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第7回 植民地の教育と記憶 未来のために振り返る力|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
【連載の概要】
西洋列強による植民地支配の結果、カリブ海の島々は英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、オランダ語圏と複数の言語圏に分かれてしまった。そして植民地支配は、被支配者の人間存在を支える「時間」をも破壊した。すなわち、カリブ海の原住民を絶滅に追い込み、アフリカから人々を奴隷として拉致し、アジアからは人々を年季奉公労働者として引きずり出し、彼らの祖先の地から切り離すことで過去との繋がりを絶ち、歴史という存在の拠り所を破壊したのだ。西洋史観にもとづくならば、歴史とは達成と創造をめぐって一方通行的に築き上げられていくものだから、過去との繋がりを絶たれたカリブ海においては何も創造されることはなかったし、大文字の歴史からも零れ落ちた地域としてしか表象されえない。だからこそカリブ海作家たちは、西洋中心主義的な歴史観に抵抗する。〈記念碑や偉大な建築物、世界を形作る出来事といった「目に見える」歴史でなくとも、ここには歴史がある〉——本連載では、記憶をめぐる彼らの詩学的挑戦を巡ってゆく。
希望が誘拐された時代に
「私は、37年と38年が、その成り立ちとはほとんどあるいはまったく関係のない指導者たちによって、いわば誘拐されたようなものだったと見ています。非常にまともである一方で、自分たちを去りゆく帝国権力の後継者だと考えていた、あの指導者たちに。彼らは、必ずしも彼らの選挙区の支持者となる人々にとっての生来の指導者ではないのです[*1]」。
1930年代、世界大恐慌によって植民地経済が崩壊し、カリブ海の人々はさらなる生活水準の悪化に直面することになった。ガイアナ人経済学者クライヴ・トーマスが主張するように、大恐慌によって「カリブ海諸国ほど大混乱に陥ったところはない[*2]」。この歴史的な経済不況は、カリブ海全域で、肌の色の違いに応じた社会的分断に基づく富の不平等に対する暴動、ストライキ、抗議の連鎖につながった。大衆の間で労働組合活動が活発化するとともに、ジャマイカのノーマン・マンリー、トリニダード・トバゴのエリック・ウィリアムズ、バルバドスのグラントレー・アダムス、ガイアナのチェディ・ジェイガンといった世に名を残すような政治的指導者たちが次々に登場していった。しかし、トーマスによれば、当時のカリブ海の自治と政治的独立を目指す運動は、中産階級によって支配されていた。彼らは政治を、白人が残り香のように置いていった社会的特権を受け継ぐ場と考えていたのである。大衆に支持されながらも、その労働運動は、「植民地支配下で形成されていった、教育を受けた専門職の中産階級やその他の中間層から補充された」指導者たちの手に落ちていった[*3]。大衆から次第に距離を取り始めた彼らは、植民地主義の残滓を克服するどころか、その遺産の恩恵を享受したのだった。
1930–40年代のカリブ海諸国における労働運動で、中流階級出身の知識人たちや指導者たちが大衆を排除し政治という領域を支配したという歴史的背景を、バルバドス人作家ジョージ・ラミングは「誘拐された」と表現している。本稿冒頭の引用は人類学者デイヴィッド・スコットとのインタビューであり、ここでラミングが言及している1937年は、バルバドスにおいていわゆる「1937年蜂起」が発生した年だ。この暴動の引き金となったのは、クレメント・ペインという人物である。彼は1904年にトリニダードに住んでいたバルバドス人の両親のもとに生まれ、4歳のころにバルバドスに戻る。そこで初等教育を受けた後、しばらく事務員として働いていた。1927年にトリニダードに再び移り、そこでユライア・バトラーの指導のもと、労働組合結成運動に積極的に参加してゆくことで、政治的指導者としての素質を養っていった。そしてその経験を糧に、ペインはバルバドスで労働組合運動を展開することを志す。1937年3月26日、彼はバルバドスに戻り、労働組合結成を求める政治集会を開始した。徐々に彼のもとに労働者たちが集まるようになると、イギリス政府は彼を危険視し、ある行動を起こした。彼らはペインがバルバドスへ戻る際、出生地を虚偽申告したとして起訴したのである。実際ペインはトリニダード生まれではあるが、バルバドス出身の両親を持つため「バルバドス」と申告していた。その翌日、ペインは抗議活動として政府庁舎まで複数人を引き連れて行進するも、彼らは逮捕され、ペインには国外追放命令が出された。これに反応した彼の支持者たちが自ら抗議集会を催すようになり、そしてこれが暴徒化したのが、バルバドスの1937年蜂起である。
ラミングは、知識人たちと政治的指導者たちが労働者階級を政治の場から追い出し、労働者たちを代表する存在を抹消させた例のひとつが、ペインの事件であると語る。「リーダーシップを発揮できるような人物は誰なのかという話をしたり調べたりしていると、私は彼らが存在していたと確信することがあるのですが、彼らは中産階級の指導者たちによって、何らかの方法で非常に効果的に抹消されたのだ――周縁化され、抹消され、国を出ざるをえなくなる、彼らは脅威を与えたのですから――と私は思っています。ひとつかふたつ例が出せますよ。非常に優れた組織能力を持ち、絶対的な労働者階級であり、何らかの形で必ず抹消されるようアダムスが手配したある人物たちの話があるのです[*4]」。そしてラミングは、ペインの他にジャマイカの労働者階級出身のマルクス主義者、ヒュー・クリフォード・ブキャナンという人物を挙げている。ブキャナンは1937年に結成されたジャマイカ労働者組合(JWTU: The Jamaica Workers and Tradesmen's Union)の秘書を務めた人物である。ラミングいわく、「ジャマイカでも、中流階級の指導者たちがそのような人物に目をつけたのだと思います。(ヒュー・)ブキャナンにかんする記事を読むと、とても興味深いのです。彼[のような人物]を列挙することができます。その[労働者]階級にはリーダーシップがあるのだと。従来の意味での知的、つまり高度な教育を受けたうえでの知的というものとは違いますが[*5]」。1930–40年代には、ペインやブキャナンのように、労働者階級出身で大衆を代表する「知的」な指導者たちが頭角を現していたのだ。しかしながら、中流階級出身の政治指導者たちは今まで支配階級にいた白人の位置に滑り込み、そういった大衆の希望を担う人物を搾取・排除することで労働運動を「誘拐」していた。そしてその現象は、カリブ海全域で見られていたのである[*6]。
ラミングは、このような政治的指導者たちによる大衆の裏切り、そして労働運動の誘拐が起きた原因を、教育に見出だしている。「つまり、彼らは教育によって、また私たちの社会関係を形成する上で学校というものが果たしてきた神話によって、自分たちが指導者となることを選んだのです[*7]」。1930–40年代の自治を求めた労働運動を契機に、国家としての独立へと歩みを進めるカリブ海の島々にとって、教育は重要な礎であったはずである。しかしそれがなぜか、その教育こそが、中産階級の知識人たちや政治的指導者たちによる「裏切り」を生む結果になってしまった。1930–40年代に溢れていた希望とそれに続く失望を目撃したラミングのようなカリブ海作家たちは、このような中産階級による労働運動の誘拐を批判し、大衆の言葉を用いることで、彼らが祖先から受け継ぎ続けてきた記憶を物語へと変換するのである。
人種と知性と啓蒙思想
その「人間」の系譜学において、シルヴィア・ウィンターが「ヒト(1)」と呼んだ理性的・政治的白人男性像、つまり「ホモ・ポリティクス」という人間のあり方が生じたいわゆる「啓蒙の時代」に、神の加護に恵まれていない原住民や黒人たちは、非理性的な生物という烙印を押された。そして彼らには、理性的な白人たちによる救済が必要なのだと[*8]。こうして「理性」が人間存在の尺度となり、理性的存在としての白人と非理性的他者としての非白人が分け隔てられることとなった時代には、「知性」もまた人種主義と結びつけられるようになった。啓蒙時代を代表するスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、「国民性について」と題された論考の註において、人種主義的な見解を提出している。
私は黒人が生まれつき白人に劣るのではないかと思いがちである。あの顔つきをもった文明的な国民はかつてはほとんどいなかったし、活動や思索のいずれにおいても著名な個人さえいなかった。彼らの間には精巧な製造業は見られないし、芸術も学問もない。他方、たとえば古代のゲルマン人や現代のタタール人のような、白人のうち最も粗野で野蛮な者でも、彼らの勇敢さ、統治形態、あるいは何かその他のことがらにおいて、なお優れたものをもっている。もし自然がこれらの人種間に本来の区別をつくらなかったのならば、このように斉一的で不変な相違は、これほど多くの国と時代に生じえなかったであろう。わが国の植民地は言うに及ばず、黒人奴隷はヨーロッパ中に散らばっているが、彼らにはなんらかの才能のきざしさえ発見されていない。といっても、生まれが卑しく教育のない人びとが、われわれの間に急に姿を現し、あらゆる職業において優れていることはある。ジャマイカでは実際、彼らは一人の黒人を有能で学芸のある人のように語るが、しかし彼は、わずかな言葉をはっきりとしゃべるオウムのように、わずかな成果によって尊敬されているようである。
