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空間とは何か(5-2)建築学的数学の終焉(2)「数学の汚染」について

ウィトゲンシュタインはよくわからない

最近、ベルグソン哲学の研究で有名な平井靖史さんに、C.Diamond, "Riddles and Anselm's Riddle"(なぞなぞとアンセルムスのなぞ)Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volumes Vol. 51 (1977), pp. 143-186を勧められて読んだ。私は正直に認めるが、この論文は私にとって「極めて難しいものだった」。私は普段から「建築学的数学の終焉」などと標榜し、それなりに21世紀現代数学の姿について客観的・批判的な視点を持つように心がけてきた。しかし、それでもなお、研究者として現代数学のパラダイムにドップリと浸かってしまっている私には、そもそもこの論文が何を言いたいのか、どんな方向性の議論が展開されているのか、つまり極めて表層的なことすら、解読するには至難の業だった。自分にはまだまだ訓練が足りていないと痛感した。

私はウィトゲンシュタインに興味を持ったことは、今までにも何度かあり、その度に『論理哲学論考』など眺めてみるのであるが、残念なことにあまり面白いと思ったことはない。ウィトゲンシュタインは数学や数学の基礎についてもさまざまなことを述べていて、私もいろいろつまみ食い的に(系統的ではなく)見てきたが、正直「何を言っているのかわからない」という感じだった。最近だと、2015年に『ウィトゲンシュタインの講義・数学の基礎篇・ケンブリッジ1939年』(コーラ・タイヤモンド編、大谷弘・古田徹也訳、講談社学術文庫)が出て、私も通読してみた。面白いと感じる部分もあったが、「あまりよくわからなかった」というのが正直なところだったと思う。

ウィトゲンシュタインは数学に対して何を言いたいのか?とにかく、その真意がよくわからないのだ。だから、私はずいぶん長い間、次のように考えてきた。「おそらく、ウィトゲンシュタインは現代数学を誤解しているのだ。数学は彼が考えているようなものではない。20世紀後半以降の現代数学の壮大さと深さ・豊かさを知れば、ウィトゲンシュタインの発言も変わるだろう。」

Riddles and Anselm's Riddleも同様だった。最初はやはり何が言いたいのか、よくわからない。よくわからないものを読み続けるのは難しい。文章を読みながら、自分の感覚とのミスマッチには常に悩まされた。本文では否定的とされるべき内容が、私には肯定的に素直に読めてしまったりする。「〜することは、〜することとは違う」という形の文章がよく出てくるが、どうして「違う」のかよくわからない。

「AはBとは違う」という文章が腑に落ちるには、ある程度Aについての理解が深まっていなければならない。いや、A自体というよりは、もっと外的な意味でAの取扱方法がわかっていなければならない。しかし、そこが判然としない。その上、「B」という例は一見して「A」によく似ているものから選ばれていたりいするので、ついつい「AはBに似ている」と言いたいのだろうという読み方をしてしまう。だから、「AはBとは違う」と言われると「え!どうして!」的なパニックに陥る。要するに、こちらが先入見的に持っている感覚が、ことごとく「…ではない」にされてしまうわけだ。思い返せば、ウィトゲンシュタイン自身の書くものからも、同様のことを感じることが多かった。

というわけで、私のRiddles and Anselm's Riddle解読は困難を極めた。しかし、理解するためにできることは、何度も繰り返し読むことしかない。そして何度も何度も繰り返して読めば、それなりにわかってくることも多い。私はいきなり全部を読むことは諦めて、まずは第I節を何度も読んだ。そうすることで、コーラ・ダイヤモンドの口を通してウィトゲンシュタインが何を言いたいのか、少しずつわかってくるようになった(と思っているだけだが)。もちろん、今でもよくわからないことは多いし、きっと私はまだ多くの誤解をしているだろう。そうした誤読も含めて、次第に自分なりに議論を再構築できる(勝手に思える)ようになってきた。

集合論による「汚染」

読み進めながら最後の部分に来たときに、私はウィトゲンシュタインのある衝撃的な言葉に出会って「ギョッ!」とさせられた。それは次のようなものだ。

Die Mathematik ist ganz durch die perniziöse mengentheoretische Ausdrucksweise verseucht.(数学は悪質な集合論的表現様式によって完全に汚染されている。)

Schriften von Ludwig Wittgenstein, Band 2, Philosophische Bemerkungen,
Suhrkamp Verlag (1964), p.211より引用(日本語訳は拙訳)

「集合論的表現形式による汚染」とは、一体どんなものだろうか?この言葉は、コーラ・ダイヤモンドによっては、次のような文脈で引用されている。

What difference it makes, that "this language-game is played", depends on the game. Set theory is 'played', too. But Wittgenstein wanted to show that it wasn't what we'd taken it for—and he thought that our interest in it would be very different once we saw that. I'm not suggesting that that is what Anselm's talk of God is like, but that there is no support in Wittgenstein for the idea that if a form of words has a place in some activity, that form of words is not expressive of deep confusion. ("Mathematics is ridden through and through with the pernicious idioms of set theory."—PR 211.) He spoke in connexion with set theory of the glitter of the concepts. The 'glitter' of the concepts here is even more dazzling: what after all are we talking about but that than which nothing more dazzling can be conceived?
(「この言語ゲームはプレイされている」ということからどのような違いが生じるかは、そのゲームによる。集合論もまた「プレイされている」。しかし、ウィトゲンシュタインは、集合論が我々が思っているようなものではないことを示したかったのだ。このことを見てとれば、集合論に対する我々の関心は非常に違うものになるだろうと彼は考えた。アンセルムスの神についての話がそうだと言っているのではない。ある言葉の形式がある活動において位置を占めているのであれば、その言葉の形式は深い混乱を表現するものではない、という考えをウィトゲンシュタインは支持していないということが言いたいのだ。(「数学は悪質な集合論的表現様式によって完全に汚染されている。」PR 211ページ)。彼は集合論に関連して、概念のきらめきについて語った。ここでの概念のきらめきはさらに眩しい。結局のところ、それより目が眩むものが考えられないもの以外に、我々は何について語っているのだろうか。)

