#15 花蓮で日本統治時代の面影をたどる
さてさて、よくもまあここまで寝かせることができるわねってくらい時間をおいてしまいましたが、ようやく再開です。
書いては消して、書いては消して、を繰り返し、正直いまもこれがベストな表現かというと自信はないのですが、寝かせすぎて目を覚まさなくなっても困るので公開します。
今回は旅行記というより、歴史や戦争の色が濃い内容です。
前回の記事
そもそも私が花蓮に行くことにした理由は、大感動した太魯閣渓谷でも激うま小籠包でもなかった。
もちろんきっかけは周りの人たちのおすすめだったけど、当初タロコにさほど興味が無かった私は、他になにか見どころがあるか、興味が湧くものはないかを旅のすき間で調べていた。
そして、そのなかで花蓮という町は日本統治時代に移民政策の一環として多くの日本人が入植したこともあり、統治時代の面影が色濃く残っている場所だということを知った。
私にとって、花蓮行きを決めたのはこれだった。結果的には太魯閣も素晴らしすぎたので本当に行ってよかった。
ところで、日本がかつて台湾を植民地化していたことはどれくらい知られているのだろうか。
近年では、台湾は人気旅行先の上位にいるけれど、かつては日本国とされていたことを知る人はもしかしたら少なくなっているかもしれない。
日清戦争の結果、台湾が日本の領土として分けられ、さらに日本軍による武力侵攻により平定したことで、1895年から第2次世界大戦が終わる1945年まで、約50年ものあいだ日本は台湾を日本国として治めていたという過去がある。
10年ちょっと前までは、"台湾のお年寄りは日本語が話せる"と言われていたのはこの時代の日本語教育の名残だ。
でも、戦後ももうすぐ80年経つ今では、統治時代に教育を受けた年代でご存命の方は限られてくるだろう。
でも、過去が消えるわけではない。
花蓮文化創意産業園区
日本統治時代の1913年にお酒の工場として建てられた場所。
太平洋戦争の空襲で大きな被害も受けたものの、現在は美しくリノベーションされている。
立ち入れない場所もあるけれど、多くの建物がトイレや休憩室、ショップの他に、企画展示やアーティストマーケット、アートプロジェクトを開催する文化の中心地として活用されているのが見受けられた。
台湾では、古い建物の使い方が本当に上手だなと思わされることが多い。
なにより、リノベーションが目的ではなく、人が集まる場所としてしっかり機能しているのが素晴らしい。
この日もハンドメイド系のイベントが行われていたようで、おしゃれな人たちがたくさん出入りしていた。
団体ツアー客はあまり見られず、個人で訪れている人が多かったので、観光スポットというよりは憩いの場的な位置にあるのかもしれない。
私がここに来た目的は、かつて台湾を統治していた日本人の痕跡と先住民に関する展示をしていると知ったから。(※常設か期間限定かは不明)
平成生まれの私には、今の日本の領土だけが日本国という感覚しかないので、正直、海外の土地がある日を境にいきなり日本とされることや、言葉や文化が異なる土地で自分の国として暮らす感覚がわからない。
でも、わからないで済ませたくはなかった。
自分の生まれる前のことでも、「関係ないし」って言いたくない。
大小含め島が集まってできている日本では、陸続きの国に比べて"国境"という感覚が薄いと思う。少なくとも私はそうだ。
海外を陸路で旅行した経験がなければ、多くの人にとって国境は飛行機で超えるものという認識なのではないだろうか。
でも、そんな日本でも、今も領域に関して他国と主張のぶつかり合いが続いている。
国や領土というのは、絶対的なように思えて実はかなり揺らぎのあるものなのかもしれない、という感覚は見聞きするニュースの中でぼんやりとあった。
だからこそ、侵略した側としての歴史も知らなければと思った。
どうしても「された側」の話には過敏になっても、「した側」の話には目をそらしがちになってしまうことってあると思う。
でも、誠意をもって見つめれば、そこには反省とともに学びがあると信じたい。
展示室には、原住民と日本人が並んでいる写真や日本人が台湾から日本に宛てたハガキをはじめとした当時の資料が並んでおり、かつてここに日本人の暮らしがあったことを実感した。