ヒュームがこのような文言を発したのはこの註において程度であり、積極的に人種差別的見解を発表し続けていたわけではない。実際、彼は奴隷制に強く反対していたのである。しかしながら、この問題含みの註は、後続の哲学者たちに多大な影響を与えることとなる。この人種差別的見解に満ちた註を自身の人間存在の哲学に取り入れたのが、近代最大の哲学者と名高いドイツ人哲学者イマニュエル・カントである。彼は『美と崇高の感情にかんする観察』において、ヒュームの「国民性」と自身の議論を重ね合わせ、「アフリカの黒人は本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない」と述べる[*10]。そしてヒュームを引用して、このように主張する。
ヒューム氏は、どの人に対しても、黒人が才能を示したただ一つの実例でも述べてほしいと求め、彼らの土地からよそへ連れて行かれた十万の黒人のなかで、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、学芸や、その他なんらかの称讃すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの一人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才によって声望を獲得する人々が絶えず見られると主張している。それほどこの二つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。
このようにカントによる人間存在の哲学は、その「人間」という概念に埋め込まれた人種主義的差異によって、複層的に横断されている。『自然地理学』においても、彼はこう述べている。「暑い国々の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、温帯の人間のような完全性にまで到達することはない。人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。すでに黄色のインド人であっても、才能は〔白色人種よりも〕もっと劣っている。ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である[*12]」。普遍的な理性を持つ存在としての人間存在を探究しながら、白人をその頂点とし、非白人を劣等的存在と見なし、さらには黒人を「ニグロ」と呼んで最も低い位の存在と言い放つこの人種主義に因をなす矛盾は、彼の教育観にも潜んでいる。
『教育学』において、カントは「人間とは教育されなければならない唯一の被造物である」と述べ、人間存在にとっての教育の重要性にかんする持論を展開している[*13]。彼の見解では、人間はこの世に生まれ落ちてすぐに自立することはできず、何もされなければ「未開で未発達のまま」の状態である[*14]。「教化されていない人間は〔文化的に〕粗野で未開なのであり、そして訓育を受けていない人間は野性的で粗暴なのである[*15]」。それゆえ、自立した人間を形成するためには、教育的な働きかけが必要なのだ。「人間は教育によってはじめて人間になることができる。人間とは、教育が人間〔という素材〕からつくり出したものにほかならない。〔ここで〕注意すべきなのは、人間は人間によってのみ教育されるということ、〔換言すれば、〕同じように教育を受けた人間によってのみ教育されるということである[*16]」。
『教育学』においてカントの人種主義的な思想が露出するのは、ヨーロッパの外側に住む非理性的な他者が「未開で未発達のまま」である理由を、彼らが自分たちの中に「人間性」を発達させることができなかったからだ、と彼が述べる瞬間である。
未開民族を見てもわかるのは、たとえかなりの長期間にわたってヨーロッパ人に仕えていても、決してその生活様式になじむわけではないことである。しかし、未開民族の場合、これはルソーその他のひとたちが主張しているような自由への高貴な性癖ではなくて、かえってある種の〔文化的に洗練されていない〕粗野な未開性〔を意味するもの〕にほかならない。それは、この場合に動物がいわば人間性を自己自身の中にまだ発達させていなかったからである。したがって、人間はその〔子ども期の〕早い時期から理性の指示にしたがうことに慣らされなければならない。子ども期にみずからの意志のままに気ままに生活することが許されて、しかもその時にいかなる抵抗にもあわなかったとすれば、人間はその全生涯を通じてある種の野性的な粗暴さを持ち続けるであろう。
こうして啓蒙時代に煌びやかに咲き誇り、後世に受け継がれていった思想に潜む人種主義は、現在では批判的人種理論(CRT: Critical Race Theory)として知られる批判理論の哲学者たちによって暴かれ、注意深く検討されている。たとえばアフリカ出身のエマニュエル・チュクウディ・エゼ、カリブ海を背景に持つチャールズ・ウェイド・ミルズがその代表格だ。ミルズは名著『人種契約』において、「実際、カントはヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人、ネイティヴ・アメリカンといった肌の色で区別された人種的序列を定義し、理論化する。しかもこの序列は生得的な才能の程度によって差別化されている」と述べ、カント哲学における人種差別的価値観を浮き彫りにしている[*18]。そしてユダヤ系哲学者ジョージ・モッセを引用しながら、カントが非白人から人間性を剥奪するための資格として知性を利用していたと主張する。「ジョージ・モッセが触れているように、カントの場合、『人種を構成するものは、あらゆる身体的外見や人間的発達の不変的本質であり、その基礎となるものである。また知性もそこに含まれる』。人間らしさにかんするこの有名な理論家は、隷属人間らしさにかんする理論家でもある[*19]」。
知性と理性を備えた白人の下に非理性的で「未開で未発達」な非白人を置くという、この西洋によって考案された人種差別的構図は、白人が非白人に知性をもたらす――すなわち子どもを野蛮から文明へと育てるように「教化する」という啓蒙主義的図式と一致している。カントは『自然地理学』でこのように述べている。
モンテスキューは、インド人ないしニグロは柔和なので死を非常に恐れているが、かれらはまさに柔和であるからこそ、ヨーロッパ人であれば目をつぶることのできる多くの事柄をしばしば死よりも強く恐れるのである、ときわめて正当な判断を下している。ギニアのニグロ奴隷は、奴隷になることを強制されることを知ると〔入水して〕溺死してしまう。インドの女性は焼身自殺をする。カリブ人は些細なことをきっかけとして命を断ってしまう。[……]。
[……]。温帯でも特にその中程に住む民族は、世界中のほかのどの人種よりも身体が美しく、勤勉で、快活で、情熱が温和で、道理をわきまえている。それゆえ、これらの諸民族はあらゆる時代に他の諸民族を教化し、武力によって威圧してきたのである。ローマ人、ギリシア人、古い北方の諸民族、チンギスハーン、トルコ人、ティムール人、コロンブスの発見以後のヨーロッパ人は、その技芸と武器によって、あらゆる南方の国々を驚嘆させてきたのである。
理性的かつ文明的な白人が行ってきた、野蛮で幼稚な非白人の教化に対するカントの礼賛を、ミルズは皮肉を込めてこのように説明している。「ヨーロッパ人はみずからを道徳的に教育するために必要なあらゆる才能を持っているということを、だれも疑問に思わない。アジア人にもいくらか希望はあるものの、かれらには抽象概念を発展させる力が欠けている。生得的に怠惰なアフリカ人は、竹を割って作ったステッキで打ちさえすれば少なくとも従僕や奴隷として教育することができる(カントは黒人を効率よく打擲する方法にかんする有益な助言を与えている)。惨めなネイティヴ・アメリカンは救いがたく、教育をほどこすこともできない[*21]」。非白人は理性を備えておらず、知性を手にする機会にも恵まれていない。そのような野蛮で未発達な状態から抜け出し、自分たちのように輝かしい文明を誇れる人間存在になるには、白人による教育が必要である。啓蒙の時代を通して、白人はそのような思い込みの上に教育の価値というものを重ねていった。エゼは、この思い込みを「人種的優越性」によるものと批判し、次のように述べる。「カントが、ある民族があたかも当然の権利であるかのように『他の諸民族を教化し、武力によって威圧してきた』と指摘するのは、このような人種的優越性を想定したものである。実際、カントの著作の中には、ある種族は生まれながらにして永遠に未熟なままであり、したがって永遠に従属的であり続けると主張するだけのものもある。彼は、被征服者の『未開性』を生み出すのが、征服する側の民族の『教育』と優れた武器なのかどうかという問題を、提起してもみないのである[*22]」。一度でも植民地主義というもの――それを被る側であっても、加担する側であっても――を経験した社会では、この「人種的優越性」による西洋の自惚れをひたすら洗い出し、検討しなければならない。さもなければ、西洋中心的価値観を孕んだ教育によって教化/植民地化された人々の記憶の「脱植民地化」は望めないのだから。
文化的記憶の置き換え
『記憶と想起の教育学』の序文において、「教育とは『文化的記憶』との接触によって生じる広い意味での学びを意図的に促す試みに他ならない」と、教育哲学研究者の山名淳は述べている[*23]。山名が「文化的記憶」の議論の参照点としているのが、エジプト学が専門のドイツ人考古学者ヤン・アスマンと、『想起の文化』や『想起の空間』などの記憶論で知られるドイツ人文学研究者アライダ・アスマンである。アスマンらはアルヴァックスによる議論を引き継ぎ、「コミュニケーション的記憶」と「文化的記憶」というふたつの異なる位相を定義して、それぞれに集合的記憶論を発展させている。コミュニケーション的記憶は文字通り、日常的な会話や定期的な交流から家族や地域社会内で自然に分かち合われる、比較的短期的な記憶である。
