なんか、私の脳を、力を、存分に使いきれていない気がして、もちろん最新技術は便利は便利だし助かることの方が確実に多いのだけど、一方でどんなにいろんな感動や経験を「全力で受け止めてやるぞ!」と挑んでも、それに対する内面的な筋トレのようなものを便利さに頼ることで怠っているから、忘れたくないのに、大事なことがすきま風のようにスゥーっと体の中を通り抜けて流れて行ってしまう感覚。
これは、私をほんの少し寂しくさせる。
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ただ、忘れることが増えることを単なる「老い」や「時代」のせいにしたくはない。
なぜなら、忘れることは人を助けるものでもあるからだ。
たくさんのことをスポンジのように吸収しながら大人になり、そのなかで吸収しすぎて疲れたり、抱えきれずに溢れたり、必要ないものまで巻き込んで苦しんだりもした。
それを、丁寧に忘れてきたから今がある。
私は30代でまだまだ若いけれど、それでも10代の記憶力には勝てない。
でも、あの頃より上手に忘れられるようにもなっている。
嫌なことがあっても辛いことがあっても、ひとしきり悩んだり反省したりした後は、「よし!終わり!忘れよう!」と意図的に記憶の彼方に放り投げられるようにもなってきた。
そうか、これは「変化」なのだろう。
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私も時代も「変化」する。
かつてのようにうまくいかないことも、これから訪れることに苦戦することもあるだろうけれど、とりあえず今はそのこと自体を「変化」として受け止めてみることにしてみよう。
これは、私をほんの少し楽しくさせた。