貸し切り状態で展示を眺めていると、後から白髪の美しい年配のご夫婦とガイドと思われる方々が入ってくる。
静かな展示室で聞こえてくる彼らの会話は日本語だった。
どうやら日本人のご夫婦と台湾人のガイドのようで、夫婦間では日本語で、ガイドさんとは英語で会話している。
推定される年齢にしては、ふたりとも英語を使いこなしているのが珍しいなと思った。
彼らとの距離が近づいた時、思い切って「日本の方ですか?」と声をかけてみると、女性は「あら、あなたも?私たちは北海道から来ました。」と答えた。
「そうでしたか。日本語が聞こえたので、つい声をかけてしまいました。驚かせてしまったらすいません。」というと、彼女は「あなた、こういう場所に興味があるの?」と。
うーん、興味がある、か。
まあ、興味があるから来ているのに違いはないのだけど、”興味”という単語はいまいちしっくりこないような。
なんて考えていたこともあり、なんとも歯切れの悪い返事をする。
「…そう、ですかね。ここにいた日本人のことも先住民のことも、ただ、なんていうか、知りたくて…。どんな存在だったのか、交流はあったのか、統治って感覚も勉強不足でわからないので…。ただ、こうして日本語の手紙を見たりすると、やっぱりここに日本人が住んでいたのか、と実感させられますし…」
とまあ、こんな感じに。しどろもどろ。
すると女性は「そうですか。」と口にすると、表情を変えないまま一息おいて「でも、台湾も先住民もめちゃくちゃにしたのは日本人ですよ?」と言った。
穏やかでやわらかい口調と表情ではあったけれど、そこに確かに鋭くひんやりとしたものを感じた。
(あ、この人はとても知っている人だ。)
うまく言えないけれど、もっと深く、もっとリアルにきっと何かを知っている人。その一瞬の機微に、一言二言のやりとりをしてから私はゆるやかにその場を離れた。
ドキドキしていた。いや、なんだろう、怖かったという方が近いかもしれない。
無知ということはこういうことだ。
歴史に鈍感ということはこういうことなのだ。
表があるものには必ず裏がある。目に見えるものだけが事実ではない。
そこに思い至ることができずにいると、不用意に誰かを傷つけたり怒らせたりすることがある。
あの女性は決して私に対してなにか悪意を向けたわけではない。それは明確にわかる。
しかし彼女の中に、それは怒りなのか悲しみなのか正体はわからないけれど、とても鋭い感情を見た。
――そうか。いろいろ考えたふりしても、しょせん私は”興味”でしかなかったのだ。
もちろん興味が悪いわけではない。
でも、過去の出来事や歴史の中には、興味や好奇心でのぞかれたくない場所が必ず存在することを忘れてはいけない。
きっかけは誰しも興味から始まる。
けど、もしさらに奥に踏み入れようとする時は、その場所に必要な知識と振る舞いを身に着けてからでないといけない。
これは人間関係全般にも言えることだよね。
旅の道中、きっとどこか浮足立っていた私を、ピシャリと戒めてくれるような数分間の出来事だった。学びである。感謝している。
敷地内には、日本時代に使われていた幹部の寮?を再現した日本家屋が並ぶエリアがあり、実際に中に入ることができた。
ここも、企画展示室やアーティストの販売ブースとしてうまく使われていて、和風建築の中に今どきで可愛らしいハンドメイドのアクセサリーや雑貨が並んでいる光景は、歴史の背景無しで見ればとてもおしゃれだ。
一方で、おそらく日本統治か第二次世界大戦に関する漫画が展示されていて、絵から見るに台湾側の視点で描かれているもので、かなり興味があったのだけど、いかんせんすべて中国語(台湾語)。
理解できないのが残念過ぎた。
後から、翻訳機能使えばよかったのかと思ったけど、でも、イラスト描写からだけでも感じ取れるものはあった。
とはいえ、花蓮文化創意産業園区は全体的には明るく非常に開放的で、建物も美しくよく手入れされているので、立ち寄りスポットが限られる花蓮で休憩に立ち寄るにはかなりおすすめ。
敷地内には街のインフォメーションセンターや給水器もあり、ありがたいことに入場料もかからないので近くに行った際はのぞいてみてもいいかと!
