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創作の日々のエッセイ【ささやかなアイデアに数分間をください】

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私がクリエイティブな生活や創作物のために、日常で考えたこと、見聞きしたことなどを。
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#受動的

相反する要素に耐えられないのは能動性の欠如である

前回の記事はこちら。  今回もあくまでもフィクションの話である。現実の話はしない。なおか…

片桐 秋
8か月前
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緊張感に耐えられないのは能動性の欠如である

 前回の記事はこちら。  現実の人間の話はしない。あくまでもフィクションの話であり、なお…

片桐 秋
8か月前
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複雑さと曖昧さに耐えられないのは能動性の欠如である

 ここで言うのは現実の話ではない。あくまでもフィクションの話であり、しかも主人公に限定さ…

片桐 秋
8か月前
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これは私自身の経験からも確かだと思うが、他人の作品にケチをつければつけるほど、「それでは自分はどうなんだ?」となって自分も自信を失う。そして肝心の自分の創作ができなくなってゆくのだ。これを防ぐ方法はただひとつ、求められない限りアドバイスや指摘はしない、である。

片桐 秋
1年前
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極めて受動的な人間は、認知がゆがんでいるのであるから、そのアドバイスや指摘も当然、現実の問題解決からズレている。極めて受動的な人間の言うことに従えば上手くいかないのは、しごく当たり前の帰結である。

片桐 秋
1年前

これは、ほどほども極めても関係なしに。能動的な人間にとって、優れた人間からライバルと認められるのは栄誉だが、受動的な人間には、相手から嫌われると同義の恐ろしいことである。

片桐 秋
1年前
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自分の家族は極めて受動的な人間ばかりだった。逆らってよかった。むしろもっともっと逆らったほうがよかった。そのほうが、かえって相手のためでもあった。なぜなら、極めて受動的な人間の言うことに従えば従うほどに、極度の受動性をもっと増加させるからである。それほ相手のためにならないのだ!

極めて受動的な人間は、自分自身の主観にはまり込んでいながら、自分自身は見えていない。自分が嫌いだから、自分を見つめることから無意識に逃げている。そして他人ばかりが気になって、こうしては駄目だばかりを言うが、それは一見正論でも、実は人からパワーや能動性を奪っているのである。

片桐 秋
1年前

極めて受動的な人間の言うことは基本的には、『こうしてはいけない』で形成されている。次に優勢なのが『こうしなければならない』である。窮屈で抑圧的だが悪意ではない。むしろ善意で忠告しているのだ。

片桐 秋
1年前
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ほどほどに受動的な人間は、自然と全体より細部に目が向く。小物なども人の顔もだ。能動的なら全体に目が向くが重要な物・者ならアップにしてよく見たい。極めて受動的なら、赤ワインの重要性が分からない。(アントニーが人の血を飲まずに済む)
https://note.com/katagiriaki/n/n46bd91f9fb0a

片桐 秋
1年前

このような物語を読んでとう思うか? https://note.com/katagiriaki/n/n6fce83aba266 極めて能動的なら、なんて素晴らしい余韻のある物語だろう、と。ほどほどに能動的なら、続きに期待するか悲しいが良きラストと。ほどほどに受動的なら極めて能動的とほぼ同じ。極めて受動的なら、中途半端だと思う

片桐 秋
1年前

極めて受動的な人間の根本的意識は、無力感と被害者意識、そして社会から見捨てられた気持ちである。彼らを読者にするには、それを念頭に置いて書く必要があるのだろう。

片桐 秋
1年前
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極めて受動的な人間には、現実の話でもフィクションでも、ほとんど常に自分は切り捨てられる側、悪として断罪される側だとする意識がある。そんな彼らをせめてフィクションでだけでも主人公側に置くには、『無色透明な名作』か、さもなくば世間一般に受ける話の、むしろ逆張りをしなければならない。

片桐 秋
1年前

極めて受動的な人間の本質はtaker(テイカー)奪う者である。彼らは悪意なく自然体でテイカーなのである。彼らは、自分から具体的な見返りを期待せずに何かをすることができるほど能動的ではない。常に何かをしてもらわなければまともに生きていけない、そんな自己認識が彼らをテイカーにしている