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不比等が生きた時代② -律令国家の仕上げ役-

679年に皇后(後の持統天皇)と4人の子どもと共に吉野の盟約を結んで以降、天武天皇は律令国家の構築に向けた様々な施策を打ち立て、それを持統天皇が引き継ぎます。そしてこの持統天皇の治世に、不比等が頭角を表します。

律令国家に向けた重要な政策を次々と実行

672年に即位して以降、律令国家体制に向けた動きに積極的でなかった天武天皇。しかし680年代に入ってから、彼は次々と画期的な政策を打ち出していきます。
 
681年、日本初の本格的な律令とされる飛鳥浄御原令の制定を指示(完成は689年)、日本古来の角髪を廃して冠を被りやすい形の髷へ変更させ、682年には後に藤原京となる都の建設計画を始動します。さらに684年には氏姓制度を見直す八色の姓を制定しますが、ここではこれまで軽視していた豪族の家柄などにも配慮した人材登用制度にします。685年には新たな冠位制度を制定。伊勢神宮の式年遷宮が始まったのも天武天皇の治世の時とされています。
 
また、天武天皇の時期から「天皇」という称号が使われはじめたと言われています。天皇という称号は、元々は道教における皇帝の立場を表す言葉で、要は自らを(中国国家と同様の)独立国家の君主として宣言したということになります。
 
そしてこの時期、天武天皇は川島皇子(天智天皇の子。天武天皇の甥)に天皇家の系譜の編纂などを命じ、それを稗田阿礼に暗誦させるなど、歴史書の編纂も始めます。これをベースとして、後に『古事記』『日本書紀』がつくられていきます。

持統天皇から文武天皇の血統へ

こうした施策を6年間で次々と打ち立て、天武天皇は686年に崩御。治世は皇后・持統天皇に引き継がれます。…と一言で表したものの、持統天皇の即位までには4年の歳月がかかります。
 
吉野の盟約で、天武天皇の後継者は持統天皇との間に生まれた草壁皇子になりましたが、一方で異母弟の大津皇子も有力な人物でした。しかし、大津皇子は天武天皇崩御すぐに謀反の疑いをかけられて自害させられます。これで草壁皇子が次の天皇になることが決定的になりましたが、即位を待たずに草壁皇子は27歳の若さで死去(689年)。草壁皇子の子である軽皇子はまだ幼かったため、川島皇子など天武天皇の他の子が即位する可能性も考えられますが、持統天皇は自らが即位。実の子ではないものの信頼の篤かった高市皇子を長年太政大臣に据えたものの、高市皇子も持統天皇の即位中に死去。結果的に孫の軽皇子が元服するまでをつなぐことになります。
 
この女帝から孫への皇位継承という流れは、『古事記』『日本書紀』の天照大神が瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に地上の支配を命ずる天孫降臨と同じ構図であるため、この逸話自体が持統天皇→軽皇子の皇位継承を正統化するためにつくられたと言われています。
 
こうして690年に持統天皇が即位しますが、彼女の治世下では大化の改新や天武天皇のときに始めた施策が形になっていく時期でもあります。即位前年の689年に飛鳥浄御原令が完成。690年には庚寅年籍という全国規模の戸籍が作成され、これに基づいて692年には民衆に農地(口分田)が支給されます。同時に、大化の改新の時につくられたとされる農地の耕作権などを整備した班田収授法が全国的に発足されます。694年には本格的な都である藤原京が完成。
 
697年に15歳となった軽皇子への譲位が決定し、軽皇子は文武天皇として即位。持統天皇は上皇となりますが、その後も強い影響力を行使し、701年には飛鳥浄御原令をより発展させた大宝律令を制定します。律6巻、令11巻で構成された刑法・民法・行政法・商法などの機能を備えた国家運営の根本となる法典です。この制定をもって、ヤマト政権による律令国家体制への移行は一つの完成形を迎えることになります。

国の法律をつくるという大仕事

この大宝律令の編纂の中心人物が藤原不比等です。前回書いた通り、彼は読み書きの能力が優れた田辺氏で育ちます。当時の社会において読み書きができるということは、一部の貴族しかできない価値の高い能力です。その中でも「優れている」と評されるのが、田辺氏です。実際、大宝律令の編纂メンバーに田辺氏も名を連ねています。
 
