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求められているのならば、それはきっと正解
あーあれもやりたいし、これもやりたいし、将来こうなりたいなーと、思っていることほど、やらないものはありません。「あれ、食べたい」「これ、食べたい」ならきっと食べるでしょうが「やりたい」ってのは、実はけっこう腰が重い代物です。
自分でも思い知っているのは「教育」のこと。ずーーーーっとやりたいと思い続けているのですが、実は真正面からはやれていなくて「あれ?本当に自分やりたいんですか?」と、改めて問いかけてみたりしてみると、けっこう答えがない。それなのに、周りから言われていることには、けっこう答えが見えたりするんですよね。
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「アイディアマンだよねー」
「センスいいよねー」
「独特な感性しているよねー」
「ほんと、頭柔らかいよねー」
とか、散々言われ続けていて、それがけっこう何かと生かされていて、必要としてくれる人が多いみたいなんです。自分では全く当たり前すぎちゃってなんとも思っていないことが、実は自分でやりたいって思っている「教育」のことなんかより、明確にやっていたりするんです。
だから、無意識にうちにやってしまっていることの方を、私はすごく信じています。例えば整理整頓とか、誰にも言われなくても、物がここになきゃだめ!という強迫観念的に(?)やっていたり、料理も作りだしてみると、けっこういつも美味しいものができちゃってる。そして
「料理うまいよねー」
「ほんと、オリジナルな感じで美味しいよね」
「お店だよこれ」
と。これもまた自分では全く思っていないんですが、「教育」をやりたいって思っているよりも、すでに誰かに向けて、やっちゃっていることなんですよね。
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そんなこんなで、やりたいとか、っていう野心より、今まで生きてきた中で、自然と集まってきたものや言葉を、大切にした方がいいんじゃないかなと思うこの頃です。その方が、自分にとってと言うか、一緒に生きている中での正解なんだと。
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そう成れてから、例えば位置を変えて横から見たりした時に、ふと、初めて自分がやりたかった「教育」なんかと目が合う気がしています。だから、やっぱり求められていることは、率先してやるべきなんだなと思います。やっと大人になったみたいな発言じゃねぇか。
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ランドリー・・・
どこか懐かしさを感じる、帰る場所としての「 写真 」「 道具たち 」を扱っております。
[ ものがたり ] 盆暮れ正月となれば、何かをするためというわけでもなく、とりあえず帰ろうとする。でも「 帰ってきた 」と、心から深くそう感じられる場所へ、ふと帰りたいと思って振り返った時には、いつの間にか、もうその場所はどこにも無いと気づくこともある。そんな時に、何気なく撮っていた一枚の写真がその役割を果たす時があるように、家のどこかでなにか見覚えのあるような道具たちも、心の帰れる場所があるのでは?と思ったのでした。みなさんにとっての「ただいま」を、感じてもらえる体験となれたらと思います。