個々人がコミュニケーションに参入し、共通の伝承を分かち持つことで、集団の記憶は築かれる。それらの集団の記憶は、安定性、範囲、拘束性の度合いがその都度まったく異なる。ミュージアムで展示され、記念碑に体現され、教科書で伝達されるものにのみ、後継世代にさらに伝えられるチャンスがある。集合的記憶によって社会のメンバーは、空間と時間の隔たりを超えて過去の中に準拠点を確保し、方位を確認するための共通の形式を築くことが可能になる。こうして人々は自分のことを、個人の経験をはるかに越え出る、より大きなまとまりの一部として了解することができる。
主な中心的メディアを日常の会話とするコミュニケーション的記憶は、このような性質を持つゆえに、受け継がれる範囲が三世代程度であるとも論じられている。一方で文化的記憶は、図書館や博物館といった機関に依拠するため、これらの限界を超えて伝えられてゆく。例えば直接の当事者不在の過去などが、これに該当するだろう。「象徴を支えとする記憶もあり、集団はそのような記憶を、自己を確認し、未来の方向を定めるための形式として築き上げ、世代を超えて伝えていく[*25]」。
この文化的記憶が受け継がれてゆくには、先行世代の経験や知識を伝えていくための人工物や営みに、今生きている私たちが接触する必要があるが、その際に関係してくるのが教育なのだと山名は指摘する。そしてアライダ・アスマンいわく、そのように蓄積された文化的記憶へ参加することが、アイデンティティの獲得へとつながってゆく。
文化的記憶とはつまり、受動的な〈蓄積的記憶〉のことだけをいうのではなく、この過去をまさに再活性化すること、そしてその過去を、能動的な〈機能的記憶〉として皆で自分のものにする可能性も含んでいる。これが意味しているのは、〔過去を〕個人や集団で再び我がものにするプロセスを可能にする参加の構造が、重要な役割を果たしているということだ。
ここでの「蓄積的記憶」とは、整理も選択もされないまま詰め込まれた記憶の貯蔵庫のようなものであり、他方の「機能的記憶」とは、そこから選択した情報を集団にとって意味あるものに再構成した記憶を指している。このプロセスが文化的記憶への参加と呼ばれるわけだが、それを可能とする教育的空間は、学校に限られたものではない。「集合的記憶の力動性を媒介する営みとしての教育については、むろん学校に限定して論じられるべきものではない。平和教育や防災教育などに典型的にみられるように、そのような教育はミュージアムなどの諸施設、あるいはモニュメントや都市計画によって構造化された空間などとも連動している[*27]」。コミュニケーションによって限定的に受け継がれる記憶とは異なり、文化的記憶は「遺跡、遺物、建築、都市、モニュメントなどによって構成されている空間」、また「絵画や彫像、写真や映像、音楽やスポーツ、さらには文書記録、証言、文学のような文字による構成物」、そして「祝祭や儀礼、あるいは日常の慣習」といった人工物や営みにおいて学ばれ、継承されてゆくのである[*28]。
だがこのような教育の見方は、果たして植民地での教育の実態そして効果を、認識できているだろうか。植民者によって文化的記憶の継承の場(「学びと教えの空間」)から根こそぎ刈り取られ、その記憶のキャンバスが自己のネガティヴなイメージ(「野蛮」かつ「非文明的」)で塗りつくされた人々にとって、西洋の知ばかりを取り入れた教育論は、どれほど脱植民地化への原動力となってくれるだろうか[*29]。自身を「アフリカ中心主義者」と称すアフリカ文化・哲学研究者のシンピーウェ・セサンティは、一般的に教育と見なされている日常の活動に潜むヨーロッパ中心主義を糾弾し、このように述べている。「ヨーロッパ中心主義とは、ヨーロッパ文化を文明の参照点として中心化し、同時にヨーロッパ中心主義的な教育によって他の文化的価値を疎外することと定義される[*30]」。セサンティいわく、植民地支配を経験したアフリカ社会においては、ヨーロッパ中心主義的教育によって人々の文化的記憶の「置き換え」が行われてきた。「植民地主義と植民地化は、土地を剥奪したり奴隷制へ強制的に連れ込んだりして、アフリカ人を分裂させた。その物理的かつ文化的な分裂を定着させ維持させてきたヨーロッパ中心主義的教育は、アフリカ人の文化的記憶をヨーロッパ人の文化的記憶に置き換えんとしてきたのだ[*31]」。アフリカ人にしてみれば、自分たちの文化的記憶への参加というプロセス自体を、まさに教育によって奪われてきたことになる。そしてこの事態はアフリカに限定されない。植民地支配を被った社会における教育は、おしなべてヨーロッパ中心主義的なイデオロギー装置として作動していたのである。そのようにして「学びと教えの空間」を破壊され植民地化され、白人支配者たちによって持ち込まれた記憶を自分たちの文化的記憶として教え込まれ、学ばざるを得なくなった植民地社会では、教育と記憶の関係性はその土地特有の歴史と経験に照らし合わせて検討されなければならない。
カリブ海の教育と集合的記憶の喪失
カントは『教育学』で「教育はまた一歩ずつ前進するほかなく、しかも、ある世代がその経験と知識を次の世代に伝達し、その世代がさらにまた何かを付け加えて次の世代に委ねるという仕方でしか、教育方法に関する正しい概念は獲得できない」と述べている[*32]。もしそのように教育というものが世代から世代へと委ねられてゆくものだとしたら、カリブ海の人々の記憶は西洋の植民地主義的介入によってその積み重ねの「断絶」を経験したと言ってもよいだろう。グリッサンは『カリブ海序説』において、ボウの「歴史との諍い」に倣いながら、このように述べている。「仏領カリブ海は残忍な脱臼、すなわち奴隷貿易から始まった、数々の断絶によって特徴づけられた歴史の舞台である。私たちの歴史意識は、たとえばヨーロッパ諸民族のような全体主義的な歴史哲学を頻繁に生み出してきた民族のように、いわば土砂のごとく徐々に、そして継続的に、堆積していくことはなかった。それは衝撃、収縮、痛々しい否定、そして爆発的な力といった文脈において生まれたのである。このような連続性の脱臼と、そのすべてを吸収する集団意識の無能力は、私が『非歴史』と呼ぶものを特徴づけている[*33]」。植民地支配や奴隷制という暴力的な「断絶」により、カリブ海の人々は祖先の地から引き離され、その歴史を引き継ぎ積み重ねてゆくことを不可能にされ、強制的にカリブ海のプランテーションへと押し込められた。彼らの「集合的記憶」は、こうして「消去」されたのである。グリッサンが述べる通り、「この非歴史の負の効果は、したがって集合的記憶の消去である[*34]」。カリブ海における教育と記憶の関係性は、この集合的記憶の喪失という経験を認識したうえで語られなければならないのだ。
大英帝国内で教育が始まったのは、1834年に奴隷解放令が実施された後のことである。イギリスの政治家で歴史家の初代マコーレー男爵トーマス・バビントン・マコーレーが、1835年に「インドの教育に関する覚書」を発表し、植民地教育が普及してゆく濫觴となった。この覚書において、マコーレーはインド人から選ばれた一部の人々を教育することで、「血と色はインド人でありながら、嗜好、意見、道徳、知性においてはイギリス人」であるような階級を創出することができるとした。要するに彼らを、支配者である少数派のイギリス人たちと、被支配者である大衆側のインド人たちとのあいだの中間層として据えることで、帝国の行政を円滑にできると主張したのである[*35]。さらにマコーレーは、「現在母語によって教育することができない人々を教育しなければならない」として、教育を受ける環境のないインド人を教化する使命を大英帝国が抱えていることを指摘する[*36]。そのうえで英語こそが「地球上すべての最も賢明な国々が90もの世代をかけて作り上げ、蓄えてきた膨大な知的財産へのアクセス」を提供することのできる言語であると述べる[*37]。そうして彼は、インド人たちが普段用いている現地の劣った言語ではなく、優れた言語である英語を使えるように教え込むことで、彼らを文明へと導く必要性を説いた[*38]。
英語圏のカリブ海においても、奴隷という身分から解放されたアフリカ系の人々に、読み書きや計算の能力を身に着けさせるべく、イギリス政府が地元の教会を通して教育を施し始めた。ただし、インド系アメリカ人の人文学者ゴウリ・ヴィシュワナサンが『征服の仮面』で述べているように、植民地教育は「被植民者をイギリスの文学と思想で教育し、文明化する」という名目で行われたが、その目的は結局のところ植民地における「西洋文化のヘゲモニーを強化する」ことで、植民地支配者と被植民者の優劣関係を永続化させることだった[*39]。また、名著『周縁で書く――モダニズムとカリブ海文学』でポストコロニアル研究者のサイモン・ギカンディも言うように、「植民地教育は、カリブ海の人々の生きた経験を無益なものとして提示することで、彼らを『彼ら自身の現実』から引き離し、被植民者の主体性そのものを否定」するようにデザインされていた[*40]。植民地教育では、イギリスの歴史や文化や偉業がひたすら美化され教え込まれ、その他の文明に対するイギリス宗主国が誇る文明の優位性が強調された。その一方で、イギリスの植民地支配者たちは、歴史や祖先との「断絶」を被りながらも奴隷制を耐え続けたカリブ海の人々の経験を踏みにじり、彼らを劣った存在として描くことで自己の否定的な表象を植え付けた。このように、教育はカリブ海社会においては人々の文化的・民族的アイデンティティを抹消し、宗主国の文化的ヘゲモニーを強化する装置として働いていたのだった。こうして文化的記憶を受け継ぐ場としてのカリブ海の人々の「学びと教えの空間」は完全に掌握され、そこに大英帝国の栄華を称える粉飾された文化的記憶が流し込まれたのである。
