見出し画像

内田樹氏や平田オリザ氏の考え方に見える現実世界への見当違いとアフターコロナ

先日、内田樹氏のブログに対しての反論をしたが、どうやら少なくない人が同じような気持であったようで、ほっとしている。
しかし、それよりも多くの人が内田氏の見解に賛同しているようなのをどう解釈していけばよいかと悩んでいるうちに、2016年に自分自身が考えたことが思い出された。

それは、中学高校からの友人岩本くんが平田オリザ氏の「下り坂をそろそろと下る」という本を読んで、非常にモヤモヤした気持ちを持ったということが発端なんだが。岩本君が「アートだコミュニケーションだという試みがさてどの程度の持続性を持ちうるのかということ。試みの評価は数十年スパンでみないと分からないことが多く、歴史的・構造的考察がやや欠けているような気がします。」という感想を持ち、それについて、片桐はどう思う?みたいにやりとりになりまして。

ちなみにその時片桐が感じた筆者平田氏の主張
①日本はもはや工業国家でない、成長社会に戻ることはない、アジア唯一の先進国でもない
アートが地域を救う可能性がある。小豆島(瀬戸内国際映画祭)の例、豊岡市国際アートセンターの例。
③日本は急な坂を上ってきた。でもこれからは上ることはない。成熟した社会では、どのように下り坂をゆっくり下っていけるか。急に下ることは社会崩落になる。
④「偶然の出会い」が減ったから結婚が減った。人口減の一つの原因。
⑤子育て中のお母さんが映画に行ける社会づくり
教育格差が生まれている。いかに地方の教育を拡充できるか。ホンモノを見る機会を作れるか
⑦寂しさと向き合う。日本がアジアの最大の国家ではなくなった事実をどう受け止めるか。

結論として、
(1)工業立国でないことを認識する。それは既存産業にもっと付加価値を付ける(豊岡のカバンなどを例示)、新しいサービスを作ること
(2)雇用の流動性の確保、再就職や転職のための教育の拡充
(3)偏見や差別のないリベラルな街を作る Uターン、Iターン、外国人の受け入れ
(4)子育て、弱者などすべてに優しいまち。そのためのコミュニケーションデザイン、コミュニケーション教育が重要である。

ということであった。

さて、それらにたいする所感は以下のとおりである。

・確かに日本は「成熟社会」なのだと思うが、だからといってもう成長が見込めないのか。モノづくり、というものは世界中で必要なことである。より強度のある板、より小さい針、より高度なセンサーなどは年々要求が高まっている。工業立国とは、技術によって成り立つ。技術をなくした国家はどうなってしまうのか。技術をもっと伸ばすことに対し、地球規模でニーズはあるはずなのだ。内需ばかり見れば日本は確かに下り坂なのかもしれないが、世界の中でどういう立場を見出すことができるかを考える必要があるのではないか。

一方、雇用の流動性の確保などには筆者の指摘することにはうなずける部分もある。ただ、雇用が流動的であることが正社員比率や派遣比率を変えうるかということについて私は疑問がある。日本の経済において大きな構造の部分(公共事業、下請け、委託など)が大きく変わらなければならない問題はいくつもある。そこについての指摘はない。平田氏あたりであれば気が付いているはずなのに。

また、中盤で紹介されている「アートと地域」の話であるが、筆者自身も「小さな希望」を見出しているのみに過ぎない。もちろんそれは地域の「自己肯定」につながるなどの効果は多くの地域の他の事例でもあると思う。しかし、その自己肯定がいつまで続くかということはまだ未知数の段階である。地域の中のコミュニティデザインの重要性についても述べているが、「地域に元気を取り戻す」のであれば、私はいつも「経済循環の仕組み」を作り直すしかないと思っていろいろな地域の仕事に取り組んでいる(そのうち得意なものがたまたま食に関するマーケテイングや商品開発ということなのだが)。都会以上にとはいかないまでも、せめて近隣のほかの都市以上に「稼ぐ」「稼ぎ続ける」ことができるようになること、それが一番の目的である。その仕組みづくりに先立ってコミュニティデザインが必要な場合があるが、それがすべてではない。「それを成し遂げたい」という人のみでスタートして、それが波及効果をしていくほうが早いのではないか。

