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あとがき続 -フィルターを替えて人の動きを見る-

前回とは話が変わり、今回の主題・藤原不比等について。

政治的に敗れた氏族から人臣最高の政治家まで駆け上がった不比等。“権力者”“律令国家の番人”“藤原家の祖”“父親”といった様々な背景=フィルターを通して見てみることで、彼の行動の多様性を感じることができます。

我々は自分や誰かの“フィルター”で事象を見ている

藤原不比等は権力志向の人でした。それは間違いないでしょう。じゃないと後ろ盾のない敗者側の氏族が、ここまでのし上がることは難しかったはずです。

ただ、特に日本書紀や平安時代を批判的に捉える人々から、不比等は必要以上に“権力の妄執者”というイメージを与えられているように感じます。簡単に言うと「藤原の栄華のために天皇制もそれまでの歴史も歪めてしまった政治家」みたいな言い方です。
 
個人的には、それは不比等のことを「平安藤原氏の祖」というフィルターで見ているように感じます。要は平安時代の藤原氏の栄華や権力者としての姿の根源を、彼に帰結させようとしている感覚です。藤原道長が栄華を極めるのは、不比等の時代から300年も先の話だというのに。 

ナチュラルに発動する、摂関政治フィルター

私たち日本史を少し知っちゃっている人間は、藤原氏と聞くと無意識的に“婚姻による摂関政治で朝廷の中枢に居座り続けた一族”と言うイメージを持ちます。そこには政治的な能力ではなく婚姻関係という“策略”で権力に居座り続けた、という批判・腐敗政治的なニュアンスがつきまといます。

しかし、こうした1つのフィルターで物事を見続けていると、私たちはいつまでも「日本の政治は1,000年以上も婚姻関係でつくられていた」みたいな批判思考で止まってしまい、その結果、「日本の政治は手腕<コネ」だの「世襲政治家=腐敗の象徴」みたいな政治不信の思考から逃れられなくなり、常に権力者への怒りが蓄積されている状態になってしまいます。
 
あるいは、現代の政治家の“血筋”についつい目を向けてしまうのは、日本史の“政治―世襲―腐敗”というフィルターで、彼らを見ているからかもしれません。
 
私たちが得ている情報は、常に何かのフィルターを通したものです。自分が見ているものですら、“自分が見たいもの”“自分がいま感じたいもの”というフィルター越しの景色です。私たちは何かのフィルター越しにしか世界を見ることができません。だったらそれを外すことを目指すよりも「自分が今どんなフィルターを通して見ているのか」を自覚することに努める方が、まだ冷静に物事を捉えることができるのではないかと考えています。

藤原不比等の突き動かす様々な背景

不比等の半生を、なるべく摂関政治というフィルターを意識的に外し、様々な切り口=フィルターを通して見てみます。

厳しい逆境にさらされた人間

不比等の父親は、中大兄皇子の盟友・中臣鎌足です。彼が生まれた658年には、鎌足は皇族以外では二番目に高い位である大紫冠を与えられ高い地位を得ています。しかし、鎌足は不比等が11歳のときに亡くなり、2年後には父の盟友・天智天皇も崩御。翌年には壬申の乱で、中臣氏も身を寄せていた田辺氏も、敗北者側の氏族になります。
 
これが元服(15歳)直前の彼の人生です。この時代、親を早くに失うことは十分考えられますが、だとしてもやはりこの転落ぶりに多少の理不尽さや無常感は抱いていたと思います。彼が田辺氏のもと読み書き能力を高め、法令という部分を得意とした背景には、もしかしたらこうした背景を元にして、より論理的なもの、確かなものへの希求があったかもしれない。こんな憶測をしてみると、彼の人間的な部分が少し垣間見られるような気がします。

持統天皇・草壁皇子に尽くす忠臣

こうした状況から自らを見出してくれた持統天皇・草壁皇子の親子に対して、彼はやはり恩義を感じていたのかもしれません。

しかし草壁皇子は、即位を果たすことなくこの世を去ります。天武天皇の子はまだ何人か健在ですが、その中に持統天皇の子はいません。この状況下で持統天皇から黒作懸佩刀を渡された不比等。これに心が動かない人間はいないのではないでしょうか。不比等は、持統天皇崩御後も文武天皇の血筋への継承にこだわっているように感じますが、そこにはただ自分の血が入っているだけではない思いを感じます。婚姻戦略も、実は利権を手に入れることだけでなく、文武天皇系統に対する一蓮托生の覚悟のようなものがあったかもしれません。

