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天国をのぞき見した日

2013年、夏の終わり。
私は、人生で一番美しい夕暮れを見た。

あの日、私はちょっとした海に囲まれた観光地に午前中から1人で出かけていた。
軽食スタンドや移動遊園地などもある、華やかで楽しい場所。

日中はたくさんの家族連れやカップルの笑い声で賑わっていた場所も、日が傾くにつれて人は減り、風も冷たくなっていく。

海にせり出したような木の遊歩道を、1人で歩く。
すれ違う人の数もゆっくりと少なくなっていき、空がほんのり赤みを帯びてきた頃には、前にも後ろにも人は見えなくなっていた。

遊歩道から海を見ると、まるで海の上に立ってるような感覚になり、それは空に浮かんでいる感覚にも似ていた。

相変わらず周りには誰もいない。もうすぐ日が暮れる。
初めて訪れる場所で、すっかり暗くなってしまうまでうろつくのはあまり良くない。

世界を独り占めしたような気分もそぞろに、私は再び遊歩道を足早に歩いていた。

あれは突然のことだった。

黙々と歩いていた私の右側。海のある方が、急にぱあっと光った気がした。
段々と暗くなっていく中で、一瞬だけ右目の端になにか明るいものを感じた。

顔を向けて、思わず立ち止まる。

そこには、赤でも青でも白でもない。
ピンク、黄色、紫、水色……
さまざまな色が白いベールに覆われたようなパステルカラーで、空をいっぱいにしていた。

なんだこれ。

鳥肌が立って、涙が出そうになっていた。
それまでどんなものかなんて具体的に考えたこともなかったけど、天国だと思った。

なんて綺麗なんだ。こんな空があるのか。

ふと我に返り、カメラを向けた。
何枚か撮ってみたけれど、どれも目の前にあるものとはまったく別物を写していた。

本当に綺麗なものは、写真に写らないのか。

それならば、せめて目に焼き付けようとじっと眺めた。

この素晴らしい景色を誰かと共有したい、いっそ知らない誰かでもかまわないと思っても、やはり周りには誰もいなかった。

.

時間にしてみれば、もしかしたら5分もなかったのかもしれない。

でも、私は生きながらにして1度、天国に行くことができたと思った。
よくわからないけど、そう思った。

たぶん、下界と天界が一瞬つながるタイミングで、神様は私の存在にうっかり気付かなかったのだろう。
そんなバカげたおとぎ話を唱えだすほど、強烈な美しさに支配されたのだ。

そして、はっと気が付くと空は藍色に変わっていて、いつの間にか夜の手前まで来ていた。

空が暮れても、私の心はまだ強烈に痺れていた。
「見てしまった」と思った。見てはいけないくらい美しいものを。

あたりはすっかり暗くなり、ぽつんぽつんとある小さな街灯を頼りに港を目指して歩いた。

反対側の海沿いに出ると、海向こうの街に立つビル群のきらびやかな光が現れた。
人の気配を感じた。

港に着くと、いよいよ何人かの人たちが集まっていた。私はまだ下界にいる、と思った。

.

あれから10年ほど経つけれど、私はまだ下界で、せっせと生きている。
その間に美しい夕暮れを見ることは何度もあったけれど、あれほど美しくて恐怖すら感じるような、見てしまったと思えるようなものは1度も無い。

あの時の私は、無限の好奇心とおさまりのつかない不安を全身に抱えていた。
楽しいこととしんどいことがいつも寄り添っていた。

あの光景を思い返すと、当時の感情まで蘇ってくる。
私は目にも記憶にもしっかり焼き付けることに成功したようだ。

いまでもあの空気を思い出せる。

この先、どんな光景や経験に遭遇できるかはまったく未知で、だからこそ楽しみにしていられる自分でありたい。
そして、写真に残せないものをちゃんと記憶に残せる力を失いたくない、と切に願う。

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