見出し画像

不比等が生まれる前の話① -倭からヤマト朝廷へ-

ヤマト朝廷が出てきた流れ

話は不比等が生まれる遥か昔に遡ります(……)。
日本列島(当時は「倭」と呼ばれていた)に暮らす人々は、旧石器・縄文・弥生時代を経て、農耕の発達などにより定住生活が進み、やがて集落を形成していき、余剰生産などをめぐって戦いが始まり、集落が統合・拡大していくことで、各地に「クニ」とよばれるものができます。

彼らはそれぞれのクニの実力者(豪族)の墓として古墳をつくったり、独自に中国・朝鮮とのネットワークを駆使して金印を授かったりしていましたが、徐々に大和地方の豪族を中心にした連合政権が存在感を高め、ヤマト朝廷として古代王朝を築いていきます。

……というのが、日本史の教科書に記載されているヤマト朝廷誕生の経緯の、ざっくりとした内容です。

私たちは、この後に起こる歴史の流れを既になんとなく知っているので、こういった説明を聞いても「ああ、この頃から天皇(大王)中心の政権ができてきたのね」という感じで受け止めています。が、同時に「なんだかしっくり来ない」「古墳時代から唐突に飛鳥時代来てよく分からない」みたいな印象も持ちます。

日本史、日本だけ見ていてもよく分からない

このモヤモヤはなんだろうという話なのですが……おそらく、日本史の授業で古代史を扱うときに、古墳時代までは遺跡や出土品から考察する考古学、飛鳥時代からは文献から考察する歴史学と、途中からアプローチの異なる学問に切り替わってストーリーも温度感も変わってしまっていることが原因なんじゃないかなと思っています。例えるなら、物語の第1章後半からいきなり作者が変わり、主人公が変わり、文体が三人称から一人称に変わっちゃうみたいな感じ?

なので、この時代に起こっていることを解像度高く知るためには、アプローチの一貫した“物差し”が必要になるのですが、残念ながら当時の日本は文字の文化があまり浸透していなく、そもそも圧倒的に資料が少ない。一方でこの頃の日本列島の豪族は、我々が思っている以上に中国や朝鮮(特に朝鮮)と密接に関わっていたことが分かっていて、その角度から研究されている方も多くいます。

そこで今回は、こういった日本列島と朝鮮・中国との古代の国際関係が詳しく書かれている書物や資料を読んで、不比等が生まれる前に、どんな背景があって、彼が生きた時代にどんな課題を抱えていたのかなどを整理したいと思います。

そもそも、なんで中国・朝鮮と交流する必要が?

当たり前ですが、当時の航海術は脆弱です。日本海を渡るのは安全な旅ではありません。さらに各地のクニは、他のクニとの戦いもあります。その中で、わざわざ海を越えた先にある国々と交流するメリットは何なのか。

この話で地味に重要なのが、結構長い間、どこのクニにも農業の技術や鉄の供給源などがあまりなかったらしいということ。そのため、ほとんどのクニが、こういった物や技術を、朝鮮半島からの輸入や渡ってきた人(渡来人)の指導・囲い込みに頼っていたらしいです。

当時の朝鮮半島は、北半分を高句麗が統治し、南半分は大きく新羅、百済、加耶諸国という3つの勢力があり、クニの豪族たちは主にこの南半分の3勢力に対して各々が独自のネットワークでモノや人の交流をしていたようです。

要は、クニの運用に欠かせない農業の技術、生活や戦いに欠かせない鉄を安定的に得るためには、朝鮮半島との安定的な関係性が不可欠だったということです。そのため豪族たちは、自分のクニと関係が深い朝鮮半島の国家が安定的に存続してもらうために、その国家を支援したり、時に彼らの争いに介入したりしていた、という側面があったようです。

朝鮮半島の情勢不安が倭の状況にも影響

それが5世紀ごろになると、少し状況が変わってきます。

朝鮮半島をめぐる戦いが、「高句麗・新羅 vs 百済・加耶諸国」の様相を呈してきて、双方の争いが激しくなってきたことで、これまで少人数が来ては一定期間で帰っていくことが多かった渡来人が、数も増加し定住する人も増えてきたようです。

