【サスペンス小説】その男はサイコパス 第5話
知也の冷静な態度は時道老人をより激しく怒らせた。本当なら依頼人を怒らせるのは得策ではないが、知也の直感は『ここで退いてはならない』と告げていた。さりとて自分も同じように感情的になるのでは子どものケンカだ。こちらはどこまでも冷静に振る舞わなければならない。
俺はこんな風に怒りをぶつけられたからといって、恐れもしなければ反対に怒りで返しもしない。罪悪感もなく、良心の痛みもない。同時に、逆恨みもなく、反撃したい気持ちも湧いてはこない。
『穏やかにして、信頼しているならば力を得る』旧約聖書のイザヤ書の30章15節。知也は信心深さにはほど遠い男だが、古来からの知恵は、当時信じられていた特定の信仰だけのものではないと考えている。
誰でも、仏教徒だろうが無神論者だろうが、穏やかな態度を崩さずに、確固たる何か、あるいは自分自身を信頼していれば、そうではない者よりもずっと力強くいられるはずだ。そうではないだろうか、と。
実際に、知也があまりにも静かな態度でいるので、老人は居丈高な態度を保てなくなってきた、沈着さをもって、対立者よりも優位に立ったことは何度もある。子どもの頃からだ。
あくまでも落ち着いた態度を崩さず、相手の気持ちに同調しない。どんなに怒りをぶつけられようと、泣かれようと、責められようと、決して。
まだ幼い頃、幼稚園児であった頃から知也はそんな風であった。人はそんな彼を見て、怒りや悲しみよりも不気味さを感じるようになった。長じるに連れ、恐れをも抱かせるようになっていった。
彼の両親が息子を、今の養父である寺村おさむの許へ養子に出したのは、知也が小学校三年生の時のことだった。
過去を思い出していたのはほぼ瞬時だけで、すぐに目の前の老人に意識を向け直した。平静は力だ。それは自己コントロールの力である。誰でも自己コントロールが大切であるのは知っている。日々規則正しい生活をする、暴飲暴食をしない、適度な運動をする、金銭管理をする、などだ。
だが多くの人は知らない。人の気持ちや主張に左右されないことも自己コントロールのうちなのだと。ドラマや映画とは違うのだ。生身の人間には心動かされてはならない。
もし現実の人間が俺を動かせるとしたら、と知也は思う、それは俺自身が許可を出した時だけだ。それ以外では動じたりはしない。
まさに『心頭を滅却すれば火もまた涼し』と、戦国時代のある禅僧が言った通りに。その禅僧は、寺ごと火に焼かれて死んだ時にもそう言えた。金持ちの老人がいかに腹を立てようが、知也を焼き殺せるはずはない。
時道翁は口ごもり、何も言えなくなったようてある。気圧されるのとは少し違うが、自分の怒りにも全く狼狽(えろた)えたり、なだめたりの反応をしないため、とうしてよいか分からなくなったのだろう。知也としては威圧するつもりはない。自分の正しさを証明しようともしない。言うべきことはすでに伝えた。それ以上は余計だ。そう思っている。
老人を見下ろす形ではあったが、ひざまずいた姿勢のままで立ち上がりはしなかった。上背はそれなりにあるので威圧的になり過ぎるだろう。
その時、廊下から悲鳴が聞こえてきた。
「……何だ?」
水樹は廊下へ向かう。それより先にドアを開けてお手伝いの中年女性が走り込んできた。
「旦那様、大変です」
旦那様とは、水樹ではなく時道老人の方だろう。
「何だ、騒々しい」
今は怒りを抑えて表面的には平静な面持ちとなっていた。
「旦那様、郵便受けにこのような物が」
白い簡素なエプロンをしたお手伝いは、一通の封書を差し出した。昔ながらの縦長の白い封筒で、普通の切手が貼られていた。
老人はお手伝いから封筒を受け取った。差出人の名と住所の書かれている側に血の跡があった。いや、血の跡に見えた。正確にはどうだか分からない。思わず息を呑んだ水樹を見ながらそう思う。
「警察に連絡した方が」
知也は、それだけ言った。
水樹は淡い水色のボタンダウンシャツに明るいベージュのチノパンツのカジュアルな出で立ちで、ポケットにスマートフォンを入れていた。取り出して「110番を」と言った。
「待ちなさい」
時道老人は水樹を制止した。
「でもおじいさん」
「わしに考えがある」
時道翁は手紙を受け取り、封を開けた。中には何も入っていない。次に老人は自分のスマートフォンで差出人の住所を調べた。その地名は存在しないと表示される。
「やはりな」
時道翁の冷静さに少しは感心しつつ、知也は考えた。単なるいたずらであれ、強い悪意であれ、馬鹿正直に差出人の名前を書く奴はいないだろう。全く別人の住所を書いてかく乱する手もあるだろうが、この封筒を出した者は他人を巻き込む気はないと見てよいのか。