というのは、平田氏も終盤で指摘しているように『偏見や差別のないリベラルな街を作る』ことが重要なのだが、日本において多くの地域は、大なり小なり「偏見や差別」が存在している。それがUターン、Iターン、外国人の受け入れを阻害しているといって過言ではないと思う。あるいは、地域からの若い人(特に、優秀な人)を中心とした人口の流出の一因となっている(平田氏がわざわざリベラルな街をつくる、というのはこの事実の裏返しだ)。だから、本当に述べなければいけないのは「偏見や差別」を解消し、「経済の仕組みの再構築」が大切だと私は思う。その中で、アートやコミュニティデザインを「手段として」どう使うか、使うべきかを考えるほうがいいはずだ。ただそうはいってもなかなか人間の心(差別や偏見)は変わらないものだ。だから私は経済の仕組みをしっかりと見つめ直すことから取り組みたいと思っている。決して地域の思いや個人の思いをないがしろにしているわけではないが、それを聞いていては時として「らちがあかない」「矛盾した意見を玉虫色にまとめる」ことにしかならないことが起こりうる。多くの人にとっての「まあまあ満足」な計画の実践(と、お金の使い方)では、何も解決しないことが多い。

ちなみに日本の地域活性化はしばしばその手段(アートやコミュニティデザイン)が地域活性化の目的化している。○○ビエンナーレのいくつかは、、、おや?誰か来たようだ。

ま、私がこの本を読んで思ったことは、指摘している部分の共感も多いが、「もっと根本的な部分」については皮相的な表現にとどまっているな、ということである。またそもそも日本は「先進国家」であったのか。教育の施策については平田氏の指摘のものは非常に可能性を感じることが大きい。でもそれをまだようやくスタートしたばかりの日本は「先進的」といえるのか。日本以外の経済的にはまだまだの国でも、教育システムはすでに先を行っている国もある。

平田氏のいう「(アジアの中でもはや一番の先進国でなくなって)寂しい」というている人は具体的にどのような人かを述べていないが、少なくとも全世代にわたるものではなく、1990年までのバブル崩壊前の経済状況にどっぷりつかっていた人ではないかと思われる。その世代を中心に、どうやったら一人一人がこれからの人生を「下り坂」ではなく、それぞれが道を作って進んでいけるかが重要で、その中で初等教育から生涯教育がどのようにあればいいかシステムを考えるべきなのではないか。それは一つの未来への希望が生まれると思う。その希望が無ければ少子化の傾向は止まることがないと思う。偶然の出会いではなく、希望の少なさがこの国の問題だと思うのです。


長々となってしまったが、内田氏においても平田氏においても共通することは、「現状に対するものの見方が皮相的」であることだ。
なぜ、これからの国に希望がないのか。なぜ、中産階級は没落傾向にあるのか。それは、政治だとかコミュニティだとか他人に対する優しさとかそういうことだけではない。また、日本という国全体がという大きな主語でなく、一人一人が意識をもって活動する時代である(しかもそのこと自体を平田氏も内田氏も推奨している)が、そのためには「一人一人が何をどう考えるか、学んでいくか」どうするかということの論考と、そのために『現状世界・数値の正しい把握』が必要なのだが、それが深く考察されていない(特に内田氏の方では、非常に自分の主張にとって都合のいい話だけを扱っているように見えて仕方がない。平田氏は、豊岡などのごく一部の成功例を挙げて語ろうとするが、その地域性やタイミングや「費用対効果」がどうであったかの検証が物足りない)。

要するに、いまの世の中で蔓延しているのは「わかった気になりたい」という思考なのではないかということだ。しかしそれは一番危険である。コロナ19はBCGが有効だ、日光に当たれば死ぬ、アビガンがいいらしい、、、人は恐怖や不安にさらされると、「わかりやすい」回答にすぐ流される。でもそれは「オレオレ詐欺」などの精神的アプローチと一緒なのだ。現実はそこまで簡単に終わるような話ではない。そして、コロナ後の世界も単純ではない。アメリカ・ヨーロッパが廃れて中国の勢いが増すとか、格差が増大するとかはだれにもわからない。ただ、「そうなるであろう」という意見で、「私は大丈夫」(例:格差社会になるけど、私は貧困層に陥ることはなさそうだなど)と思いたい人には、内田氏などの考察は『安心』できる話なのだろう。

SNSなどで「頑張ろう、助け合おう」という「絆」が叫ばれているが、一方で徳島県では他府県ナンバーの車が傷つけられ、三重や香川ではコロナ19感染家族が周辺から石など投げられ、引っ越しなども起きている。絆に入れない人はますます阻害されていく。
白饅頭氏が「ギスギスしたオフライン」という投稿をされた。まさにこの状況を的確に把握されている。ただ、ではどうするかは一人ひとりが考え、一人一人の答えを出していくべきなのだろう。わかりやすい答えを出せる人はいない。

アフターコロナの世界で、飲食店や観光業などを「俯瞰」「分析」することはできる。ただ、ではあなたはどうするべきかなどを伝えてくれることはないと考えた方がいい。もしいう人がいるとすれば、その人は占い師の顔をしたただの詐欺師である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?