『黒い皮膚・白い仮面』でファノンは、白人優位の価値観が教育を通して子どもたちのなかに染み込んでゆく様を、「結晶化」と表現している。「アンティル諸島では、学校で《われらが祖先ゴール人》[ガリア人のこと]を絶えず反復させられる黒人の子供は探検家や文明をもたらす教化者、野蛮人に真理を、純白の真理をもたらす白人に自己を同一視する。自己同一視があるのだ。つまり黒人の子供は主観的に白人の態度をとるのだ。[……]。こうしてアンティル諸島の子供のうちには、本質的に白人のものである、ある態度、物の見方、考え方が次第に形成され結晶化するのが見られる[*41]」。要するに、英語圏以外のカリブ海の島々においても、教育は同様に帝国主義的なイデオロギー装置として利用されていた。そしてかれらにとっての「教えと学びの空間」もまた、自己否定の場であると同時に、西洋支配者たちの優れた「態度、物の見方、考え方」を模倣し内面化するための場となっていたのである。
この教育的空間から、マコーレーが想定していた中間層が育っていった。しかし、彼らは宗主国と現地大衆の橋渡しとなるどころか、自分たちを次第に支配者側の一部と見なし、大衆と自分たちを切り離すようになる。こうしてカリブ海の植民地教育は、まさしく「血と色はアフリカ系でありながら、嗜好、意見、道徳、知性においてはイギリス人」である現地エリート層を形成したのである。彼らの中産階級としての存在は、カリブ海の社会の階層化を決定づけた。こうして「教育にアクセスできるかどうか」という篩い分けによって分断されてしまったカリブ海社会において、ラミングは1930–40年代の労働運動が発出していた希望がまんまと「誘拐される」様子を目撃していたのだった。彼はその社会を、「一方に、読み書き能力がない、そうでないとしても貧しかったり疲れて本を読むことができなかったりして文学とは無縁の大衆、そしてもう一方に、地元の土地で育ったものや作られたものであれば嘲笑うという特定の目的のために教育を受けた植民地中産階級」という雰囲気に支配された社会と表現している[*42]。こうしてカリブ海における1930–40年代の労働運動から、大衆は排除されていった。
またラミングは、「西インド諸島の人々の教育は、小麦粉やバターがカナダから輸入されるのと同じように、輸入されたものである」と述べる[*43]。こうして現地の風土や社会、文化を考慮することなく宗主国から輸入される教育には、ラミングが「神話」と呼ぶ「母国」イギリスが持つ絶対的優越性が混入されている。
それは階級における出自とは関係がない。それはより深く、より自然なものだ。生まれた時にあらゆる人間が受け取る母乳の栄養機能に似ている。それは、未来の課題のために吸収され、学ばれる精神的な糧の源としての神話である。この神話は、西インド諸島の人々の場合、教育の初期段階から始まっている。[……]。この神話は、嗜好と思慮分別においてイギリスが持つ優越性という事実、つまりすべての非英語圏の人々を計算ずくに切り捨てることによってのみ、意味と重みを持つことができる事実から始まる。最初に切り捨てられるのは、植民地住民自身である。
高等教育を受ける余裕のある中産階級は、大英帝国の文化的・歴史的・経済的優越性という「神話」を「母乳」のように摂取して育つ。その過程で、彼らは必然的に自分たちの文化や社会(つまり「大衆」という祖先から受け継いだ文化を絶やさず保ち続けてきた集団)を蔑み、自身をそこから切り離してゆく。こうして、植民地教育によって分断された1930–40年代のカリブ海社会は、「大衆の無関心と、教育を受けた中産階級の裏切りという孤独な砂漠」であった[*45]。
この砂漠において、教育はもはやカリブ海の人々の文化的記憶を継承する媒介としての空間ではなかった。その空間は植民地当局によって掌握され、そこでもたらされる教育は、世界を支配する運命にある大英帝国の華々しい記憶を伝える装置に過ぎなかった。たとえばナイポールは「ジャスミン」という有名なエッセイにおいて、学校でウィリアム・ワーズワースの詩「水仙」の素晴らしさを学ばせられたことを述懐している。その中で、彼はこう述べている。「[水仙は]可愛らしい小さな花である、それは間違いない。しかし、私たちはその花を見たことがなかった。この詩は私たちにとって何か意味があるのだろうか?[*46]」カリブ海に咲いてもいない花の美しさを語る詩を暗唱し、ロマン派詩人が露出的に表現するそのイギリスの田園風景の記憶を、カリブ海の人々は自分たちの記憶として学ばざるを得なかったのである。
この教育から得られるものは、結局のところ「労働から逃れるための最善かつ最も安全な手段」、すなわち「社会生活を可能にしている基盤そのものから離れる」手段であった[*47]。ラミングは、この教育空間から育ったエリート層が「社会生活を可能にしている基盤」たる大衆を切り離し、政治という場を牛耳ることで、カリブ海の労働運動そして「文化的本来性」を求めてゆく歩みが挫かれてしまったと述べる。「教育を受けた人々が徐々に中産階級を形成してゆく過程で、彼らが教育を受けた背景が孕む欠陥が影響を与えた。[……]。教育によって、この階級は[カリブ海における]発展にとって重大な障害となり、文化的本来性を求める闘い[……]にとって敵対的な敵となったのである[*48]」。1930–40年代のカリブ海における労働運動は、植民地教育によって「敵対的な敵」となったこのエリート層、そして政治的指導者たちにより「誘拐」されたのだった。
魂の儀式と後方への一瞥
ラミングは、論考集『流浪の歓び』の冒頭において、1956年のハイチ訪問を振り返り、首都ポルトー・プランスの郊外で目撃したブードゥー教の「魂の儀式」(The ceremony of Souls)なるものについて語っている。
この魂の儀式は、ハイチの農民にとって厳粛な霊的交渉と見なされている。というのも、彼は死者の秘密を直接聞くことができるからだ。この儀式に参加するのは、死後ずっと水の中に閉じ込められていた死者の親族たちである。この重要な夜に、生者との過去の関係について完全にかつ正直に報告することが、死者の義務である。[……]。話すことは死者の義務である。この儀式が象徴するその契約を果たさない限り、水の煉獄から解放されることは叶わないからだ。死者は、彼らの最後の、そして永久の未来となる永遠を迎えるために、話す必要がある。生者は、赦しや贖罪が必要なのかどうか、そして実際に自分たちの現状を改めるための助けとなるような導きがあるのかどうかを聞くことを求める。
ハイチの宗教的伝統に見られるように、カリブ海の人々は奴隷制という残忍な仕打ちに耐えながら、西洋によって「真実」と認められた史実の堆積、すなわち「歴史」から零れ落ちた、名の残らない死者が携えた記憶を生者が聞くための儀式を、長い時間をかけ発明したのだ。この「魂の儀式」によって、西洋の歴史学が想定するような過去から未来への一方通行的な時間認識に逆らい、カリブ海の生者と死者は霊的に交渉し、彼らの「記憶の共同体」を再確認するのである。
名著『解放の物語』においてポストコロニアル文学研究者パトリック・テイラーが述べているように、直線的時間概念を越えたこの創造的/想像的儀式は、死者たちが語る過去の記憶を生者が学び、引き継ぎ、自分たちの現実へ持ち込むことで、今現在彼らを苦しめる植民地主義という牢獄から自身を解放することを意図している。「その儀式のドラマは、ひとつの物語が語られるテキストであり、その共同体の成員たちが、自分たちが経験している現在の出来事や社会的ドラマの観点から解釈するのが、この物語なのである[*50]」。ラミングいわく、こうして時間の一方的な流れを突き破る想像によって創造された霊的交渉の空間において、死者は「これまで提起することが困難であったに違いない事柄」を語り始める[*51]。「歴史」として刻まれなかったその記憶を、奴隷制を生き抜いてきた死者から受け取ることによって、生者は現在彼らの社会が苛まれている植民地由来の問題に対応するための導きを得るのである。
この儀式はまた、植民地当局が象徴する、どの記憶を「真実」と定めるかについて西洋帝国が独占する絶対的な力に抵抗する術を、カリブ海の人々に授けてくれる。
儀式は質素である。砂埃にあるヴェヴェを作る。そして2、3人がそのヴェヴェの印の近くに集まれば、神々はそこにいる。その印こそが、十字架のように、自分たちにとって何が必要であるかを彼らに思い起こさせるのだ。その時、法(the Law)がやってくる。警察は何の前触れもなくやってくる。しかし、何の罪にも問えない。というのも、その礼拝者たちは自分たちの保護者たち、つまり警察を歓迎するために立ち上がるが、その瞬間、彼らの足は砂埃に刻まれた呼びかけの印を消してしまったからだ。神はそこにいない。十字架が消えたからだ。しかし、警察が去った瞬間、印は再び作られる。神は戻り、祈りはその農民たちがささやくどんな要求にも応じるだろう。
魂の儀式は、「公的な」権威や法の外にある空間で行われなければならない儀式なのだ。ヴェヴェとはブードゥー教の精霊であるロワを表す魔術的な模様のことであるが、砂埃に書き込まれたその模様は、「法」がやってくると足で搔き消される。そして「法」が去れば、再びヴェヴェは刻まれ、そこから死者との記憶の共同体が立ち上がるのである。先祖たちがアフリカからカリブ海へと持ち込んだ、口頭伝承におけるトリックスターのアナンシーのように、魂の儀式の参加者は検閲の目を軽やかに搔い潜り、権力を嘲笑う。そして死者との対話を通して、西洋帝国が暴力的に消し去ったはずの彼らの集合的記憶を呼び戻すのだ。
この魂の儀式は、植民者によって支配され制御された「公的な」教育的空間に抵抗し、カリブ海の人々が記憶を引き継ぐことのできる創造的/想像的空間を提供する。この空間において彼らが実践する過去へのアプローチを、ラミングは「後方への一瞥」(the backward glance)と形容する。
