コムジョ兼、山おんな。
岐阜県で生まれ育った私は、常に山に囲まれいつでも山が目に入る環境であった。といっても隣にトトロの森がすぐにあるわけではなく、遠目に山が見える感じ。東京に引っ越して来た当初、山が一切目に入らない事に気がつき、一時フランクフルトのハイジの状態だった。大袈裟かと思われるかもしれないが、道の先に見える低い雲が山に見えて一々郷愁にかられたり、河川も身近であった為、歩道橋に登っては下を走る道路を川に見立てて橋から眺めるフリをしたりしていたものだ。
しばらく住むと、東京の3分の1が山間部であることを知り、とりあえず電車で1時間も西に行けば、植林された山々を見る事ができて大きく安堵したことを覚えている。
岐阜の実家は何かと山に行く家庭だったようだ。
日曜日なんかに、夕方になってから父親と手ぶらで近所の往復1時間くらいの低山に登り、あぁ今日も木曽川がよく見えるね、なんて言って帰ってくる。そんな実家の習慣があった。
母親の生家が岐阜県の八百津という町の山の中の一軒家で、私が小学生の頃には祖父母達はすでに街に移住していたが、その家は空き家で別荘状態であったので、春休み、5月の連休、夏休み、秋の連休は殆どそこに一家で遊びに行っていた。着いたらまず、家の前の草を刈るとか布団についた亀虫を取り払うなどの作業をしなければならなかったが。私の両親は二人とも、自給自足の家で育っていた。
そんな環境であったため、高校生になっても友人と行くのは山や川であったりしたし、大人になっても一人で低山に行っていた。それは登山という感覚ではなく、山に行くという感覚。何が違うんやという話だが、何か違う。それにその頃は登山靴も今の様にアウトドア仕様の服も何も持っていなかった。
と、前置きが大変長くなりましたが、先日は山梨県の扇山に行って富士山を拝んで参りました🙏
この山、17年前に一度登っておりました。私はその「山に行く」という感覚から、「登山に行く」という感覚に東京に来てから変わったわけで、その登山になった最初の頃に来た山でありました。
円空上人は地元岐阜県の出身で何かと接する機会はあったのですが、恥ずかしながら木食上人の事は殆ど存じ上げませんでした。
木食上人の丸っこい木像、またいいですね〜。この辺りに住んでいたのでしょうか。
途中、山ノ神の祠が17年前の木製から石の祠に変わっていました。2019年の台風で飛ばされたのかな…。
この日は天気に恵まれ、頂上からは富士山が綺麗に見えました。ありがたや🙏
さて、そろそろ下山の準備をしましょうかという時に、頂上がにわかに賑わしくなってきました。
おお、新ハイキングの皆さん!
総勢、20〜30人?全員が一斉に富士山を誉め称えながらやってきました。
新ハイキングとは、月刊市販誌として以前は本屋で売られていたのですが、今は会員限定販売となってしまった山岳雑誌です。図書館にもあったし、けっこう参考にさせてもらっておりました。
その昔、年齢層高めの方々が団体で山にいるとしたら、おおよそ新ハイキングの皆さんで、何だか久しぶりの遭遇でちょっと嬉しかったです。
↓ご参考に。
17~8年前は、まだ山ガールなんて言葉も無く、山に行くのはもっぱら中高年と決まっていて、その頃山で遭遇する中高年の方々にはチヤホヤされたものでした。登山靴と言えば革の重たい奴だったし、女物はだいたいワインレッドのような赤系と決まっていて、登山ショップで苦情を言ったら怒られたものだった。最近、山で会う方々の格好の洗練されている事といったら。
下山途中で、不動の滝。
山の中で静かに佇む、石仏さんたち。
そして下山してすぐ、山の麓にあるお寺、宝勝寺。
入ってすぐ、七メートルの観音さまに迎えられます。
こちらからは、広重や北斎が描いた冨士三十六景の富士山が見えるのだそうな。
確かに同じ場所を歩いているはずですが…
高速道路は走り、鉄道も走り、ダムは作られ…。
今は、その面影は全くない。
山に行くと、悉く破壊されまくった光景を、いい景色を味わうのと同じくらいに目の当たりにするのが、また辛いところです。
虚無僧の幽霊と自ら称しておりますが、それはいにしえの願望でもあります。
家も、道も、道具も、すべて自然のもので出来ていた頃に生きた虚無僧たちが奏でた尺八の音色は、一体どんな音色だったんだろう。
便利になりまくっているのに、なぜか時間すら無い現代。
人は食べるもので出来ているわけではありますが、環境によっても形成されます。尺八を吹く上で、何をすべきか、何に重点を置くべきか、今一度きちんと考えなければと思うのでした。