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「惜しい」人

今日ドラッグストアで会計を済まそうとしていたらこんなことがあった。お会計は368円、しかしピッとかざそうとした電子マネーの残高が367円だったのだ。1円足りない。何食わぬ顔で別の決済方法にしたが、わたしは非常に悔しかった。2円とか10円とかの差ならここまで悔しい思いはしないだろうが、1円というのが悔しい。

そのときふと、子どもの頃テストで「あと1点だったのにね」と言われることが多かったことを思い出した。

わたしはとにかくケアレスミスで点数を落としていくタイプだった。(今もだが…)漢字のテストで一本棒が足りない、回答欄が1つずれている、単位が微妙に違う、名前が1文字違う、、など完璧に対策したつもりなのに全部中途半端に覚えてしまっている、「惜しい」タイプだ。子どもの頃からだいぶ抜けていた。

この抜け具合が性格にもあればよかったのだが、子どもの頃はとにかく「理想の自分」像があり堅かったため、酷く落ち込んでいた。テストの点数は誰にも見えないように点数の部分を折っていた。「理想の自分」は100点を取って先生や友達、誰よりも親に褒められる自分なのに…。

子どもながらに自分への期待と承認欲求、愛されたい思いがあったのだろう。その気持ちをどう表したらいいかなんて分からないところが子どもの辛さだ。結果が全てだと、結果を出さないと褒めてもらえないし意味も価値もないと本気で思っていた。

罰を与える育て方ではなく、報酬を与える育て方をするべきだという意見をよく聞くが、どちらもよろしくないのでは、と思う。これらはどちらも結果重視だからだ。
子どもは結果によって親が褒めたり褒めなかったりすると、そのままでは愛されない、もっと頑張って期待に応えないとと思う。これが積み重なってくると自虐が癖になり、理想と現実の狭間で苦しむこととなるだろう。大切に育てられたけどなんか苦しいと思う人にはこのパターンも多い。

重要視するのはプロセスであるべきだと思う。頑張っているプロセスを褒めることで、大切なのはゴールすることではなく前進することであると分かるのではないだろうか。ゴールを目指す生き方は上手くいかないとき、自分に価値を見いだすのが難しい。人生はプロセスそのものだから、プロセスを楽しむ方が安定している人間になるのだと思う。

今は自分が100点を目指して勉強しても実際に取れる点数は70点前後であることも分かっているし、そんな自分が等身大の自分であると受け入れている。わたしは限りなく平凡なのだ。100点や勝利のような外面的な理想ではなく、内面的な強さや優しさをもった人になりたいと思う。

そんなことをドラッグストア帰りの車で考えていた。そして、1円惜しくも足りなかったことに、まあわたしだからな、こんなことも起きるよなと笑った。


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