儀式にかんする実際の詳細に忠実であることは重要ではない。重要なのは、その象徴的なドラマであり、贖罪のドラマであり、帰還のドラマであり、未来へのコミットメントのための浄化のドラマである。私たちが実践する浄化は、その一部が後方への一瞥という形をとらねばならない。不満や怨恨のある状態[で行われるもの]ではなく、理解する必要性の一部としての後方への一瞥である。
日常生活のどこにおいても実践が可能なこの「後方への一瞥」は、死者として水の煉獄に閉じ込められている祖先の話を聞くことで、彼らの過去の経験や記憶を学び、それを糧に社会を苦しめる植民地的問題に立ち向かい、脱植民地化された未来を描くためのカリブ海による「記憶の詩学」の結晶のひとつなのである。ラミングはこのように説明している。「今存在する状態は異なってはいるかもしれないが、生者と死者――彼らが熱望することは同じような結末である。彼らは未来に関心があるのだ[*54]」。いわばこの「後方への一瞥」は、「未来へ向けた後方への一瞥」なのである。
この「後方への一瞥」を可能にする「魂の儀式」は、詳細を守りながら厳密に行われるものではない。ラミングが言うように、重要なのはその儀式が見せる生者と死者のドラマであり、いついかなる時でも、カリブ海の人々は自分たちの想像力/創造力を通してそのドラマへ入り込むことができるということだ。彼はアフリカ系アメリカ人の文学研究者ジョージ・ケントによるインタビューでこう述べている。「人が住まう世界は、生者のみが住んでいるのではないという意味で、私にとって非常に中心的なものです。それは死者が創りあげたものでもある世界なのです。そして、生者と死者との継続的な対話なしには未来は構築しえないのです。私の本は、常にこのテーマに貫かれていると思います[*55]」。西洋帝国がその直線的歴史観において消し去ったと思い込んでいたカリブ海の人々の記憶は、彼らの「後方への一瞥」という創造的/想像的アプローチによって再構築される。その記憶は、エリート層を養成する教育的空間において行われる文化的記憶の置き換えに抵抗し、脱植民地化への道を照らしだしてくれるのである。
ジョージ・ラミング、『我が肌という砦のなかで』
ラミングによる小説『我が肌という砦のなかで』(In the Castle of My Skin)は、1930年–40年代のバルバドスにある架空の村「クレイトン村」を舞台に、村人たちが政治的動乱に翻弄される物語である。主人公の少年Gにはラミング自身の姿が投影されており、物語は彼の9歳の誕生日に始まり、彼が18歳になって村を去ろうとするところで終わる[*56]。Gがクレイトン村の子どもたちや大人たちと交流することで話が進んでゆくのだが、ラミング自身が序文で述べているように、「村が中心人物であると言ってもいいだろう[*57]」。物語の焦点は常にその村にあり、村の人々の共同的な生活に当時のバルバドスの日常風景が見える。同郷出身の詩人カマウ・ブラスウェイトは、この小説を初めて読んだ際に、このように感じたと記している。「行間やページの隅々まで、私が生きていたバルバドスが息づいている。言葉、リズム、格調、情景、人々、彼らの苦難。それらがすべて蘇ってきた[*58]」。
クレイトン村では、奴隷主の子孫であるクレイトン氏が所有する土地に、元奴隷の子孫である村人たちが住居を構え生活している。彼らの日常は一見平穏だが、その生活がいかに植民地主義由来の社会的不平等、そして宗主国への経済的・文化的依存に決定づけられているかが、幼少期のGの目を通して見え隠れしている。そしてGが成長し学校に通うようになると、徐々に外の世界の雰囲気が感じられてくる。Gの学校の教員であったスライム氏が、「友愛協会とペニー銀行」を立ち上げ、「あっというまに二つを両方とも軌道に乗せ」、政治的な力をつけ始める[*59]。彼を代表として、首都バルバドスにある漁港で働く人々が、海運業の経営者たちと交渉するためにストライキを決行する。朝刊には、トリニダードの砂糖プランテーションで発生した抗議運動の話題が踊る。1930年代のいわゆる「抗議の嵐」がバルバドスにも訪れる。湾港組合の人々のストライキが暴動へと発展する。その海運業の共同経営者でもあったクレイトン氏はその暴動の対象となり、クレイトン村の土地を売却して姿を消す。その売却先はスライム氏率いる友愛協会とペニー銀行だった。村人たちは「教育を受けた人間をうしろ盾にできる」とまで述べるほどスライム氏を信用していたが、彼の裏切りに遭う[*60]。スライム氏は村の土地の権利を掌握すると、友愛協会とペニー銀行に金を預けるほど金銭的余裕のある階級の人々、つまり「共同出資者として知られている者たち」に土地区画を売却し、村人たちを強制的に立ち退きさせる[*61]。こうしてスライム氏は、白人支配者がかつて行っていたように、大衆(村人たち)をさらに搾取するのである。『精神の非植民地化』で有名なケニア人作家グギ・ワ・ジオンゴは、この小説のスライム氏に代表される中産階級について、このように述べている。「このぬるぬるした階級は、記憶を切断するものとしての教育、あるいはある民族の歴史にかんする記憶喪失を生じさせるものとしての教育を通して、母国[大英帝国のこと]の文化と文化的なへその緒で結ばれている[*62]」。『我が肌という砦のなかで』は、教育が生み出したスライム氏のような中産階級による、大衆が彼らに抱いた希望の「誘拐」を見せる。そしてその一方で、「記憶の切断」によって「記憶喪失」となった人々が、いかに先祖の語りから集合的記憶を回収する「魂の儀式」を実践することができるかを描く。
話はGの9歳の誕生日から始まる。その日は雨が降っていて、Gは大切な日が無駄になってしまったと泣いている。「ぼくの誕生日は、土地を覆っていた黒い霧に包まれて、外へと押し流された[*63]」。彼の自然に裏切られたという感情は、これから行われることになるスライム氏ら中産階級による裏切り――土地の没収――を示唆している。そんな彼に、それでは神様を敬う気持ちが足りない、と反応する母が、彼にとって唯一の家族である。これは、欧米の人類学者がこぞって「母親中心的」と形容し、規範から逸脱した種類として喧伝した家族形態である[*64]。「ぼくの生まれは、ほとんど完全に家族関係がないところから始まった[*65]」。Gの語りでは、父の不在に船のメタファーが与えられる。「父は『ぼく』という観念の生みの親となっただけだったが、実際のところは母の責任をぼくに押し付け、彼女が本当の父親役になったのだった。そして、その先は、ぼくの記憶はまっさらだった。それは、生き残るという結末よりも孔を開けて船を沈めることを選んだ船員のように、積荷一杯のエピソードを積んだまま沈んだのだった[*66]」。この沈む船というメタファーは、中間航路によって奴隷船に強制的に押し込められ、物資の不足や病の蔓延などによって生きたまま海に遺棄されたアフリカの人々を連想させる。こうして奴隷制によって世代ごとに積み重ねられる記憶は「断絶」され、現在を生きるカリブ海の人々の記憶は「まっさら」な状態になっているのである。
そんな誕生日に、父が不在で母以外との家族関係のほぼない環境で育ったGが思い浮かべるのは、「とうさん」と「かあさん」という人物たちである。「彼らはぼくたちとは血のつながりがなかったが、それでもとうさんとかあさんだった。みなが彼らをとうさん、かあさんと呼んだ[*67]」。この村人たちがこぞって「とうさん」と「かあさん」と呼ぶ存在こそが、クレイトン村の最長老の夫婦であるが、彼らの本当の名前を知る人はいない。とうさんのモデルは、ラミングの名付け親のパパ・グランディソンである。ラミングは故郷を去った後も彼を覚えており、彼が自然や動物と交わる姿をこのように表現している。「その命とパパの手の間には、その動物を人間だと感じさせる何かがあった[*68]」。ラミングはパパ・グランディソンとの思い出を述懐し、彼が「農民であり生命力を持っていた」(peasant and alive)と述べている[*69]。ラミングがパパ・グランディソンとの思い出を反映させてデザインしたとうさんという人物には、祖先の血と汗が染み込んだ土地との強い繋がりが表現されている。彼の中で、祖先の記憶は「生きている」のである。
しかし、学校はそのような記憶を切断する。そこで行われる教育は、アフリカの地から根こそぎ拉致され、カリブ海のプランテーションで搾取された奴隷たちの子孫である人々の文化的記憶を、「本国」であるイギリスの赫々たる記憶と置き換えている。そのためGのような生徒たちは、祖先が経験した奴隷制の記憶を一切持たない。むしろ彼らは、自分たちの存在価値は「リトル・イングランド」、つまり大英帝国の最も純粋な子どもであることにあると教え込まれる。学校では、毎年5月24日に女王の誕生日を祝う行事が行われる。「列は九つあり、全部で約千人の少年たちがいた。各組は凝集しており、学校の中庭から見ると、その光景は箱になった積荷が甲板に置かれている巨大な船を見るようだった[*70]」。ここで再び船のメタファーが使用され、生徒たちが校庭に分隊ごとに積荷のごとく整列する光景は、植民地時代に船から降ろされる奴隷たちの姿を思い起こさせる。一方でこの行事を見学する年配の世代は、過ぎ去った自分たちの日々を思い返しながら、学校が教育によってバルバドスの「リトル・イングランド」としての歴史的地位を保つことに成功していると喜ばしく感じるのである。「三百年といえば、記憶の耐久年数を越えていたが、大英帝国はリトルイングランドに出会って抱擁し、リトルイングランドは物わかりの良い子供のようにその抱擁を受け入れたのだった。三百年このかた、ほかのどの国もけっしてこの二つの邪魔をしようとはしなかった。バルバドス、あるいはリトルイングランドは、英国の子供のなかでもっとも古く、かつもっとも純粋だったし、つねにそうあらんことを望んでいた。ほかの島々は持主が変わった。フランスであったかとおもえば、スペインであったりした。しかし、リトルイングランドは断固として大英帝国に忠誠を誓ってきた[*71]」。学校は生徒たちに、母なる国たる「ビッグ・イングランド」とその忠誠なる子「リトル・イングランド」という考えを植え付けるのである。整列が終わると、視学官が演台に立ち、生徒たちにこう告げる。「生徒諸君および先生方、われわれはまたふたたび偉大なる女王様の記憶に敬意を払うために集まっている。[……]。われわれはみな、大英帝国の臣民でありその偉大なる企図を享受する者たちである[*72]」。学校という教育的空間がカリブ海の人々に継承させる記憶は、彼らの祖先の記憶ではなく、「女王様の記憶」なのである[*73]。
