【サスペンス小説】その男はサイコパス 第7話
さすがに一瞬は動揺が走った。だがすぐに平静に近い状態になる。心拍数がやや上昇するのに気がついた。鼻から細くゆっくり息を吸って、また細く鼻から吐き出す。犯人がまだここに潜んでいる可能性を考える。
高木に駆け寄らず、壁を背にして立つ。何か武器になる物が必要だな。それに身を守れる物が。ちょうど剣と盾のように。
剣と盾か。まるでファンタジーのゲームみたいだ。そう思いついてフッと笑みを漏らす。この場に相応しくはない、余裕という以上の何か。
壁を背にしたまま移動し、冷蔵庫のそばまで来る。中から先ほどのワイン瓶を取り出す。床に叩きつけて底を割った。中から高価であろう赤ワインがこぼれ、緑色のガラス片が散る。赤ワインの香りが血の匂いと入り混じった。
「知也!?」
ワイン瓶を割る音が聞こえたのだろう、水樹の声が響いた。
「大丈夫だ」
高木は大丈夫ではない。彼女も病院に運んでもらう必要がある。それは今ここでは話さない。
高木がまだ生きていればだが、と心の中で付け加える。
背中を無防備にしないよう気をつけながらシンクまで近づく。シンク下の収納棚を開けて中を調べ、大きな鉄製のフライパンを取り出した。頑丈で重く、それ自体が武器になりそうだが、これは犯人と遭遇した際に盾として使うつもりだった。
「知也、何があったんだ!? 高木さんは?」
「そちらに戻って話す」
高木を助けるならどうしても背中を無防備にせねばならない。それは避けたかった。それに一度刺さされて倒れた高木を、また襲撃するとは考えにくい。この怪我では知也の知る応急処置では手に負えない。病院にも警察にも連絡は入れてある。
「このまま放置だな」
独り言をつぶやく。
壁づたいに台所を出て、廊下を歩く。心臓の鼓動を意識する。さすがに完全に普段通りとはいかない。
高木は重傷だ。仮に命を取り留めても、心理的外傷でこの屋敷には戻れないだろう。別の家政婦を雇うしかない。
こう考えながら水樹と時道老人がいる部屋のドアの前に立った。ドアは今は完全に閉まっている。
「水樹、俺だ。学生時代、マリスバーガーによく行ったな? お前が一番好きなのは照り焼きチキンバーガーとミネストローネのセットだ。覚えているか」
しばしの沈黙。マリスバーガーは大学の近くにあった、やや高価格帯のハンバーガーチェーン店だ。よく学生たちのたまり場になっていた。
「ああ、覚えているよ、その通りだ」
水樹がドアを開けた。
「合い言葉か、まるで海外のドラマの出来事みたいだ」
「あいにくこれはドラマじゃない。絶対に俺だと確認できなければ開けるな。もしもお前が遺産を相続したら、恨みか妬みかでこうした事はまた起こるかも知れない。だから確認をしろ。忘れるな」
「へえ、一応は心配してくれてるんだな」
皮肉な態度。水樹からすればそう言いたくなるのも当然なのだろう。
「そうだな、俺自身が後悔しなくてよい程度には」
水樹はまだ何かを言いたそうにしていたが、何も言わず黙っていた。気まずい沈黙ではなかった。と、そこへ
「ワインを割ったのか」
と、時道翁が言った。とがめ立てする気はないようだ。緊急事態だと理解してくれてはいるようだなと知也は思う。
「はい、申し訳ありませんが、この事態です。身を守るためにやむを得ず」
「そうだ、高木さんは?」
水樹がハッとして言った。
「重傷だよ。病院へは彼女も搬送してくれ」
「そんな、高木さん!」
あわてて部屋を駆け出そうとする水樹を止めた。
「馬鹿、今はここを動くな。うかつに動かない方がいい」
「でも」
「警察が来るまでは大人しくしていろ。俺たちは素人なんだ。そうだろう?」
「そうだ……でもなんてことだ、高木さん……」
水樹は顔を両手のひらで覆(おお)い、その場にうずくまった。
「お前は優しいんだな。きっと弁護士には向かない」
