【サスペンス小説】その男はサイコパス 第4話
「これはこれは。久しぶりだな、水樹」
そっと立ち上がって悪びれもせず知也は言った。時道の前ではあるが、学生時代からの友人には違いない。いや、『だった』と言った方がいいのだろうか。
水樹の表情もこちらに向かう足取りもしっかりしており、もうあの時のような怯えや絶望は感じられなかった。元気回復していたわけか。それなら土下座の一つでもすれば充分だろう? それとも一発張り飛ばしたいか?
思ったことをやはり今も口には出さない。時道翁がこの場にいなければ、いても職務上の依頼人でなければ言っていただろうが。
「お前を殴ろうとは思わないよ。土下座も要らない」
知也の心を読んだように水樹は言った。
「何のためにここに呼び出したんだ?」
水樹には敬語を使わなかった。時道の前でも敬語は不自然だと考えたからだ。時道翁は水樹の友人として認めていると受け取れる言を先ほど告げていた。ならば普段通りの言葉遣いでかまわないはずだ。
いや、もう普段とは言えない。その日常は一年前に終わっていた。
「公証人の前で立ち合ってもらう証人には水樹はなれん。わしの身内だからな。名尾町さん、あんたと、あと一人南川という人に来てもらいたい」
「うちの南川をご存知でしたか」
時道老人はうなずいた。顔は上げず正面に向けられていて、知也だけでなく水樹の方をも見ない。
「うちの親父が世話になったんだ」
短く、ぶっきらぼうに水樹が言った。
なるほど、そういうことか。南川さんは水樹を知っていたのだろうか?
知也は時道老人を見ながら、表面的には礼を失しないように膝をついた。
「それでは南川からの紹介で私にご依頼いただけたのでしょうか」
南川は司法書士だ。行政書士との違いは、大まかに言えば扱う法的書類の種類と提出先だ。行政書士よりもさらに難関の国家資格で、合格率は約4パーセントしかない。それだけに、より高度な法律問題の相談にも対応できる。
──南川さんってカッコいい!
──あんな人を本当のサバサバした女って言うのよね!
そんな後輩の女性事務員たちの声を聞いたこともある。
時道老人は知也の問いに答えた。
「いや、それは別の話だよ。娘婿(むすめむこ)の仕事の細かい事にわしは関わらない。時代もやり方も違うからね。残念ながらわしは第一線を退き、そして二度と前線には戻れんのだ」
それでも有能な司法書士を、跡継ぎにした婿養子に紹介するくらいはできるはずだ。南川さんか、彼女と同じくらいに有能なのを。
知也がそう思ったのは、今までに知り、今こうして目の前にいる時道翁への、できうる限り客観的な評価であり、好意や敬意を必ずしも意味しなかった。
時々勘違いさせることがあった。好意を持ったから褒めてくれたのだと思われてしまうのだ。その相手が知也にとって興味深い人間ならよいが、どうでもよければうっとおしく思うのが常であった。
よしんばある程度の好意の表れであるにせよ、無条件に受け入れ承認する友として認めたわけではない。それが分からない者も往々にして存在した。水樹はそうではなかった。勘違いなどしなかったし、知也も友人として扱ってきた。一年前までは。
その水樹が言った。
「何でここに来た?」
「お前こそ、税理士事務所は?」
「質問に答えろ」
知也は水樹の表情に明らかな怒りを見て取った。同時に微かな怯えも感じられる。傷つけられるのを恐れている。物理的にではない。心理的に。
「時道さんのご依頼がうちの四ツ井法律事務所に来たんだ。事務所は俺を寄越した」
「なぜ他の者にしなかったんだ?」
なぜ他の者にしなかったのか。
ここで必要以上にネガティブなニュアンスを嗅ぎ取ってはいけないのだ。水樹が相手の場合には。言葉通りの意味。そう、法律の条文を読むように。
もっとも、法律にしても解釈はいくつも分かれるのであり、実際の運用には柔軟さが求められる。それがリーガルマインド。真の法律の精神。