その行事で女王からの贈り物として1ペンス硬貨が各生徒に配布されると、あるクラスの生徒たちが女王の話で盛り上がる。ある少年が述べる。なぜ年配者が女王のことを「素晴らしい女王だ」と語るのかというと、「彼らのことを解放したからだった。そう彼らは話していたんだ」と[*74]。すると別の少年が、「ぼくはちょっと変だなあと思ったけど、ぼくのことを言っているわけじゃないから気にしなかった。女王は彼らのことを自由にしたんだ」と言い、その「解放」の話が自分たちとは無関係であると語る[*75]。生徒たちは、自分たちより上の世代の人々はどこか監獄なようなところに閉じ込められていて、女王が彼らを解放したために、彼らは女王に敬意を払っていると考える。
そこでまた別の少年が話し出す。「ある老女が、自分たちはかつて奴隷だったけど、今では自由なんだと言っていた[*76]」。しかし、彼には「奴隷」の意味がわからなかった。「どうして誰かを別の人が買うということが可能なのか、彼には理解できなかった。彼は、馬や犬を買い、働かせることが可能なのはわかっていた。しかし彼は、一人の人間がどうやって別の人間を買うことができるのか、理解することができなかった[*77]」。そこで学校の教員に「奴隷」とは何かと尋ねると、その教員は老女を蔑みながらこう答える。「彼女は耄碌しつつあるんだ、と言った。それは、むかし、むかし、大昔のことだった。人びとは大昔の奴隷のことを語っているんだよ。その老女のこととは何も関係がない。彼女はそんなに年を取っているわけがないさ。それに、バルバドスの人びとにも関係のないことだ。ここの誰も奴隷であったことなどない、と先生は言った。そういうことが起こったのは、世界の別の地域でのことだ。このリトルイングランドではない[*78]」。その生徒は、人が人に所有されるという光景を理解することもできないため、奴隷制がバルバドスでは実施されなかったことに安堵する。「ありがたいことに、彼はかつて奴隷であったことがなかった。彼や、彼の父親や、彼の父親の父親も。ありがたいことに、かつてバルバドスでは誰も奴隷であったことがないのだ[*79]」。カリブ海における教育的空間で教えられる歴史とは、記録に残る業績や帝国の偉大な足跡のことであり、そこに奴隷制は含まれていないのである。そのため、生徒たちは「かつて奴隷だった」と言った老女に対してこのような判断を下す。「あまりに古いことだった。歴史はどこかに始まりがなければならないが、そんなに昔である必要はない。それに誰も、この奴隷制というできごとがどこで起こったのか知らなかった。ここではなく、ほかのどこかです、と先生は言い放った。おそらく、そんなことがあったためしはないのです。あの老女ときたら! あわれな馬鹿者なんだろう[*80]」。
こうして文化的記憶の置き換えが行われる教育的空間から育つのが、中流階級である。学校の校長や学年主任、村の監督官や衛生管理士らは、この階級の形成を物語る存在である。カリブ海文学が専門の山本伸が言うように、「彼らはみな直接に白人地主によって雇われたり、仕事上白人とのつきあいがあったりして、何らかの形でイギリス植民地主義の恩恵を受けている人間である[*81]」。視学官に媚び諂う校長は、その姿を「黒光りしてうねうねした蛭の身の動かし方」というように、寄生虫で喩えられている[*82]。また監督官は、「彼ら自身村人であり、女主人に付き添ったり、二十年間勤務したのちに土地の一角に家を建て、所有したりする特別な恩恵にあずかっていた[*83]」。白人に雇われたり、白人との付き合いを持つ仕事に従事したりする彼らは、インド人を教育しようとしたかのマコーレーが期待していたように、「媒介者」としての役割を担っているはずなのだが、「一方から他方へと渡ることのできない橋のようにしか機能しなかった[*84]」。中流階級は大衆を蔑み、大衆は中流階級に敵意を向ける。彼らは「緊張関係」にあるのだ。「各々が他方にとっては敵のイメージをあらわしていた。そして、敵は破壊ないしは懐柔されねばならなかった。監督官は権威主義的であるか臆病者だった。村人は敵対的であるか卑屈だった[*85]」。白人が頂点に立つ共同体において、教育へのアクセスがあるかないかで、奴隷の子孫たちが互いを敵視しあう環境がすでに用意されているのである。「教育を受けた者らは、なんとかして島でもっとも優秀な学校に通い、のちに政府の行政機関で責任の重い地位に就いたのだったが、このような者たちでさえ、この敵のイメージに影響された」[*86]。こうして教育を受け、大衆を敵と見なすようになる中流階級の人々の言葉は、「母国」イギリスの文化の優位性を纏い、無教養で粗野なアフリカ系の大衆から距離をとるための道具として用いられる。「猜疑心、不信、敵意。これらがあらゆる決断に作用していた。[……]。それは監督官の言葉、政府公務員の言葉、そしてのちには、弁護士や医者の言葉となり、この人らは自ら《母国》の文化と呼ぶものを携えて、封筒のように判子を押されて帰還するのだった[*87]」。
中流階級と大衆が緊張関係を続ける一方で、地主のクレイトン氏はその共同体の頂点に居座っている。母なる大英帝国と子なる「リトル・イングランド」という関係性をなぞるかのように、クレイトン氏は同胞のはずがまるで子どものごとくいがみ合う黒人たちを見守る父親のように認識されている。「丘から見下ろす屋敷は、善意に満ちた庇護者ともいうべき性質をたたえていた[*88]」。かあさんは彼との会話をとうさんにこのように報告している。
お天道様のもと、干草の山の横に座りながら私に語ってみせたのは、彼が、あんたや私、それに村全体に感じてるある種の責任は、私らには到底わかりっこないってことだった。彼はそれが本当の責任だというのさ。誰が何を言おうと、彼ができることは大してあるわけじゃない、けれど、つねにその責任を感じると言うのさ。私らは彼の子供じゃないけど、その感情ってのは、彼が言うには、それに似たものなんだ。言ってみれば、村に属している人たちの世話をしなきゃならないのさ。物事は、けっして思い通りにいかなかったって言うんだよ。彼にはそのことが充分わかってる。けれども、彼があんたや私、それにこの神様の大地の片隅にいる私らみんなに感じている責任というその感情は、何物も奪うことができないのさ。それに彼が言うには、私らは幸運なんだよ。なぜって、この島には、そんなたぐいの責任を自分たちに対して感じてくれる人を誰も知らないという人だっているからね。
クレイトン氏の父権的言動は、啓蒙主義時代から受け継がれる人種的パターナリズムもしくは「人種的優位性」を露呈している。すなわち、カントに見られていた人種主義的教育思想、つまりは植民地化された者を劣った他者として烙印を押し、責任をもって彼らを教化するというヨーロッパ中心思想を如実に表している。しかし、「リトル・イングランド」としての集合的アイデンティティを有難がることを教え込まれた人々は、それに反発することなくむしろ幸運として受け入れるのである。クレイトン氏とかあさんの会話は、ヨーロッパの植民地支配者側が、親として子どものように無教養で野蛮な被支配者側に責任をもって世話をするという啓蒙思想を引きずっている一方、被支配者側もそれに同意していることを示しているのだ。
しかし、とうさんはかあさんとは違う立場をとる。とうさんは友愛協会とペニー銀行を始めたスライム氏の言葉に感じ入り、スライム氏の土地所有権についての意見をかあさんに説明する。「もし、クレイトン氏や、過去をさかのぼって、あらゆるクレイトン氏に値する人たちが土地を所有しうるならば、われわれがそうしてはならない理由はない。スライム氏はそう言うのさ」[*90]。スライム氏は、クレイトン氏のような白人が植民地時代から所有する土地に、人々が群がって住むさまを変える計画を打ち上げる。それがうまくいけば、「栄光の時代がやってくるだろう」と[*91]。とうさんは、このスライム氏による土地の所有権を巡る考えに同調する。そして、彼がスライム氏をここまで信用する理由を、次のように語る。「わしが彼にある種、何かしら信頼を抱くのはそういうわけなのさ。なぜって、教育のおかげで彼はあちこちで舵取りをしているわけだし、教育のない人間は、教育をちゃんと受けてきた人間に、スライム氏はそのような人間の一人だが、そのような人間に対して正しくまっとうな敬意を示さなければならないのさ[*92]」。「教育をちゃんと受けてきた人間」であるスライム氏は、「教育のない人間」を導く教養と知性を備えている。だからこそ、とうさん曰く、そのような人間を「指導者とするのは幸運なこと」なのだ[*93]。村の父親であるクレイトン氏にかあさんが感じた「幸運」は、指導者であるスライム氏にとうさんが感じた「幸運」と重なる。どちらも白人であること、もしくは教育を受けたことによって大衆の上に立ち、子どもを見守ることのできる存在として見なされるのだ。
