【サスペンス小説】その男はサイコパス 第6話
ワクワクした気分のまま水樹に連れられた廊下を逆に走ってゆく。途中でお手伝いの高木と会う。高木は例の封筒を見た時よりも怯えていた。
「あの、わたしやっぱり警察に」
知也を見て高木は震えた声で言った。
「窓が割られているのですか?」
「は、はい」
「そうですか、時道さんはご無事ですか?」
知也の冷静な様子に高木は、感心よりもやはりいくらかの違和感を覚えたようであった。
「そ、それが」
知也の方は、ここは自分の目で確認した方が早いと思った。
「分かりました、警察への連絡はお願いします」
そう言った時、後ろから水樹の声がした。
「警察への通報は僕がやるよ。高木さんはかかりつけの病院に知らせてください」
「は、はい。水樹様」
水樹がスマートフォンを操作しながら歩きはしないのを知也は知っていた。先に老人がいた部屋に向かう。
すでに高木が出入りした後で、ドアは半開きだった。時道老人は頭から血を流して倒れていた。小さなうめき声がする。
「高木のおばさん、応急処置はご存知ないか」
もしも当の高木が聞いていたなら、ゾッとしたほどに冷静な態度だった。
「タオル、か、手ぬぐい。救急箱に三角巾があればもっといい」
知也はこの部屋の中を探すのは面倒だと思い、自分が持ち歩いている非常用の様々な品物を入れた大きめの旅行用ビニールポーチから、白い手ぬぐいを取り出した。
「時道さん、失礼しますね。病院から迎えが来るまではこれで」
老人は床に倒れ、頭からの血でラグマットは赤い染みができていた。知也は手慣れた様子で頭の傷を手ぬぐいで覆(おお)い、手際よく縛って止血した。徐々に白い手ぬぐいにも血が広がる。
老人には手慣れた手付きに見えた。本当は、慣れるほどの経験があるわけではない。
「マニュアル通りの応急処置ですよ。ご心配なく」
自分を見つめる老人に冷静に告げる。
応急処置を習っていても、いざとなるとなかなかできない。そんな話はよく聞くが、知也にはまるで理解できなかった。ただ教えられた通りにやるだけだ。手に負えなければ余計な真似はしない。それだけなのに。
知識としては分かっている。そんな時、大抵は動揺してしまうからだ。よほど慣れていなくては、単に知っているだけでは手が動かない。『普通』はそういうものなのだと。
「静かさと自信の中にあなたの強さがあるだろう」
イザヤ書30章の15節の別の訳だ。
それは特定の信仰だけのものではない、人間の心理であり真理であると知也は考えてきた。
「おじいさん!」
水樹が今になって駆け込んできた。水樹が遅いのではなく、知也の応急処置が水際だった的確さと素早さだったのだ。
「窓ガラスが割れているな。投石か」
知也はそう言いながら時道老人を水樹に任せると、ガラス片が、散乱する窓辺に歩み寄る。
「水樹、セキュリティはどうなっている?」
門を入る時に、大手警備会社のロゴマークを見た。これくらいの屋敷になら、当然セキュリティもあるはずだと来る前から推測してもいた。
「待ってくれ、病院から迎えが来るまでは静かにしてくれないか」
と水樹は言った。
時道老人は先ほどから一言も何も言わない。目を開けていて、意識ははっきりしているようであるが、ショックから回復してはいないのだろう。
よしよし、今は慰めといたわりが必要なタイムってわけだ。若い時はどうだか知らないが、今は加齢による衰えで、豪胆さにも陰りがあるのだろう。そう知也は判断した。
「水樹、病院と警察は?」
「連絡したよ。もうじきここに来るはずだ」
「セキュリティ会社からは?」
「それももうじき……」
そこで水樹は、言い淀(よど)んだ。ハッとした顔になって、あわてて窓に駆け寄る。掃き出し窓から外に出て上を見上げた。
セキュリティが切られているのか。
知也が思った通りだった。水樹は再び窓から入ってきて、駄目だ、と一言だけ言い、首を横に振る。
「どうやったんだろう?」
ここで周章狼狽するほどではないが、水樹は不安を隠せないようである。
「それも気になるが、今はどうするかを考えよう。まだ犯人はこの庭にいるかも知れないな。そのあたりの低木の茂みにでも隠れようと思えば隠れられる」
そう告げる知也の落ち着きは異常なほどだった。他の二人はそこまで平常心を保てない。警察がじきにやってくるのは分かってはいたが。
「水樹、今この屋敷にいるのは?」
「僕たちと高木さんだけだよ」
「あの人一人でここを掃除しているのか」
「毎日やるのは水回りだけだ。他は週1でもいいと祖父は言っている。それにお手伝いさんはもう一人いるよ。今日は来ない」
「それは幸運だったな」
半分は冗談で半分は本気だった。水樹は文字通りに、100%本気でしか受け取れないはずだ。それをも見越しての軽口だった。
「よし分かった。念のため高木さんを連れてくる。水樹はここで時道さんを見ていろよ」
「高木さんなら、スマートフォンで呼び出せるよ」
しかし、水樹がスマートフォンに触れる前に、遠くから悲鳴が上がった。
「行ってくる」
少しも動じてなどいない様子で知也は言った。
「待てよ、一人では危険だ」
「お前はおじいさんを見ていろよ」
そう言うと振り返りもせずドアに向かう。
「警察が来るまで待て! 僕たちはこうしたことには素人なんだぞ」
ここで高木さんを見捨てるのか? などとは言わない。言ったら水樹がどんな顔をするか楽しみな気もする。だが今はそんな場合ではない。
「なあ水樹、もしここで高木さんに何かあったらお前はさぞかし寝覚めの悪い思いをするぞ。『俺』と違って」
知也は返事を聞かずに部屋を出て行った。先ほど高木を見た部屋に向かう。高木もスマートフォンを持っているのならその場ですぐに連絡を入れたはずだ。固定電話のある場所に行ったのではないだろう。
そこから動いているか? 動いているならどの方向に? まだ時間はそれほど経っていない。
台所へ行こう。そう判断した。
家事を生業とするような女が、気持ちを落ち着けるために一番どこへ行く可能性が高いか? 台所が一番相応しいと判断した。
根拠のないステレオタイプな考えに過ぎないかも知れないが、台所や職場のお茶くみをするための流しのように、ある種の女性が仕事中に自分の居場所として心安らげる場所は確かにあるものだ。
台所に入ると、果たして高木はそこにいた。無事ではなかった。彼女の背に包丁が刺さり、うつ伏せに倒れていた。
「高木さん?」
知也は声を掛ける。返事はなかった。
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