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【たくさんのスキありがとう!】自分の感情に嘘をつく人間に、いいものは書けない。
通知が響く携帯電話を手放して、私は真っ白なPC画面に向かいます。
さぁ、今日も、”私が求めるもの”を書こう。
「求められるものを書いてはいけないよ」。
そんな言葉が頭を掠める。私は笑って、大丈夫、と目を閉じて一息置き、もう一度真っ白な世界に目を向けました。
大丈夫。ここは私の愛する、自由な場所だから。
1. 「ポスト愛」の投稿がおすすめに取り上げていただきました。
携帯を寝室に置きっぱなしでキッチンにいたので(魚をさばいていました)、なんだか上で通知のバイブ音がすごいな、と気にはなっていました。
あまりにも頻繁になるので、もしかして電話か?と思いみてみたら、なんと、先日投稿をした「私が「ポスト」が大好きな理由」の記事が、「編集部おすすめ」に選んでいただいておりました!
驚き!わぁ!やったあ!と飛び跳ねて喜びました。
いろんな人に見てもらえている、うれしいなぁ。これでポストマニアが増えたらいいな。
あわよくば、丸型ポストの商品化などがさらに進めば良いな……ふふふ。
最初はそんなことを思っていました。
けれど、次第に、あまりにも止まらない通知に、次々と届く「スキ」に、私は食い入るように携帯を見つめて...そして、これはいけない、と思いました。
もっと「スキ」が欲しい。
もっと見られるものを書きたい、もっと期待されるものを書きたい、もっと注目されるもの書きたい――そういった感情が、私の中にむくむくと現れるのを感じたからです。
もっと見られるものを書くとは、選ばれる・読まれるためのテクニックを使い、一日に何百と投稿される記事と「競争」する世界に足を突っ込むという行為です。仕事で行う「売れるための編集」や、バズらせSNS運用等と同じ。
私にとってnoteは居心地の良い、どこまでも自由で真っ白な世界。何かを勝ち取るために得た場所ではないのに。
けれど、多くの人に自分の書いたものを見てもらえる、という状態はあまりにも甘美で、私は思わず、戒めるような言葉をtwitterに綴りました。
私が欲しいのはあなたじゃない――「注目」や「スキの数」じゃない。
己にまとわりつく欲を、そう言い聞かせて、説き伏せようとしても、通知がなる携帯を手放せないことが、情けなくて仕方ありませんでした。
2. 「嬉しい気持ちは認めろ。感情に嘘をつくな」
嬉しいと焦りの葛藤を繰り返し、寝入る前まで携帯を離さずじっと画面に見入る私を、不思議がって、何かあった?と、夫が尋ねました。
私は、noteでおすすめに取り上げていただいたこと、それによって過去ないくらいの通知と閲覧数になっていること、しかし、嬉しいのに素直に喜べないことを伝えました。
「すごいじゃん」
記事とダッシュボードを見て、夫はおぉー、と素直な声を上げました。そしていぶかし気に私を見ます。
「これを嬉しがっちゃいけない理由はあるの?」
「だって、こうやってどんどん、自分が書きたいものより、読まれるものを書くようになりそうで怖いから、嬉しい、って素直に言えない」
すると夫は、あのさ、と呆れたような声で言いました。暗くて顔は見えなかったけれど、恐らく眉間にしわが寄っていそうな。
「嬉しいんでしょ、ならその気持ちは認めなよ。それは感じていい喜びだろ。自分の感情に嘘ついている奴が、書きたいものなんか書けるわけない」
そう言われて、ぐ、と私はのどを詰まらせました。その通りすぎて。
自分が虚栄心を認められない未熟者であることを、的確に突きつけられて、へこみました。で、でもね、と言いわけをしようとしたら、夫は既に隣でスヤスヤと夢の中。――寝つきが良すぎる!ばか!おやすみ!
心の中でののしって、私は一人で布団の中で悶々としました。
けれど、確かに彼の言う通りで――これは、私が『スキ』だと思ったものを書いた結果です。『スキ』だって、感情です。感情に嘘をつくということは、自分の『スキ』に嘘をつくことと同じ。
noteという『スキ』という感情であふれるプラットフォームで、己の感情を偽ることは、全く持ってナンセンスなんです。
認めます、私は嬉しかったです。note編集部おすすめに選んでいただけて。多くの人に見ていただけて。多くのスキをいただけて。これまで出会えなかった人にフォローしていただけて。嬉しかったです。こんな機会、あると思っていなかったから、驚いて、でも、とっても嬉しかったです。
一方で、少し寂しかったです。例えば、やっぱり求められているのは「愛」であり「哀」じゃないのかな、とか。
私の記事には「愛」はもちろん、「哀」が詰まったものもたくさんあります。だって私がnoteをはじめたのは、生きづらいという「哀」を叫びながら、それでも必死に生きるために、言葉を綴る場所が欲しかったから。
でも、そんな、魂を込めたものは、選ばれないんだね。「愛」を叫ぶものしか、やっぱりみんなには見てもらえないのかな。そこが一番、私がモヤモヤしていた所でした。
そうだ、私は、別に競争になることや、認められる記事を書くことが怖かったんじゃない。
自分の虚栄心を守るために、張り裂けそうな「哀」を、この場所で叫べなくなるのが、一番怖かったのです。
3. 「私」が求めるものを書こう、これからも
次の日の朝も、目が覚めてから、習慣通りに、noteを開きました。あぁ、すごい。一晩で50以上もスキが増えています。お祭り状態だ。
昨晩夫から言われたことを反芻しながら、私はぼんやりと、これまで自分が書いてきた記事を見返していました。そこに飛び込んできたのはこんな記事のタイトル。
失笑しました。昔の私の方が十分わかっているじゃないか。いつかこうなることを、予言でもしているかのようなことがつらつらと書いてありました。
“けれど、人が求めることに応えると同時に、「私」が求めるものは、いつどんな時でも、失ってはいけない。”
「読んでもらって嬉しかった。だからもっと読んで欲しい」。これも、「私」が求めるものの一つ。「生きづらくて息ができないくらい辛い感情を叫びたい。同じように苦しむ人の助けに少しでもなれるように」。これだって、「私」が求めるものの一つ。
だから、私は、どっちも書けばいいんだ、と当たり前のことを再認識しました。
noteは、みんなが『スキ』なことを綴り、叫び、共感する場所です。
そこには「愛」もあれば「哀」もある。決してポジティブなことばかりではないけれど、そこに心を動かされ、それを伝える手段として、noteは『スキ』と書かれたボタンを用意しています。
小難しく分類された感想ではなく、ただあなたのその記事が、スキだと表すだけ。
スキに、優劣などありません。
感情に優劣がないように。
書きたいものに優劣がないように。
だったら、私が「スキ」なことを書けばいいんだ。変わらず。
そう思うと、少しほっとしました。
ちょっと怖くて開いていなかったPC画面を開く。noteを開く。
携帯の通知は相変わらず断続的に続く。
たくさんの「スキ」を、ありがとうございます。
とっても、とっても、嬉しいです。
心の中でお礼を言って、向き合ったnoteは、「私」のための真っ白な画面で、今日も変わらず私を迎えてくれました。