C.Diamond, Riddles and Anselm's Riddle, p.166(日本語訳は拙訳・太字強調は筆者)

これを見ただけでは、この言葉がここで引用されている理由は、必ずしも明らかではない(と、少なくとも私には思われた)が、基本的には次のようなことが言いたいのではないか。すなわち、

  • 集合論という「言葉の形式」は、数学という活動において一定の位置を占めている。

  • しかし、だからといって、集合論がその深層において数学に深い混乱をもたらすものではないとは言えない。

  • 実際、ウィトゲンシュタインが言っているように、集合論は数学を汚染している。

  • そして、その汚染によって我々は「眼が眩む」ほどきらめくものより他のことを見落としているのである。

数学者の立場からすれば、集合論はさまざまな数学的対象や現象を統一的に取り扱うツールとして極めて便利なものだ。しかも、それは数学者にとって(擬似的にせよ非擬似的にせよ)共通の存在論的基盤をも提供する。少なくとも、ほとんどの数学者はそう思っているだろう。しかし、ウィトゲンシュタインによれば、それは単に「眼が眩まされている」ということなのだろうか。もちろん、私は集合論には限界があるとは常々感じており、だからこそ「建築学的数学の終焉」などと標榜しているわけだ。しかし、集合が数学を汚染するとまでは考えたことがなかった。

この少々過激な言明についてもう少し詳しく理解するには、少なくとも、次の2点について検討する必要があるだろう。

  • コーラ・ダイヤモンドのRiddles and Anselm's Riddleの主要な論旨の中で、上記の引用部分がどのように位置づけられるか。

  • ダイヤモンド論文の引用元であるウィトゲンシュタインのPhilosophische Bemerkungenにおいて、問題の言葉はどのような文脈で現れるのか。

今回は前者の点について、その概要を述べようと思う。後者についてはその本論を次回(建築学的数学の終焉(3))に持ち越すこととし、本稿の最後に少しだけ示唆を与えるにとどめる。

「なぞなぞとアンセルムスのなぞ」

というわけで、ある程度Riddles and Anselm's Riddleの中味について書かなければならなくなった。上にも書いたように、この論文はおそらく私はもっとも苦手とする類のものだ。確かに、私はこれを理解するために何度も何度も読んだ。しかし、まだ自分の理解にはどこか未成熟なものがあると感じる。だから、以下に書くことはそのまま鵜呑みにするべきではない。

ある種の「なぞなぞ」に答えようとすることが難しいのは、(真理や事実、あるいは社会通念などに基づいた)「答え」を探す(知っている)のが難しいのではなくて、その問いをどのように理解するべきかを知ることが難しい(普通は不可能)ことにある。例えば、スフィンクスがオイディプスに出題した「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か?」というなぞなぞに対する「人間」という答えは、それを知れば確かによい答えだわかるというものではあるが、何らかの事実性や通念に基づいたものではない。この場合、問題は答えを導出する出発点にすらなっていない。むしろ、「人間」という答えを知ることによって、そもそもの問題自体をどのように理解するべきかがわかる。どのようにして「人間」が答えになっているかを理解することが、問題自体を理解することになっている。

つまり、ここで行われているのは、知識量を競い合うゲーム(どれだけ物知りか)ではなく、「言語的決定」とでも呼べることである。命題や問題の真意は、必ずしも事実や真理に依存しているわけではない。

以上の行為のメカニズムを、もう少し噛み砕いて理解するために、ここで「記述(Beschreibung)」という少々曖昧な言葉を、注意深く、しかも大胆に取り扱う必要が出てくる。(もちろん、「噛み砕く」のはウィトゲンシュタインでもコーラ・ダイヤモンドでもなく、不肖私(加藤文元)なので、ここから先の話は眉に唾をつけて読まなければならない。)

まず、言うべきことは「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くもの」は、そのままでは「人間」の記述にはなっていないということだ。普通の(事実や真理や社会通念に基づいた)意味では、「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足」の歩行動物はいない。すなわち、それは存在しないものであり、探究する(Suche)ことのできないものであり、有限の手段では到達できないものである。つまり、ここでなぞなぞとその答えが相互に行っているゲームは、このように「存在しないもの」を「記述」に換えるという作業である。この記述への変換こそが、「言語的決定」のメカニズムに他ならない。

答えが見つかる前のなぞなぞには、まだ記述するべき何物も存在していない。答え(=それを知ればそれが唯一だとも言えるようなよい答えだと確信できる答え)が与えられることで初めて●●●●●●●●●●●その意味は正確に説明される。(ここには東浩紀さんの「訂正可能性」のダイナミズムも垣間見えるが、今は論点の発散は避ける。)

そして、多少の飛躍を承知でザックリと言ってしまうと、この「言語的決定」の力学は、「なぞなぞ vs 答え」だけでなく「定理 vs 証明」にも本源的に見られるというのが、数学の基礎に関するウィトゲンシュタインの論旨の一部である(ように思われる)。

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