「なんだって? お前の言う弁護士は、一体どんなイメージなんだよ?」
「どんな仕事をするにしろ、ある程度の冷徹さは必要だろ? 責任ある立場ほどそうなる。まあお前には税理士の手伝いがちょうどいいよ。でも給料はもっと上げてもらえよ。俺と違って、せっかく弁護士資格を持っているんだからな」
「悪いが今はそんな話をする気分じゃない」
それもそうだろうなと知也は思った。
「やっぱり高木さんを助けに行く」
「よせ、今は危険だ。もうじき警察が来る」
「でも!」
その時まさにパトカーのサイレンが聞こえてきた。水樹も時道老人も、目に見えて安堵したようだ。
「ここで油断するな。相手は頭がおかしいかも知れないからな。警察が来ても大人しく逃げ出すかどうかは分からない」
「でも門を開けないと警官が入れないよ」
「閉まっているのは確かか? 犯人は塀を乗り越えてきたのか」
「高木さんからさっき、門は閉まっていると聞いたよ」
その時、外から警官の声がした。若い男と思われる声。
「鷹野さん! 聞こえますか?」
門からではなく、裏手の塀の外側からだ。今、知也たちがいる部屋の近くの塀の向こう側。この部屋の位置は、水樹が知らせたのだろうと思った。
「はい、ここにいます!」
水樹は大声を上げた。ガラス片を踏まないように気をつけながら窓に駆け寄り、開けてもう一度。
「ここです!」
水樹の背後から知也が警官に向かって声を上げる。ぜひ知らせなくてはならない。
「お手伝いさんが包丁で刺されています」
通報で聞いていた話と違うのに戸惑ったのか、警官は一瞬黙っていた。
「包丁で? 投石により怪我をした方がいると聞きましたが」
「通報した後のことです。俺が第一発見者です」
やれやれ、推理小説なら容疑者として疑われるパターンだな。そう言えばアリバイは無いと言えば無い。
この部屋から出て高木に会い、背中から包丁で刺す。できなくはないだろう。指紋など拭き取ればよいし、高木は知也を水樹の友人として、それなりには信用していただろうから、武器として包丁を貸してくれと言われれば出すだろうし、背中を見せもするだろう。
だが動機は? 調べれば俺がサイコパシースペクトラムの持ち主であるとは分かるはずだ。動機なき殺人をやりかねない人種。警察も人間だ、当然偏見もあるだろう。
いや、それよりも今は肝心なことを伝えなくてはならない。
「中は危険です。犯人が屋敷の中にまだいるかも知れません」
塀の外にいる若い警官の声に緊張が走った。
「分かりました。こちらへ出られますか? 動ける人は避難してください。今、応援を呼びます」
その直後に、もう一人の警官の声がした。無線連絡をしているようだ。二人だけで来たのだろうか、と知也は思う。
相手が刃物を持っている凶悪犯なら、二人だけでは心もとないだろう。拳銃をなかなか使わせてもらえない日本社会ではなおさらだ。警官も自らの身を守る権利がある。応援が来るまでは、警官の方から中には行ってきてはもらえない。
「お手伝いの高木さんを残して、俺たち三人はここから出ます。一人は老人で頭に怪我をしています。俺が応急処置をしました。怪我は軽く、動くことはできます」
「分かりました」
若い方の警官が答える。警官の姿は塀に遮(さえぎ)られていて見えない。
「それと、警備会社のセキュリティが切られています」
水樹は補足した。知也と違い、声にも表情にも不安がありありと表れているが、何とか気をしっかり保とうとしていた。
「そうですか、分かりました。今、門の方に回りますので、そちらから出てください。何かあったらすぐに呼んでください」
「分かりました。すぐに行きます。おじいさん、さあ行こう。歩けるよね?」
「ああ、大丈夫だよ」
やれやれ、広い庭も厄介だな。と知也は思った。
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