現代において、この時代に関する研究史料は隋や唐などの歴史書や後世に書かれた文献に依存しています。なぜかというと日本国内の文献がほとんどないからです。それぐらい、当時の日本は文字の文化が未発達でした。しかし、律令国家になるためには、当たり前ですが法令=文書による国家統治が大前提です。読み書きが優れるということは、それだけでものすごく貴重な人材だったといえます。
 
この異能に加えて、彼は蘇我氏の女性と結婚しており、かつての大臣を受け継ぐものという権威を確保しています。684年の八色の姓では、藤原氏は皇族以外の氏が得られる最高位である「朝臣」からは外れているようですが、その後すぐに朝臣に格上げされ、688年には従五位下という位に任じられ「貴族」と扱われます。
 
さらに草壁皇子が死去した際、持統天皇は彼が常に身につけていた黒作懸佩刀を不比等に与えます。これは草壁皇子が本来得るはずだった王権の象徴とされていて、持統天皇が軽皇子への皇位継承を果たすために不比等に託したとされています(軽皇子が文武天皇として即位したことで、黒作懸佩刀は文武天皇に献上されます)。
 
こうして読み書きスキル・貴族の位・持統天皇の信頼を得た不比等は、律令国家移行の総仕上げとなる大宝律令編纂において中心的な役割を担うことになり、このプロジェクトを完遂させたことで政権内において揺るぎない地位を固めることになります。

持統天皇のときに律令制度はほぼ確立

この段階で、100年かけて進められた中央集権型の律令国家への移行が、ほぼ完成されます。整理すると…。
 

  • 国際社会との文化的価値観の共有(仏教の全面的な受容)

    •  蘇我馬子

  • 官僚制度の整備(冠位十二階と、それ以降の改正)

    • 蘇我馬子 → 孝徳天皇(大化の改新) → 天智天皇 → 天武天皇

  • 対外関係ネットワークのヤマト政権への集約化

    • 蘇我馬子 → 蘇我蝦夷・入鹿 → 大化の改新以降、天皇家へ

  • 土地の掌握(公地公民制・班田収授法)

    • 孝徳天皇(大化の改新)→ 天武天皇 → 持統天皇

  • 民の掌握(戸籍の作成)

    • 天智天皇→ 持統天皇

  • 国家元首としての宣言(天皇の呼称)

    • 天武天皇

  • 恒常的な都の建設(藤原京)

    • 天武天皇 → 持統天皇

  • 律令の策定(飛鳥浄御原令→大宝律令)

    • 天武天皇 → 持統天皇 → 文武天皇(藤原不比等ら)

7世紀の100年間、その間少なくとも2度の大きな政変、1度の対外戦争大敗を経つつ、律令国家実現に向けたプロジェクトが受け継がれてきた時代、それが飛鳥時代です。独自の律令体制を持つということは、当時の東アジア社会の中で「独立した国家」と見なされることになります。例えば高句麗や新羅はこうした独自の律令は編纂しておらず、そのため中国にとって彼らは独立国ではなく、だからこそ朝貢による主従関係を結んでいます。しかし、100年かけて律令体制を構築したヤマト政権は、(中国側がどう捉えるかはさておき)独自の政治機構を持つ独立国として、中国と対等の立場であることを宣言したことになります。
 
600年に隋に使いを送った際に政務を非合理と断じられ、607年に(何の根拠もなく)対等な立場を強調した国書を出した頃から考えると、実に感慨深いです。
 
大宝律令の完成後、ヤマト政権は30年ぶりに遣唐使を派遣。当時、唐は武照が女帝・武則天となり周という国を起こしていましたが、それによる外交上の問題は特になく、遣唐使たちは武則天と謁見し、藤原京遷都の報告や大宝律令を持参するなどして、正式な国交回復を図ります。ここでの交流や唐の最新の国家運営などの知識が持ち帰られたことで、大宝律令の修正や和同開珎の作成、平城京への遷都計画などが始動し、奈良時代へと移行していくことになります。

次回

古代国家の安定的な運営のために
残された宿題


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