そのことによって、倭でも様々な変化が起こります。

  • 渡来人の技術が国内に留まる

定住する渡来人が増えたことで、これまでアウトソーシングもしくはSESに近い状態だった大陸の農業技術や鉄の技術を、国内で確保することができてきます。独自のスキルを持つ優秀なフリーランスや派遣エンジニアが、正社員採用を志望し始めた状態なので、有力な豪族は彼らの囲い込みに走るようになります。

大阪府柏原市にある大県遺跡は、鍛冶に関する先進技術を持つ渡来人集団の集落遺跡と言われています。このあたりには、後にヤマト朝廷において軍事の役割を司ることになる物部や大伴氏の拠点があり、彼らがこの後「軍事」の力で台頭していくこととの関係性が推測されています。

  • 朝鮮の対立構図が倭の豪族同士の主導権争いに発展?

先に書いたように、自分達が支援している朝鮮の国の危機は、自分のクニの危機に直結します。そのため、朝鮮の対立構図が豪族同士の利害関係ともろにつながるようになります。

歴史の流れでいうと、この頃(5世紀中盤)は「大王家(雄略天皇) vs 葛城家・吉備家」という構図が大きなトピックです。また、この頃から近畿を中心とした有力な豪族の首長が大王を中心としてグループ化していくという動きも見せているようです。

大王家は伝統的に加耶諸国とのつながりが強く、一方で葛城家・吉備家は共に新羅との関係が深い豪族です。つまりこの対立構図は、『古事記』『日本書紀』で記されている痴情のもつれや兄の暗殺への報復といった話だけではなく、こういった背景もあるかもしれないなということが想像できます。

そしてこの対立を制した大王家は、引き続き加耶諸国を支援していくことになります。

磐井の乱が重要単語である理由?

ここで1つ謎なのが、豪族が各々で朝鮮と交流していたというのなら、皆どうやって航海していたの?という話です。特に畿内の大王家など、はっきり言って「遠くね?」という話です。当時の航路は瀬戸内海経由が基本です。陸地の物流ネットワークなどありません。

答えはとてもシンプルで、九州の豪族に協力してもらったようです。上記の雄略天皇の時代が終わり、継体天皇の時代になると、彼らは加耶諸国や良好な関係にある百済の支援に協力する九州の豪族との協力関係を強めています。この頃奈良には阿蘇ピンク石とよばれる九州の石が盛んに運ばれていて、それはこの協力関係に起因しているのではないかと言われています。

ところが527年(529年という説も)、継体天皇が加耶(当時は大加羅を中心とした連盟とも)支援のために派遣した兵が、九州・筑紫国で磐井氏の妨害に遭います。これが教科書にも重要単語として記載される「磐井の乱」です。磐井氏のバックには新羅の支援があったとされ、この乱の鎮圧には1-2年程度を要する長期的な戦になりました。

磐井氏は百済との関係が深く、百済との関係が良好だった加耶諸国を支援する大王家とも臣従関係にあったようなので、この妨害は大王家からしたら明らかに「裏切り」です。ところが、実はこの頃、百済と大加羅とは対立関係にあり、逆に百済と新羅が友好関係を結んでいたようです。そのため、百済派の磐井氏からすると大加羅への支援を協力することはできませんし、その妨害工作に新羅が絡んでいるとしても、不思議なことではないのです。

確かに磐井の乱は、当時の国際情勢の複雑さを象徴するような事件で、重要なトピックだったと思われます。

磐井氏は、国際情勢の変化により臣従する大王家(+加耶諸国)と、関係の深い百済(+新羅)との間で、結局百済(新羅)との関係性を重視し、結果として大王家に敗北。改めてヤマト朝廷に恭順することになりました。

こうして、徐々に反対勢力を制していき、大王家と周辺の勢力は増大していったようです。

次回

やっぱり不比等は出てきません!
たぶん6話目ぐらいに出てくると思います……。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?