【サスペンス小説】その男はサイコパス 第8話
「おじいさん、立てる?」
「大丈夫だ、名尾町さんの手当が良かったよ。もう血は止まって、痛みもそんなにはない」
「よかったよ。さあここを出よう」
知也はここで指示を出す必要を感じた。
「水樹、お前が先に立って歩け。時道さんは真ん中だ。俺が後ろから行く。この部屋に武器になる物はあるか?」
「実は骨董品の日本刀が金庫にある。でもそれで斬りつけたら過剰防衛になってしまうだろうな」
「お前が言うなら間違いないな、弁護士さん」
日本の法律における正当防衛成立は難しく、過剰防衛で逮捕される場合も多い。裁判になってから正当防衛が認められ無罪を勝ち取ったとしても、その間の損失は償ってはくれないのだ。
また判例でも、相手に重傷を負わせたり死亡させた場合には、過剰防衛どころか傷害罪扱いにまでなった例もある。
「それに日本刀は細身に見えても鉄の塊だ。素人がおいそれと使いこなせる物じゃないよ」
「分かった。それならいい。お前がこれを持て」
知也は鉄製のフライパンを渡す。
水樹はためらったが、仕方ないなといった体で受け取った。
「さあ行こう」
「すまんのう、名尾町さん。こんなことに巻き込んでしまって」
「いえいえ、悪いのは犯人です。それに」
言いかけて、知也は口をつぐんだ。
「それに、何だ?」
と水樹が訊いてくる。
「何でもないよ。警察が来たんだ。犯人も逃げたかも知れない」
まさか、ワクワクしてきましたとは言えなかった。
一刻も早く門までたどり着かなくてはならないが、ここで慌(あわ)てるのはかえって危険だろうと3人とも考えた。
背後にも気をつけながら、水樹、時道翁、知也の順に縦に並んで掃き出し窓から出た。そのまま庭を門に向かって歩く。まだ陽の勢いは衰えず、蒸し暑く汗が自然とにじみ出る。
3人は小走りに、周囲を警戒しながら進む。犯人が何処(どこ)から来るかは分からない。前方にいきなり立ちふさがるかも知れない。
犯人が何処にいるかはっきりと分かっていれば一目散に逃げるのが良いだろうが、そうではないのだ。
屋敷の裏手から側面に来た。門は表側にある玄関からさらに離れた位置にある。何しろ広い庭なのだ。門と塀から、屋敷の建物までは距離がある。
「水樹、庭石を拾えよ。いざとなったら離れているうちに投げるんだ」
「分かった」
少しだけ立ち止まって、水樹と知也は庭に敷き詰められている、きれいな丸石を拾った。みな色が白く表面につやのある石ばかりだ。時道老人もいくつかの石を手にする。
「時道さんは無理をなさらなくても」
「いやいや、若い者にだけ任せてはおけん」
その時の時道には、往年の覇気と豪胆さがよみがえっているようであった。
屋敷の西側の側面を進んでゆく。突如、ガラスの割れる音がして、上から破片が降ってきた。水樹はもろに破片を浴びた。
「上を見るな!」
ガラス片が目に入るのを防ぐためだ。時道老人にも、敬語を使っている暇はない。
水樹が首筋と耳たぶから血を流しているのを見た。重傷ではない。
一瞬で判断すると、自分の頭上にスーツの上着を被(かぶ)る。夏物にしては厚みがある物だ。クールビズではないのが幸いしたなと内心でつぶやく。
「屋敷から離れて塀の方へ!」
言うが早いか自分から塀へと突進した。
平時ならこれくらいの判断は後の二人にも容易なはずだ。いざという時に咄嗟(とっさ)に判断できるのは、軍人や警官などその道のプロか、生まれついてのサイコパスくらいのものなのだろう。
サイコパシースペクトラム。サイコパスを特徴づけるいくつかの心理的特質。そのうち、社会に生きるにおいて有利となる特質を持つ者だけに与えられた『才能』である。
残念ながら反社会的と判断される特質をより強く持って生まれた者もいる。後天的な矯正や他者からの影響でその特質が制御されなければ、犯罪者として人々に害を与える存在となる。あるいは、犯罪にはならないが、極めて有害な言動をするようになる。
「水樹、落ち着け。犯人は二階にいるのが分かった。ここへ降りてくるまでには間があるはずだ。今のうちに急ごう」
「わ、分かった」
水樹は何とか不安を抑えこもうとしているようだ。
「おじいさん、先に逃げてください」
「なに、若い者が生き残るべきだよ」
「何言ってるんです!」
「時道さん、遺言書を書き終わるまでは」
知也は静かに言った。何の余計な情を交えず、ただ事実を知らせるだけの物言い。
「なるほど、確かにそれもその通りだ。わしもまだここでは死ねん。皆で何とか門までたどり着こう」
ただ一つ問題がある。犯人が一人とは限らないのだ。
「俺が踏み台になりますから、二人とも塀を越えて逃げてください。水樹、お前が先に行け。そうしたら向こう側で時道さんを助けてあげられる。ついでに大声で警官をこっちに呼べ」
「それじゃ知也はどうなるんだ? 3人で走って逃げた方が速い」
「まだ全力疾走はできない。理由は分かるな? 俺のことは心配するな。おじいさんを助けたいだろ?」
「でも!」
「トロッコ問題を知っているか? 1人を犠牲にして5人を助けるのは正しいか否かの架空の問題で、サイコパシースペクトラムの持ち主はずっと容易に多数を助ける方を取る。お前はあらゆる意味で、俺とは違う。だが時間がない。今は急いで判断しろ」
「駄目だよ、知也を置いては行けない」
水樹はしっかりとした声で言う。
「時道さんはどうするんだ?」
「知也、でも」
「俺の養父がなぜ実の両親から俺を引き取ったのか、そのわけをお前には話したな?」
「知也……」
「養父にとって俺は実験体であり観察対象なんだ。俺が死んでも残念には思うが悲しみはしない。水樹、お前とは違う」
知也は時道老人の頭を覆う応急処置の手ぬぐいをはぎ取った。血は止まっているが傷口は生々しい。
知也は、時道老人の傷口に思い切り爪を立てた。突然のことで、老人は驚き、痛みにうめいた。
「おじいさんに何をするんだ!」
「言うことを聞け、水樹。二度は言わない」
ぞっとするほど冷たく人の情を感じさせない声。それは命令だった。
「……」
水樹は恐れているようだった。あの時と同じように。
「わかったよ、行くよ」
「よし、分かればいい。俺が四つん這(ば)いになって台になるから、上に乗って塀を越えろ。靴は履(は)いたままでいい。そんなこと気にしてる場合か」
知也は淡々と告げた。
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