つぶやき 〜もくじはあったほうがいい?〜
日常でふと目にした文章や事象を、ただ反芻している。そんなつぶやき。
前回の反芻はこちら。
もくじはあったほうがいい?
「目次をつけること」
文章を書くときやプレゼンをするとき、このことは私の中で固定概念になってしまっていた。目次をつける理由として、自分はつけたほうが読みやすい…戻り読みができるから….そう思ってしまっていた。だが、あるnoteの筆者の作品をずっと読んでいるうちに、気づいてしまった。
「読みやすいだろう」は、主観でしかなかったことを。
山田さんのnoteで気づく「もくじ」の違い。
よく山田さんのnoteを読んでいるのだが、読んでいるときに「あれ?」と思った。
それは「始まるなって思ったのどこだろう」だった。山田さんのシリーズ『綴る』や他の文章からも感じ取れる、無意識のうちに溢れ出る一種の表現のようなものであった。
そしてすごくすごく気になった。何が原因で現実と文章との境目が朧げかつ幻想的なのか。それがそう…
「目次がない」こと。
だった。山田さんの作品のなかで、絶対に目次がある作品が存在する。そう私の直感が叫んでいた。
そしたらありました。目次がある作品が。
こちらは山田さんが書いた『HUNTER×HUNTER』の考察をしているnote。確かに目次がある。この違いはなんだろう?
目次の有無の差ってなに?
私なりに考察してみた。目次のない文章は最初に言った通り「自然に始まる」。そうすることによって、現実との境目が朧げになり、山田さんのつぶやきを目の前で聞いているような…頭の中の思考を直接覗いているような、そんな身近さを感じる事ができる。
話題に入るとき、目次によるワンクッションがないから、すんなりと話の流れに乗ることができる。
また、目次がないことによって前の文章にワープできなくなる。いわば山田さんの話の流れに、いっしょに自然と流れていく。現実で同じ人の話をもう一度そのままを聞けないように、その文章の流れの中に映る「一時の文章」。一度読んだあとでは体験することのできない「再現できない味」を楽しむことができる。
一方で目次のある文章では、こんな話をするのだという概要を知ることができる。それによって、読む前の抵抗が少しなくなる気がする。
また、概要なので話の雰囲気をそれとなく掴むことができる。自分だけ話の流れについていけないのではないか…という未知の文章に対する漠然とした不安は、目次によって和らぐかもしれない。
すべて個人の見解なので、断定的なことは言えないが、そもそも(一部の数学や科学を除く)すべての物事には断定的な答えは存在しない。なおさらこのような形のないものには答えをつけないほうが面白い。
目次の有無でも表現できる
私の中での結論は、「目次はなくてもいい」。そして目次は作者の想いや個性が含まれている。きっと、皆さんは目次についてここまで深く考えていない。無意識のうちに目次をつけたり、つけてなかったりするだろう。
そしてそれには個性がとても現れている。
目次は文章において一種の隠し味。
文章が始まる前にたいていついている目次。それが当然だと思っていた私の視点に、面白い視点を提供してくださった山田さん。
他にもよい表現ばかりなので、よかったら御覧ください。
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