読書日記:川上弘美『某(ぼう)』
川上弘美の小説は、『椰子・椰子』までの初期作品と東京日記シリーズが、シュルレアリスティックで大好きです。現実と幻想が全くの地続きで、かつどこか土の香りがする。
作品から段々幻想が減って恋愛へと重心が移り、わたしには合わなくなったようで、最近のものは細かく追ってはいなかった。
これはたまたま近所の古本屋で手に取り、粗筋・書き出し・装丁の3つが良くて安かった(レジに持って行った瞬間に半額の100円にしてくれた)ので買って読んだら、別次元に入ったと思わせる傑作でした。
今回のネタバレは粗筋だけにします。
『某』は、ごく短く言えば、アイデンティティの不確かさに関するファンタジー小説だ。自分がいつの間にか存在しているのに気づいた、記憶を持たない阿人間的存在が、物語の主人公となっている。
体格含めた外見・推定年齢・名前・性別・職業・性格体質・国籍や母語等をふいにごろっと入れ替える変態を度々行いつつ、医者の指示で日記をつけさせられたり、同じ体質の存在と遭遇したり、ヒトに擬態したりしながら現世を漂白していく。
主人公やその仲間達が登場するのに、キャラクターが全く固定されていない点が、稀有な物語だ。
展開規模は『百年の孤独』くらいの目くるめく壮大な物語ながらも、複数者のキャラクター(着ぐるみの皮みたいだけど性格も含んだ、魂的なもの以外の部分)が入れ替わっていくので、キャラに頼っての物語把握ができない。
写真を撮っていると、顔や身体がまとう表情はその人を要約するものだとしょっちゅう感じるけれど、それらも突然形成されてまたすぐ入れ替わる世界。
奇想天外だけれど、「普通の人間」への擬態につきまとう心許なさ、擬態を察知して攻撃してくるヒトの存在、年齢も性別も自分のものという実感が希薄で仮設定な感じ、恋愛感情が希薄で友愛にも今一つ分かっている自信がないこと、ダウナーになっても真正の鬱になりにく気なことなど、妙に共感する点が多い。
たぶん、自分のことのように感じる人は意外と居そう。たいていの人が、普通を擬態しようとしながら「ぼうっと生きて」るんじゃないの?
主人公は最後には重要な選択をしていくわけだけれど、万人に通用する選択ではないし、した選択が何者かになることに繋がったのかの判断は読む人に左右されるだろう。
たぶんアイデンティティの話ではないけど、『100万回生きたねこ』は、本質的に似ている部分がある。
この物語は、映画化されても面白そうだ。
サンプルを読みたい人は、幻冬舎のnoteをどうぞ。
https://note.com/gentosha_dc/n/n357842adcffc?magazine_key=m71cbd9b785c3
細胞単位では常に入れ替わっていくのに、なぜか変わらず在るように感じる「わたし」というもの。
結局アイデンティティ=自己同一性とは何なのだろう?
わたしの考えでは、「自分はこういう性質や役割を持った人間です」と、自己の性質・来歴を物語的に言語化して把握するのがアイデンティティだ。
他者とわたしとを区別する垣根は、確固として存在していると感じる。その垣根は、物心つくのと同時に身についていた自他の区別と同一だと思うが、どのように発生するのかは分からないし、それ自体はアイデンティティと呼ばれるものとは別物だ。
自他の区別を感じる一方で、伝播のない隔絶した地方同士の風習等の一致や、認知症や精神障害における言動が類型的なことなど、共通点も多数見受けられることから、ユングが言う「原型」のような共通基盤の存在も否定できない。
地上には「わたし」と言う境界線や殻があるけれど、根っこでは「わたしたち」として、知らぬうちに一つに繋がっているのかもしれない。或いは、粘菌のように離れたりくっついたりできる。
岸谷國士『シュルレアリスムとは何か』には、ブルトンらが行った自動筆記では筆記スピードをあげるとともにわたしという主語が消えていった、世界各国で似通った物語が展開される民話でも主人公の名前は明記されない、と論じられている。
梨木果歩も、粘菌がヒトに擬態して一族を形成する物語(ネタバレが過ぎるので、どの本かは、気づいた人だけ分かればいい)を書いていた。パターナリズム脱却の方に気を取られてたけれど、主題は同時に自己境界線にもあったのか。考えてみれば、僕と叔母たちのシマの話がそれを象徴的に表現している。
第二の脳と言われ精神状態も左右する腸も、口から肛門へと繫がっている管の一部で、考えようによっては人体の外にある。やはり身体も精神も、外と内とが微妙に部分的に溶け合っているのではないだろうか。
そう考えると、1人1人を完全な別個体とする「アイデンティティ」は、「資本主義」や「進歩史観」に関係していて、近代西洋的「イズム」のひとつに過ぎないのかもしれない。