ところがこのような「幸運」に、「魂の儀式」を通して祖先からの警告が発せられる。その「魂の儀式」を行うのは、とうさんである。彼は日頃から不思議な夢を見ることがあり、そのたびにかあさんに報告している。「彼は銀と豚についての夢を見たし、ときには、結婚式についての夢を見ることもあったが、その全部が悪い夢だと彼女は言うのだった。夢の中の結婚式と豚は、つねに死を意味したし、彼女は続けて、銀は絶望なのだと警告した。[……]。しかし、彼はつねにこれらの物事について夢に見たし、とりわけ銀のことを夢に見るのだった[*94]」。ここでイメージされる銀は、山本が主張するように、奴隷貿易に関係している。「彼の『銀』の夢は、まさしく奴隷貿易そのものを意味していたのである。『中間航路』を漂う奴隷たちの姿から連想されるもの、それはまさに老夫人が示した『銀』の夢の意味、つまり絶望に他ならない[*95]」。しかし同時に、この夢が「魂の儀式」の一形態であることを見逃してはならない。ある夜、眠るとうさんに祖先が憑依し、銀にまつわる過去の記憶を語り出す。この祖先は、ヨーロッパ人がアフリカ大陸に着く以前、そこでは数々の部族が自然と深く結びつきながら自立した生活をしていたと語る。部族間の差異はありながらも、彼らは互いに調和して暮らしていたのだった。「男は自らの師であり、あらゆる女性は自らの証言者である。[……]。わが部族、奇妙な部族よ、お前の父親のものであり、わしの兄の息子のものでもある部族[*96]」。だが、白人の侵略者たちが到来すると、奴隷制が始まり、祖先は銀と交換される商品として新世界へと連行される。「交換された銀は海を渡り、わが民は空中の雲のように散り散りになる。[……]。ある者はジャマイカ、アンティグア、グレナダへと、ある者はバルバドスや石油の島、それに山の頂へと行くのをわしは見た[*97]」。
この「魂の儀式」で祖先が語る銀の記憶は、白人侵略者たちによる奴隷制度の開始の話に留まらない。銀の価値は、それまで調和的な生活を営んでいた部族たちに欲を生み出し、彼らの間に裏切りを発生させる原因となったのだった。「部族と部族のあいだで、同じような売り買いがあったが、これは部族らにとって最大の取引だった。各々が自分のものを売るのだ[*98]」。この過去の記憶は、現在クレイトン村を苦しめつつある問題を照らし出す。すなわち、このような同胞による裏切りが、現在でも発生する可能性があるということだ。しかし、この「魂の儀式」によって語られた祖先の記憶は、クレイトン村の人々に伝わることはなかった。その場にいたかあさんはその夜に亡くなってしまい、祖先の言葉を聞き届けた人物はこの世にいなくなった。クレイトン村の村人たちは、とうさんの「魂の儀式」によって過去の記憶から現在の問題に立ち向かう教訓を得ること、つまり「後方への一瞥」を実践することができず、かつてアフリカの祖先たちが経験したように、銀の価値に囚われた同胞による裏切りに遭うのだ[*99]。
とうさんを含めた村人のほとんどが信頼していたスライム氏は、土地の明け渡しという形で彼らを裏切る。現代の銀は、土地なのだった。村人たちにとって、「土地はその土地であり、値段のつけられない、常にそこにあってくれる説明のつかない力の象徴だった[*100]」。ところが彼らの住居には、スライム氏が率いる友愛協会とペニー銀行によるこのような警告がにべもなく貼られ、立ち退きを余儀なくされる。「以前は郷士ジョン・ナサニエル・クレイトンの財産であったこの土地(あるいは不動産)は、売却された。借地人はこれまでどおり、借地料をクレイトンの不動産事務所へ納めつづけるが、地所と呼ばれる土地は、すでに処分された。このような地所の取引に関する情報は、貧しき者のペニー銀行代理人である専務取締役、あるいは同胞援護友愛協会の情報局長まで[*101]」。
教育を受けた人々が自分たちの導き手として存在していることを「幸運」と感じていた村人たちは、こうしてその希望を「誘拐」されることになる。とうさんも土地を明け渡し、「養老院」と呼ばれる施設に送られることになる。そこは慈善事業で運営されている施設だったが、実際は「ある種の設備つきの国家のお荷物だった。一定の人びとが付き添いなしに放置され、老齢や貧困、病気が広がり、避けがたい迷惑になるのをあらかじめ防ぐという、ありがたくない仕事なのだ[*102]」。こうして植民地教育を受けたエリート層、中流階級、そして政治的指導者たちは、土地に深いつながりを持つ人々を裏切り、彼らを根こそぎ排除するのである。ラミングは、カリブ海における学校教育には「あるひとつの意図」が含まれていると述べている。それは「パパのようなものを忘れ、そこから切り離されるように私を訓練することだった[*103]」。教育的空間が生み出した中流階級は、人々と土地の関係を断ち切り、白人侵略者たちがかつてアフリカ大陸で人々を銀と交換したように、土地を金へと交換するのだった。
成長したGは奨学金を得ることができ、同年代の少年たちとは異なり高校へ通い、さらなる教育を受けた。そして18歳になり、トリニダードでの教職を得る。バルバドスから出国する前に、彼は家に戻り、母の手料理を味わう。その後、村を歩きながら人々の家が取り壊されてゆく現状を見る。そしてその最後に、とうさんと出会う。次の日には村を出てゆくことになっていたとうさんは、最後に自分が生活していた土地を眺めに来ていたのだった。彼はGにこう告げる。「わしらはともに明日旅立つのさ[……]わしは墓の手前の最後の休息場所へ、あんたは広い、広い世界ヘな[*104]」。とうさんは養老院へ送り込まれてしまうが、Gはトリニダードへ向かい、そこからさらに広い世界を見ることのできる未来の可能性を抱えている。Gが進む未来は、彼の「後方への一瞥」によって支えられていると言ってもいいだろう。というのも、とうさんが「最後の贈り物」として「祝福の口づけ」を行い、こう告げるからだ。「ひょっとしたら、君はとうさんのことを覚えていてくれるかもしれない。もう会うことはないのだからね[*105]」。中流階級の裏切りにより村は解体されるが、とうさんの記憶はGのなかで生き続ける。シルヴィア・ウィンターがこの小説の結末を評価しながら述べるように、「村の崩壊はその文化を消し去る。しかしその記憶を、そしてその残響を、消しはしない[*106]」。Gは、いわば後方を見返しながら、母の、村の、とうさんの、そして「魂の儀式」によって受け継がれた先祖の記憶を携え未来へと向かってゆくのである。
1930–40年代、植民地教育が消し去ったはずの集合的記憶は、こうしてGに受け継がれる。この記憶を受け取ったGの世代であるカリブ海の若者たちは、植民地支配からカリブ海の島々が独立を試みる1950–60年代に壮年期を迎え、世を動かし始める。
註
[*1]George Lamming, quoted in David Scott, “The Sovereignty of the Imagination: An Interview with George Lamming,” Small Axe 12 (2002), 112–13 (original emphasis).
[*2]Clive Y. Thomas, The Poor and the Powerless: Economic Policy and Change in the Caribbean (New York: Monthly Review Press, 1988), 47.
[*3]Ibid., 60.
[*4]Lamming, quoted in Scott, “The Sovereignty of the Imagination,” 113. グラントレー・アダムスはバルバドスの政治家で、英領時代のバルバドスの初代自治政府首相を1954年から1958年まで務めた人物である。
[*5]Ibid. ブキャナンはジャマイカ初のマルクス主義者としばしば称される活動家である。16歳でキューバに赴き、そこであのマーカス・ガーヴェイが結成した世界黒人地位改善協会(UNIA: Universal Negro Improvement Association)の活動に身を投じる。ジャマイカに帰国後、同じく活動家のアラン・G・S・クームスとジャマイカ労働者組合を設立する。しかしクームスが「教養と知性のある」人々の支持を獲得すべく、貸金業者で後のジャマイカ初代首相となるアレクサンダー・ブスタマンテを会計として招き入れたことで、組合の分裂が始まる。ブスタマンテはたちまち組合の支配的な人物となり、クームスに会長職を譲り渡すよう通告する。クームスもそれに応じ「尊敬する献身的な友人であるアレクサンダー・ブスタマンテ氏に会長職を自主的に譲ることを、心から喜ばしく思います」と宣言する。ブキャナンは、自分が書記を務めている労働組合の会長に貸金業者が就任することに断固反対する。しかし組合の指導部がブスタマンテに味方し、ブキャナンは書記を辞任して組合を去ることになる。その後労働組合は勢いを失くし、結果としてはブスタマンテが新たに立ち上げた「ブスタマンテ産業労働組合」(BITU: Bustamante Industrial Trade Union)に吸収される形となった。(Arnold Bertram, “In Memory of Alan St. Claver Coombs,” Jamaica Gleaner May 7, 2006, https://old.jamaica-gleaner.com/gleaner/20060507/focus/focus3.html)
[*6]ジャマイカでは、1968年に「ロドニー暴動」が引き起こされた。これは西インド諸島大学の歴史学科で教鞭を執っていたガイアナ人歴史学者ウォルター・ロドニーを、ヒュー・シアラー政権が入国禁止にしたことに対する抗議運動である。トリニダードなどで発生したブラックパワー運動との関係も深いが、ブラックパワー運動を語るためには別稿を用意する必要がある。ところで、日本においては仏語圏のファノンにかんする言及があれほど多い一方で、英語圏のロドニーにかんしては極めて言及が乏しいのは何故なのか?
[*7]Lamming, quoted in Scott, “The Sovereignty of the Imagination,” 113.