一体何が目的なのか。怨恨か、妬みか。
「こんな物を警察に見せても、大した捜査はやってはくれんよ」
「しかし一応は知らせておいた方がいいですよ、おじいさん」と、水樹。
「いやいや、わしは長年人から妬まれ恨まれるのには慣れておる。このくらいで警察沙汰とは大げさだ。脅迫状でも入っておるなら話は別だがね」
「ただのいたずらだと思ってるの? 確かに赤インクかも知れないし、料理用の肉の血かも知れない。でも一応は」
時道老人は孫の言葉に不機嫌になった。
「くどい。警察には知らせんでよい。ただのいたずらだ。どうせ正面切っては何も言えぬ卑怯者の仕業だ」
横から知也が口を出した。
「差し出がましいかも知れませんが、このままにしておけば嫌がらせがエスカレートしていくかも知れません。水樹の言う通り、警察には知らせた方がいいと私も思います」
時道老人は知也の方を見た。その表情にはわずかながら、感心している様子が見えた。
「ほう、なるほど。そうだな、あんたは少なくとも卑怯者ではないな」
時道翁は言った。これが皮肉ではなく称賛を表しているのを知也はすぐに察した。
「ここは一つ、あんたが解決してみるかね」
「私に、警察に立ち会えとおっしゃるならそうさせていただきます」
行政書士に弁護士か。封筒1枚に大げさと思われるかも知れないが。
「あんたに任せるよ」
老人はそれだけしか言わない。
「かしこまりました。では念のため、警察署に持っていきます」
「それでいい。今回の話はここまでだ。水樹、玄関までお見送りを。靴は窓の外にある」
「はい、おじいさん」
知也は窓の外に置いた黒の革靴を手にとって室内に戻る。水樹の後からドアの外に出た。知也が振り返ると、お手伝いはまだ少し怯えたように、知也が持つ封筒を見ていた。
「高木さん、麦茶を持ってきてくれんか」
老人の淡々とした命令。一連の騒ぎなどなかったかのように。
「かしこまりました、旦那様」
高木と呼ばれたお手伝いは、水樹たちが出て行ったドアから自分も急いで出た。
「玄関はこっちだ」
素っ気ない態度で背を向けてドアの方へ水樹が歩き出す。
「悪かったよ、水樹。今度メシでもおごる。新宿に新しい店ができたんだ。居酒屋だけど昼間は土日や祝日でもランチをやっている。行くか?」
水樹は答えず、黙って先に立って廊下を進む。
「当分お前と飯は食わないよ」
知也はそれを聞いても平然としていた。
「喉が乾いたな。警察署に行く前に何か飲ませてくれ」
知也は豪邸の中でも、動じる素振りもなく気軽に言った。
「なら、台所まで来てくれ」
知也はそうした。水樹の後に付いて広い邸宅内を歩く。まるで最新の一流ホテルの内装だ、と思った。シンプルでありながら、豪壮さと重厚さを醸(かも)し出している。
「いい住まいだ。あの老人が死んだら、お前の物になるんだな」
知也の不謹慎な軽口に水樹はさっと顔色を変える。
「馬鹿なことを言わないでくれ」
「遺留分は現金でなければ受け取れなかったな。もちろん知ってるよな、弁護士さん」
「別に、屋敷なんて欲しくはない」
「そうか、なら何が欲しい?」
ダイニングを抜けて台所にまで来た。大型の冷蔵庫から、ラベルの貼られた青いガラス瓶が取り出される。
「糖分なしの炭酸水だよ。これでいいか?」
「おお、ありがたいね。きっと高級品だろ」
「大した物じゃない」
「ああ、お前にとってはな」
「祖父にとっては高級品ではないと言った。僕には違う。大した贅沢だ」
「よし、できるだけ贅沢して行こう」
知也は勝手に冷蔵庫を開けて、冷えた赤ワインを取り出した。
「何処そこの何年物ってやつか? 詳しくはないが」
「おい、お前、仕事中だろ」
「堅いこと言うな。バレるような飲み方はしないよ」
赤ワインの瓶のフタはすでに開けられていた。樹脂とゴムを組み合わせたキャップがコルク栓の代わりに口をふさいでいる。
「グラス、出してくれ」
水樹は心底呆れた顔をした。
「お前な……」
「そんな顔するな。ラッパ飲みってわけにはいかないだろ」
弁護士資格を持つ若者はため息をついた。
「仕方がないな。少しだけにしろよ」
その時、ガラスが割れる音がした。やや離れた場所からと思われた。方向は、時道老人のいた部屋の方だった。
「な、何だ?」
動揺する水樹にも、取り出してくれた上等そうなワイングラスにも目をくれず、知也は台所を飛び出した。
「まずいことになったか?」
誰にともなく言う独り言。老人の身に何かあったのか。
ああ、事件なのか。
知也は心の中で言った。
ワクワクしてくるね、と。
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