その他大勢の群集(モブ)で居させられてきた庶民の1人1人にまでアイデンティティの明確化が必要とされるようになったのは、ごく最近ではないだろうか。
わたしにも、自分の在り方をすっきり把握し自分らしさがあるとすればそれを全うしたいという欲求は、確かにある。実際の自分が全くすっきり整理できないから、そんな欲求が湧き上がる。
しかし、演じたい役割に合わせて、自分の物語についている枝葉をとりはらうと、齟齬が生じる。働いている時の自分は本当の自分でないとか、こんなことを考える自分は全くの駄目人間で居ない方がいいとか、本当の自分は傷つきやすく純粋だとか、そんな人だとは思わなかったとか。
そうでなく、駄目なのも純粋なのも嫌な仕事をしてるのも、意外とタフでずるかったりお人好しなのも、急に人が変わったようになるのも、筋が通っていなくとも全部自分には違いない。
人間には何らかの自己の物語的把握は必要だろうけれど、便宜性を求めるあまり、つい「自分はこう」「あの人はこう」「男(女)はこう」「普通はこう」「○○人はこう」と物語の粗雑な要約をひねり出してしまい、それがしばしば「わたし」達を傷つける。
もしかすると言い伝えや吟遊詩人のサーガか漫画、或いは映像みたいに、音や絵をつければ言葉以上の広がりが生まれてフィットするかも?
自分だけの物語を打ち立てるの代わりに、昔みたいに物語を共有して活用する方が、精神衛生上は楽なのかもしれない。
ここでアイデンティティについて書いたことのおおよそは、平野啓一郎が提起している「分人主義」と似ていると思う。みうらじゅんの「自分なくし」でもいい。
余談だが、うちの母親は、家族に異論を主張する時だけ急に「わたしらはそうは思わんわ、こうやわ」と自分を複数化しがちだ。(最初にその1人複数化に気づいた時「らって他に誰が居るんよ」と突っ込んだところ、答えに詰まった様子でスルーされました。)
それでは聴いて(見て)いただきましょう。
ハナレグミ『ぼくはぼくでいるのが』
これ、キセル辻村兄の曲だったんですね、今気づいた。
https://youtu.be/MVLF5uww4hk?si=5vMyNufLjnxsHZz1
https://www.oricon.co.jp/prof/194370/lyrics/I195996/
改訂新版世界大百科事典 による「アイデンティティ」の解説を読むと、概念の成立過程から整理してくれていて良い。時間的継続性が関わっているとの指摘も素晴らしい。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3-22669
社会の高度化により社会的成熟と心身の成熟が乖離していく点は、祖父母や親の世代と自分世代を比較すれば、納得するしかない。
つまり、社会が「進化」すると人として「退化」するみたいなことで、そのレールにまんまと乗っかって幼い大人になってるわたしは、一体どんなゴールへ向かっているのか?と茫然となります。
世界は全く平和にはならずコロニアルに冷戦にと逆戻りしてるようなもんだし、環境はじゃんじゃん破壊されているし、それらにわたしもいつの間にか加担している。本当に個々の人間が概ね成長していくなら、そうはならない筈では。
と言って、懐古に走って、日本を前近代的階級格差とそこいらじゅうで戦乱がある時代に戻すのも、おかしいし無理。
時間を逆行させるのではなく、「社会もわたしも時間の経過とともにより良いゴールへ一方通行で変化・成長していく」という世界観の方を軌道修正すれば良いのではないでしょうか。
わたしの勘では、「エントロピーの増大」が、今の世の中と、それを風刺しているような『某』という物語とを、理解する鍵じゃないかしら。
「ゆるゆるやわやわ」「変わらない為に変わり続けている」とヒントになりそうな、福岡伸一さんの最終講義本についての記事を紹介して締めておきます。
https://ddnavi.com/review/598352/a/
せっかく粗筋を短くできたのに、数ヶ月掛けて時々手を入れてたもんだから、結局あれこれ書きたいことが増えて、長くなってしまったよ。全部読んでくれる律儀で好奇心旺盛な人は、果たして居るだろうか・・・。
ヘッダ写真は、ぼうっと撮ったゴーヤです(ダジャレ)。普段大体マニュアルレンズで撮ることが多いので、こういうフォーカスを外した写真も実験的に撮りたくなります。
こどもの頃、授業を聴くのに退屈した時よく、目のピントをどこにも合わさずしばらくぼーっとし続ける遊びをしてました。今思えばあれは自己流の瞑想?
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