『この世にたやすい仕事はない』津村記久子(新潮文庫)

新卒から14年勤めた仕事を燃え尽き症候群のような状態になって辞した後、失業保険も切れてしまった主人公の「私」は、職業相談員に「一日コラーゲンの抽出を見守るような仕事」というふざけた希望を出す。
その結果、彼女に与えられたのは。
隠しカメラを使った小説家の監視する仕事。
巡回バスの広告アナウンスの原稿を作る仕事。
おかきの袋の裏のコラムを考える仕事。
家々を訪ねて啓発ポスターを張り替える仕事。
森林公園を管理する小屋での簡単なお仕事。
という、一風変わったマニアックなものだった。

知り合いに、本屋で自分が惹かれるコーナーやタイトルで自分の状態を確認する、という人がいる。疲れていれば健康関連、仕事に行き詰っていれば自己啓発、息抜きをしたければ小説、などなど、何も考えずに歩き回り、目に留まるタイトルによって逆算するのだそうだ。
今作のタイトルは、見た人にどのような印象を与えるだろう。
冷静に読むと「犬は四本足で歩く」くらいに当たり前のことが書いてある、と僕は思う。
贅肉を削ぎ落としてシンプルにしすぎて、小説とは思えないほどニュートラルになっている。
だからこそ、仕事をしている毎日に何か思うところのある人にとっては正負や軽重を問わず引っかかる言葉なのではないだろうか。当たり前であるがゆえに重くのしかかる人もいるだろうし、そりゃそうだろと鼻で笑ってしまう人もいるかもしれない。
いずれにしろ、インパクトのなさが逆にインパクトになっていて、仕事をしている人は無視できないタイトルなはずだ。

多様な職業を渡り歩いていくお仕事小説、となれば、行く先々で快刀乱麻の活躍をする主人公の颯爽とした振る舞いが想像されるかもしれない。
ひどい上司に悩む人を助けたり、売り上げの低迷する商店を見事に救ったり、そういうものがいわゆるお仕事小説というもののイメージだろう。
この作品にそれを期待していても、どの角度から読もうが、ページを透かして裏から読んでも、ストーブの熱であぶってみても、求めたものは出てこない。
語り手である彼女は非常にまじめで器用なので、一定の成果を上げることになるが、それが大絶賛されたりその職場を変えてしまったりはしない。あくまでも与えられた職務の中で、その責任を果たしているだけだし、彼女自身もつとめてそのように受け止めようとしている。
めでたしめでたし大団円という盛り上がりは、残念ながら、ない。

ところが、これが不思議と面白い。
彼女が携わる仕事があまり一般的でないということもあるだろうけれど、仕事の内容や手応え、関わる人たちの様子など、仕事をしていれば入ってくるであろう情報の全てが、些細なものまで具体的に描きこまれているから、というのが大きい。
まじめに前向きに仕事に取り組めば、短い時間であっても見えてくることは多い。
なぜ自分は売れない小説家を監視しているのか、アナウンス原稿を作っている先輩と路線で起こる不思議な現象との関係、啓発ポスターの隣に貼られているどこか不自然な印象のポスター、詰めている小屋の周りにある奇妙な落し物、などなど。
改めて確認してみると、他の小説であれば大々的に取り上げられたかもしれないものが多い。
でもこれらにも、あくまでも仕事の範囲内で、非常に理性的に抑制された感じで取り組んでいく感じが、津村記久子の淡々とした表現で描かれると、どうにも面白くて病み付きになるのだ。
深入りせず、あっけらかんと提示される結末にも拍子抜けはなく、むしろ現実との距離感なんてこれくらいだよなと親近感すら覚える。
独特の風味とでも言えばいいのか、後を引くよい味わいなのだ。

そんな当たり前のタイトルで当たり前のことが書いてあるこの小説について、大雑把にまとめると、前職で心身ともに疲弊してしまった主人公が、再び社会に出て働くことができるのかということを自分自身に問いかけるためのリハビリ、言うなればお仕事セラピーの過程をつづった物語だ。
様々な職場で孤独に作業をしたり、社内の意見を聞いたり、外部の人と交流したりしながら、彼女は仕事との距離を測っていく。
生きていくためには働かなければならない。その大前提はもちろん理解しているし、そうなるように努力をしている。しかし、生きていくために働くことは必要だが、働くためには生きていかなくてはならない。仕事に全てを捧げてしまうと、生きていくことはできないのだ。
だからこそ、彼女は仕事をしている自分を冷静に見つめ、常に仕事に飲み込まれないように慎重に、しかし誠実に勤めを全うしていく。

知らない仕事をやることは未知の世界を冒険するにも等しい。
彼女の冒険は世界ではなく、自分を救うためのもので、クエストの成功報酬は地位でも名誉でもなく、明日も働けて、明後日以降も生きていけるという安心だ。

その姿がふと自分に重なる。
自分もまた毎日を冒険している。
たやすくはない仕事をしているのはなぜなのか。
何度も何度も問いかけながら、それでも仕事は続いていく。

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