尺八寸の鳴る竹に
竹内史光
こちらの記事は「月刊(民芸)、発行 岐阜民芸通信」。
この月刊民芸に関することは詳しくは分かりませんが、岐阜地域の月刊誌のようです。値段から推測するに昭和前半頃でしょうか。
竹内史光師のインタビューが掲載されており、門下の故藤川流光師に譲り受けたものです。なかなか貴重なものですので、こちらに掲載して史光師を偲びたいと思います。
まずは冒頭部分。
細かい事で恐縮ですが、最初のカッコが何故か逆になっています。
「進取の気風の持ち主です」ということは、一体どういう話が聞けるのでしょうか。
こんな風にインタビュアーとの会話形式で始まります。
この頃は、こんなことが言われていたのかな?汗
このインタビュー形式は、聞き手の言葉は省略されていて、何を聞かれたのかを自分で想像しながら読むという手法。
「普化楽」は「古典尺八」のことで、従来普化宗に伝わる尺八楽のこと。
「普化宗の尺八曲」という意味だか、普化宗の曲ではないものも含まれる場合もあり、一般人にはわかりにくいため、史光師は「古典尺八楽」とも呼称している。
1990年に出版された楽譜にある解説はこちら↓
インタビューにある「こんど出す楽譜」というのはこの1990年の楽譜より以前に出されたものと思われます。
史光師の立ち上げた会は、その名も『全国古典尺八楽普及会』
全国に普及させるぞという意気込みが感じられます。
「古典尺八楽譜録」の下にわざわざ(普及版)とある。
「鎖国が祟っている」を解釈すると、江戸時代に欧米の文明に全く触れてこなかった反動による新しい物事に対する崇拝のようなものが今だに続いている、ということでしょうか。
今気が付きましたが、「祟る」と「崇める」の漢字が似ている…。
因みに、「ほかる」は捨てるの意味(岐阜その他中部地方の方言)。
「かなぐり捨て」というあたり、木幡吹月師を思い起こします。
「古典を土台にして尺八楽を発展させる」と言えば、最近は、海外の愛好家も増え、発展していると言えばそういう状況なのかもしれません。日本国内では絶滅危惧種といわれていますが。
この時点では伝承されていなかったかもしれませんが、「鶴巣籠り会」という会が結成されており、伝承は続いていると思います。
玉音(たまね)は鎌倉時代に生み出されたのかどうか分かりませんが、この辺りは史光師の個人的な想像かと思います。
「鶴の巣籠」に関しては神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』にとても詳しくあるので是非ご一読を。
虚無僧研究会の機関誌『一音成仏 第四十ニ号』に國見政之輔氏が「奥州流鶴之巣籠についての雑感」という記事を投稿されており、史光師のことや、広沢静輝師のこと、布袋軒伝から奥州流となった経緯など詳しくありますのでこちらも是非。
広沢静輝師から、門人星皎輝(唐立勝美)師、史光師などに伝承され、かの海堂普門(当時は田中賢道)も、玉音の話を聞いて広沢静輝師のところを訪れ「熱心な求道心をもって」見事にこの曲を取ってこられたとのこと。SP復刻版『淘薩慈』に「鶴の巣籠り」で収録されています。
私もかろうじて史光師門下の西田景光師に伝授して頂きました。モノになるには二年どころではないです。
この「鶴之巣籠」は秘曲ということで、師匠と弟子との間だけで伝承され、人前では吹いていけないし、一子相伝、ようは自分の弟子の中の一人の弟子にしか教えてはいけない、暗譜必須、という曲で、殆どの人は門下の集まりでも独奏されることはありませんでした。
これではマズイぞということで、「鶴巣籠り会」でも人前で演奏するようにしようとなったそうですが、結局は引き継ぐ若手が居ない。今や鶴之巣籠のみならず、といった状況です。
「曲の持つ力」、最初はこんな難しいの無理、なんて思いつつ吹いていくうちにだんだん虜になっていく、そんなのが「曲の持つ力」でしょうか。
これは余談ですが、先日その「鶴之巣籠り」の話を、古典尺八楽愛好会の方と稽古の後、近所の蕎麦屋で話しておりましたら、いつもの常連さんがすぐ側で聞いていて、横から「ちょっと話をさせてもらっていいですか?」なんて、話し出し、その方が言うには、囲碁にも、「鶴の巣ごもり」という手があるとのこと。相手を責める手だそうです。「鶴の巣ごもり」とは、難しいことの代名詞になっているのでしょうか。
「日本は、音楽では世界的な影響を与えるものはでていない」とありますが、音楽全般に関しては分かりませんが、今や日本国内でも、世界的にも有名で実力のある尺八奏者は、過去にも現代にも幾人も活躍されておりますし、戦後は民謡などが流行ったこともあり「労働者階級を先頭とした働く者の力に支えられて盛んになる」ことは実現され、一般人の演奏者、つまり趣味として尺八を吹く人は大勢生み出されました。しかしながら一昔前。いわゆる人口減でピークはすでに終わり、現在は再び衰退の道を辿っているという状況なのではないでしょうか。
史光師の言う「民族的な楽器で交響楽ができる程になることが必要」もすでに実現はしているとは思いますが、今はまた真逆の方向へ、個人で向き合う楽器としてジワジワと愛好家が生まれてきていると思います。ただし、師弟関係はなくあくまで個人的な楽しみとして動画を見て独学されている人が多いのではないでしょうか。最近の尺八関係のゆーちゅーぶを見てみると、「尺八の吹き方テクニック」を謳う動画の百花繚乱です。
そういう時代なのですね。
昨今は、色んな素材の尺八も登場しておりますが、反面「伝統の民族豊かなもの」であるための竹は、竹林の荒廃で、良い竹が採れた場所でも採れなくなっていると聞きます。
こちらは、記事の写真の拡大。
史光師の製管している写真です。
いい写真ですね。
兎にも角にも、一管あれば、精神的とても豊かな生活が送れるという尺八を岐阜において伝承してくださった史光師に感謝です🙏
さらには、
「奥州流鶴之巣籠」が今後も脈々と伝承されていくことを願いつつ…。