松園別館
植物の美しい緑がなんとも美しいこの場所は、日本統治時代に軍の重要な拠点だった場所。
いまや花蓮のウェディングフォトスポットとして大人気らしい。
松園別館という名の通り、園内にはたくさんの立派な松の木が生えているけれど、そもそもは雨風をしのぎ、さらに外から見えにくくする目隠しのために100本ほどの松を沖縄から移植したのだそう。
確かに朝の散歩も兼ねて市内から歩いて向かったのだけど、丘の上にありながら園内に入るまで建物の様子はまったくわからなかった。
高台にある園内に入るとすぐ地平線まで海が見えた。この日は天気も良く、遠くまで見晴らせる。美しい。
そう、見晴らしがいいということは、ここが見張り台だったということだ。
いま私が気持ちよく景色を堪能できる場所に、かつて海や空の向こうに敵が現れないかと、常に気を張り詰めて立っていた人がいたのかと思うと胸が痛む。
美しいものの美しさを心置きなく満喫できることは、幸せなことだ。
目の前にある美しさに対する感動と過去の歴史の重たさを行ったり来たりする。
防空壕。その向こうには分厚い爆薬庫の扉。
体を横に傾けないと入れないほどの狭い入口。
中は非常に狭い。
昔の日本人は今より小柄だったらしいけど、それにしても狭かっただろう。
いったいこの空間に何人入っていたのだろう。
小木屋と呼ばれる神風特攻隊が出発前に御前酒を飲んだ場所。
多くの青少年が犠牲となった特攻作戦といえば、鹿児島の知覧が知られているけれど、花蓮港北飛行場からも出撃が行われていたのだそう。
ここは、隊員が出撃前に滞在し、天皇からのお酒を賜る場所としても使われたのだとか。
観光地でありながらここだけ切り取られたように静まり返る空気と、ピカピカに磨かれた床板が、無言で何かを伝えているような気がした。
防空壕や小木屋には私以外誰もいなかったものの、平日の開園時間すぐにもかかわらず、園内には個人や団体のツアー客がたくさん!
みんなレトロな洋館と緑の美しい場所で次々と楽し気に写真大会を開催していた。
それも納得できるほど、本当に美しい場所だった。
手つかずのワイルドな自然ももちろんいいけれど、国を問わず、職人が丁寧に手入れしている庭園も格別の美しさがあって好きだ。
意外なことに、松園別館で木造建築は小木屋のみで、あとは重厚な石やレンガ造りの洋館だった。
そしてそれがなんとも洗練されていて美しいのだ。
軍関係の建物だから、頑丈さや無駄のなさ、ましてや目立たなくすることが重要であっただろうけど、その中で出来る美を追求したであろうことが素人目にも感じられる。
メインの建物の端から端までつながる2階の外廊下からの景色は、いつまでも眺めていたくなるようだった。
本当にこんなに心地よく美しい場所が、戦争の、軍の拠点だったのだろうか。
でも、そう思えることはいいことだと思う。
過去の重たく辛い歴史が信じられないくらい美しく、誰もが立ち寄れて、笑いあえて、幸せを楽しめる場所になったとしたら、いいことじゃないか。
見ないフリをするのではなく。
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台湾には、日本に限らず他国の植民地時代の建築物を中心とした遺跡が多く残っている。
壊したり消したりするのではなく、残して、必要に応じてリノベーションして現代に活用してしまう、台湾の人々の懐の広さとポジティブで貪欲な気概を感じてならない。
考えることは尽きない。知りたいことも山積みだ。
でも、自分の興味関心に従って、調べたり学んだりできることは本当に平和あってこそ。
帰国後、台湾統治に関する書籍を図書館で借りた。
まだまだ勉強不足だけど、いままでまったくわからなかったものが、うすぼんやりくらいには見えるようになった。
花蓮は、個人的にとても学びの多い街だった。
あと、さらに個人的には台南の次に食べ物が美味しい街だった。