「またまた俺の手が空いていたからだよ。俺が他に要件を抱えていたら、他の奴がここに来ていた」
「そうか」
どこかほっとした様子。
「僕は相続税の話をうちの先生に持っていかなくてはならない。だからここにいる」
「そうか、クビになったかと思ったよ」
これはもちろん冗談だが、水樹が字義通りの意味でなく冗談と分かる者であったとしても、祖父の時道老人の前でそんなことを言うのは冒険だった。これまでに注意深く見せてきた礼儀正しさに不似合いな印象を与えただろう。それでも知也は言わずにいられなかった。
水樹はむろん、知也の冗談を文字通りに受け取る。彼の生来の脳の働きからすればそうせざるを得ないのだ。これは頭の良し悪しの問題ではない。少なくとも、学校の勉強のできるできないやIQの問題ではない。
「クビになったわけではないよ。仕事は事務所の中だけではないし、それなりには役に立てているからね」
「冗談で言ったんだ、水樹。もちろん分かっているさ」
「水樹、座布団を出して座りなさい」
時道老人が言った。その声色は優しく、表情も和らいでいた。
「失礼ですが、私も座布団をお借りしてよろしいでしょうか?」
時道老人が冷淡な眼差しを知也に向ける前に、水樹がいいよと言ってくれた。壁沿いに置かれた横長の和ダンスを開けて、2枚の紺色の座布団を取り出す。1枚を知也に渡した。
「ありがとう、助かったよ」
横長タンスはどこかの骨董屋で購入した物なのか、明治初期の元大名の家屋敷で使われていたような見事な木製の物だった。表面に重厚な雰囲気をもたらす塗りと浮き彫りがほどこされている。やや赤みがかった茶の色の塗りに、黒っぽい、これも見事な細工の金具が使われている。金具は実用と装飾を兼ねているのだ。
このシンプルな広い洋室に上手く調和していた。それ自体が美術品である古い家具が。
「素晴らしい和ダンスですね」
無難な一言を知也は選んだ。
老人は何も答えない。
「大正時代の物だと聞いたよ」
祖父が一言も発しないのを見て、水樹がそう言ってくれた。大正か、外したな。骨董には詳しいわけではない。
「それはすごいな」
偽りのない一言ではある。大正でも充分な歴史のある物だと言えるだろう。保存状態も見る限り完璧だ。
「知也、お前は何も悪いことをしたと思ってはいないだろう」
「悪いこととは? 具体的に言ってくれないか?」
「いや、いいさ。どうせ悪いのは僕だ。皆そう思っている」
「もし俺があの時ああ言わなければ、他の者たちが代わりにやった。意味は分かるな? 奴らは徒党を組まなければ何もできないが、俺はそうではない。だからこそ一人でもものが言える俺がああ言わなければ、もっと酷いことになっていた。分かるな?」
「ああ。だけどもう少し言い方があるだろう?」
「へえ、お前にそれを言う資格があるのか?」
水樹の祖父を前にして、我ながら大胆と言うか軽率と言うか。知也はそう思った。それでもはっきりと言ってやりたかった。お前がそうした言い方しかできないのなら、俺もきっとそうなんだ。そして定型とされる彼らも。我慢の限界を越えていた。
「うちの孫に謝るつもりはないと、そう受け取っていいかね」
「いいえ。どうしてもとおっしゃるなら謝罪します。ただ、俺があのように言わなければもっと酷いことになっていたのは事実です。それでも気が済まないとおっしゃるのであれば、頭を下げるくらいはいたします」
口調は静かで丁寧に。奥に強い意志があった。恐れもなく、虚勢もなく。
突然、老人の怒りは爆発した。
「この愚か者が! 何という言い草だ!」
しかし、知也は少しも動じなかった。
「なぜ私を愚か者とお思いになるのか、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
冷静に老人に告げた。挑戦的な態度ではなく、ただ静かに。
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