国家を担う敏腕官僚として

不比等は、大化の改新の立役者・鎌足の後継者にして、7世紀前半にヤマト政権を支えた蘇我氏を妻に持ち、渡来系の氏族・田辺氏の能力を身につけている人物です。そして、大宝律令をつくり持統天皇から将来を託され、年下の天皇を支え続けます。ある種、律令国家の体制づくりに関わった歴史の象徴にも見えます。
 
律令国家に移行したものの、人の気持ちはそう変わりません。氏姓制度の価値観が色濃く残る古代日本において、こうした氏族としての務めのようなものを彼は意識していたのかもしれません。

子を思う親として

彼には4人の妻との間に、4人の息子と4人の娘がいます。自らが早くに親を亡くし、政界の後ろ盾もなくし下級官人からのスタートだった彼は、やはり子どもには同じような苦労はさせたくないと思っていたのかもしれません。
 
蔭位の制は、唐にも似た制度がありますが、大宝律令では対象者が限られ、その代わり対象者の地位は高く設定されているようです。もしこの制度が不比等の肝入りなのだとしたら、やはりここには不比等のエゴが入っているのかもしれません。
 
結果的に4人の息子は不比等の生前に官位が与えられますが、そのことで朝廷内での強い発言を得たためか、不比等の死後すぐに彼ら四兄弟は長屋王と対立してしまいます。義理の息子(長屋王)と実の息子たちが対立し、息子たちの死の後は、別の義理の息子(橘諸兄)も藤原氏と対立関係になり、孫の聖武天皇と娘の光明子はこの緊張状態の中で政務を行う日々となります。
 
またここでは詳しく触れませんが、同じく孫の藤原仲麻呂に至っては、唐の価値観をより強く受け入れることで、易姓革命によるクーデター画策まで考えるようになります。仲麻呂は、不比等の死後棚上げにされていた養老律令を施行しており、不比等への敬意はあるように感じますが、結果的に彼が構築した律令制度を否定する行動に走ってしまいます(失敗しましたが)。
 
そして時代が下り、不比等の子孫である藤原北家は、律令制度そのものを骨抜きにしてしまいます。不比等の目指した社会は、彼の子孫によって崩れ去るわけで、ここはなんとも言えない皮肉に感じます。

人の動きは、利他も利己も忠義も我欲もないまぜ

こうして見てみると、不比等がただの権力志向の強い我欲の人だとか、権謀術数で成り上がった策略家だとか、後世の日本人を欺いた男だとか、そういったことだけではない彼の人間性や社会的使命などを感じることができます。
 
その一方で、では利他の精神を持つ清廉な政治家なのかと言えば、やっぱり自らの前半生に対する執着や子への甘やかしとも思える利己的な行動も感じられます。
 
何が言いたいかというと、人の行動への評価など、背景一つでどうとでも捉えることができるということです。だから単純に善悪や清濁で判断などできないし、ましてやその人間性のすべてを否定することも肯定することもできないのです。 

フィルターの存在を自覚することで、感情をコントロールする

一見、自分には相容れない行動をしていたり、おかしいと思うこと、不合理に思うことをしたりするのを見ると、多くの人は怒りや不信など負の感情を持ってしまうと思います。それは、感情を持つ人間であるから仕方ない。その感情をコントロールできる人は、いわゆる悟りの境地に達した選ばれた者のみと言えるでしょう。
 
ただ、負の感情を持った後に、それに飲み込まれる前に一度「なぜこの人はこういった挙動を起こすのか」ということを複数の角度から考えることで、感情を和らげたり分散させたりすることは可能です。
 
1,300年も前の、価値観も違ければ立場も違う、何もかも違う、というか資料も限られていてなんだかよく分からない人間である藤原不比等でも、これだけの背景をもとに行動していたのではないかと推測することができるのです。現代の人々は、自らも認識していないようなもっと複雑で深い背景のもと、行動している可能性は高いです。こうした背景のフィルターをいっぱい見つけて、フィルターごとにその人を覗き込んでみることで、理解や共感はできなくてもお互いの感情の落としどころを見出すことはできるのではないかなと私は考えています。
 
歴史はそんな多種多様な背景のフィルターの宝庫です。時代も価値観も考え方も背負う立場も何もかも違う人たちが築き上げてきたものを、これまた言語も文化も価値観も違う人たちが様々なアプローチから研究し続けてきたものの積み重ねが、歴史です。背景のフィルターの訓練をするには、まさにうってつけの教材だと思います。
 
以上、藤原不比等回でした。

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