[*8]詳しくは連載第2回を参照。
[*9]デイヴィッド・ヒューム『道徳・政治・文学論集[完訳版]』田中敏弘訳(名古屋:名古屋大学出版会、2011年)、183。
[*10]カント『カント全集 2――前批判期論集 II』宮武昭、山本道雄、松山壽一、植村恒一郎、加藤泰史、田山令史、久保光志訳(東京:岩波書店、2017年)、379(強調原著者)。
[*11]同書、379–80(強調原著者)。
[*12]カント『カント全集16――自然地理学』宮島光志訳(東京:岩波書店、2001年)、227(強調原著者)。
[*13]カント『カント全集17――論理学・教育学』湯浅正彦、井上義彦、加藤泰史訳(東京:岩波書店、2001年)、217。ちなみに『教育学』はカント自身が出版したものではなく、彼の弟子で友人でもあったF・T・リンクによって彼の講義ノートなどがまとめられ、出版されたものである。
[*14]同書、218。
[*15]同書、222。
[*16]同書、221。
[*17]同書、219。
[*18]チャールズ・W・ミルズ『人種契約』杉村昌昭、松田正貴訳(東京:法政大学出版局、2022年)、88。
[*19]同書、87。
[*20]カント『自然地理学』、228–30(強調原著者)。
[*21]ミルズ『人種契約』、89。
[*22]Emmanuel Chukwudi Eze, Achieving Our Humanity: The Idea of the Postracial Future (New York: Routledge, 2001), 80–81.
[*23]山名淳「はじめに――「記憶」が導く教育への問い」『記憶と想起の教育学――メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ』山名淳編(東京:勁草書房、2022年)、iii。
[*24]アライダ・アスマン『想起の文化――忘却から対話へ』安川晴基訳(東京:岩波書店、2019年)、12。
[*25]同書、20–21。
[*26]アスマン『想起の文化』、22。
[*27]山名淳「〈記憶の教育学〉モデルを構想する──比喩としての記憶と教育に関する試論」『記憶と想起の教育学』山名淳編(東京:勁草書房、2022年)、301。
[*28]山名「はじめに」、iii。
[*29]「本論集の特徴は広い意味での教育に関わる哲学・思想や理論に関連していることにある。言及される思想家や理論家は、たとえばジャン=ジャック・ルソー、ハンナ・アレント、ジョン・デューイ、エルンスト・モイマン、アビ・ヴァールブルク。ジークフリート・クラカウアー、エトムント・フッサール、アライダ・アスマン、鶴見俊輔、あるいはカズオ・イシグロなど多彩である」と山名は述べているが、ここで挙げられている人物のほとんどが西洋(白人)の思想家なのは象徴的である(山名「はじめに」、v)。
[*30]Simphiwe Sesanti, “Decolonized and Afrocentric Education: For Centering African Women in Remembering, Re-Membering, and the African Renaissance,” Journal of Black Studies 50, no. 5 (2019), 435.
[*31]Ibid., 431.
[*32]カント『教育学』、226。
[*33]Edouard Glissant, Caribbean Discourse: Selected Essays, translated by J. Michael Dash (Charlottesville: University Press of Virginia, 1989), 61–62.
[*34]Ibid., 62.
[*35]Thomas Macaulay. “Minute on Indian Education,” in The Post-colonial Studies Reader, edited by Bill Ashcroft, Gareth Griffiths, and Helen Tiffin (New York: Routledge, 1995), 428.
[*36]Ibid.
[*37]Ibid.
[*38]このように現地人から中間層を作り出す教育主義は「マコーレー主義」と呼ばれるが、『想像の共同体』においてベネディクト・アンダーソンはそれを「一種の精神的雑婚」と表現している(ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石隆、白石さや訳〈東京:書籍工房早山、2007年〉、154)。
[*39]Gauri Viswanathan, Masks of Conquest: Literary Study and British Rule in India (New York: Columbia University Press, 2014), 2.
[*40]Simon Gikandi, Writing in Limbo: Modernism and Caribbean Literature (Ithaca: Cornell University Press, 1992), 18.
[*41]フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面[新装版]』海老坂武、加藤晴久訳(東京:みすず書房、2020年)、171。
[*42]George Lamming, The Pleasures of Exile (Ann Arbor: The University of Michigan Press, 1992), 40.
[*43]Ibid., 27.
[*44]Ibid., 27–28 (original emphasis).
[*45]Ibid., 41.
[*46]V. S. Naipaul, “Jasmine,” in Critical Perspectives on V. S. Naipaul, edited by Robert D. Hamner (Washington: Three Continents Press, 1977), 16.
[*47]George Lamming, “The Imperial Encirclement,” in The George Lamming Reader: The Aesthetics of Decolonisation, edited by Anthony Bogues (Kingston, JA: Ian Randle Publishers, 2011). 90.
[*48]George Lamming, Coming, Coming Home: Conversations II (St. Martin: House of Nehesi Publishers, 2000), 17.
[*49]Lamming, The Pleasures of Exile, 9–10.
[*50]Patrick Taylor, The Narrative of Liberation: Perspectives on Afro-Caribbean Literature, Popular Culture, and Politics (Ithaca: Cornell University Press, 1989), 100.
[*51]Lamming, The Pleasures of Exile, 10.
[*52]Ibid. ヴェヴェにかんしては、「webゲンロン」に寄稿した「カリブ海の記憶と逃走/闘争する奴隷たち――ポスト西洋的な「自由」概念としてのマルーン化」において解説している。
[*53]George Lamming, “The West Indian People,” New World Quarterly 2, no. 2 (1966), 65.
[*54]Lamming, Pleasures, 10.
[*55]George Lamming, quoted in George Kent, “‘A Future They Must Learn’: An Interview,” in The George Lamming Reader: The Aesthetics of Decolonisation, edited by Anthony Bogues (Kingston, JA: Ian Randle Publishers, 2011), 167.
[*56]ラミングが実際に生まれ育った村の名前は「カリントン村」(Carrington’s village)である。
[*57]George Lamming, introduction to In the Castle of My Skin (Ann Arbor: The University of the Michigan Press, 1970), xxxvi.
[*58]Edward Brathwaite, “Timehri,” Savacou 2 (1970), 37.
[*59]ジョージ・ラミング『私の肌の砦のなかで』吉田裕訳(東京:月曜社、2019年)、107。
[*60]同書、138。
[*61]同書、377。
[*62]Ngũgĩ wa Thiong’o, (2011). “Freeing the Imagination: Lamming’s Aesthetics of Decolonisation,” in Ibid., xiv.
[*63]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、13。
[*64]連載第5回を参照。
[*65]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、10。
[*66]同書、8。
[*67]同書、13。
[*68]Lamming, The Pleasures of Exile, 228.
[*69]Lamming, The Pleasures of Exile, 228. ちなみにラミングが意図的に用いる「農民」(peasant)という言葉は、北原が述べる通り「植民地の支配者に対し、西インドの土に根差した働き手」を表しており、「もの言わぬ大衆『サバルタン』[……]と同義的に使っている」と考えてよいだろう(北原靖明『カリブ海に浮かぶ島トリニダード・トバゴ――歴史・社会・文化の考察』〈大阪:大阪大学出版会、2012年〉、158)。ただし、ラミング自身はスリナムで行われたインタビューにおいて、“peasant”に「いたって普通の人々」という定義を与えている(George Lamming, George Lamming in Suriname (Uitgave: Ministerie van Orerwijsen volks, 1982), 5)。つまり、カリブ海の風景に根付いた「普通の人々」がラミングの“peasant”のイメージにはあるのだ。
[*70]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、45。
[*71]同書、47。
[*72]同書、49。
[*73]歴史学者F・A・ホヨスによれば、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起した「アイルランド反乱」をきっかけにした「イングランド内戦」(1641~1652年)の戦火からバルバドスに逃げてきた人々が、失った自分たちの生活を取り戻そうとした。そこで彼らがイギリスから持ち込んだ習慣や価値観が、バルバドスの文化的基盤を構築することになった。この時期から、「バルバドスは自らを『リトル・イングランド』と呼ぶようになった」(F. A. Hoyos, Barbados: A History from Amerindians to Independence (London: Macmillan Caribbean, 1978), 25)。
[*74]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、76。
[*75]同書。
[*76]同書、77。
[*77]同書。
[*78]同書、77–78。
[*79]同書、78。
[*80]同書78–79。
[*81]山本伸『カリブ文学研究入門』(京都:世界思想社、2004年)、42。
[*82]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、51。ここは拙訳を採用している。Lamming, In the Castle of My Skin, 40.
[*83]ラミング、『私の肌の砦のなかで』、31。
[*84]同書、34。
[*85]同書、31。
[*86]同書。
[*87]同書、32。
[*88]同書、34–35。
[*89]同書、277。
[*90]同書、123。
[*91]同書、121。
[*92]同書、124。
[*93]同書。
[*94]同書、116。
[*95]山本『カリブ文学研究入門』、44–45。
[*96]ラミング『私の肌の砦のなかで』、313。
[*97]同書、313–314。
[*98]同書、313。
[*99]この裏切りや、中流階級と大衆の敵対関係を、「我が民」という「感情の構造」に着目して分析したものとしてTohru Nakamura, “Peasant Sensibility and the Structures of Feeling of ‘My People’ in George Lamming’s In the Castle of My Skin,” Small Axe 27, no. 1, (2023)をご覧いただきたい。
[*100]同書、358。ここは拙訳を採用している。Lamming, In the Castle of My Skin, 241.
[*101]ラミング『私の肌の砦のなかで』、365。
[*102]同書、373。
[*103]Lamming, The Pleasures of Exile, 228. 実際にラミングは、幼少期にパパ・グランディソンが立ち退きを強いられるところを目撃しており、それがこの作品の背景となっている。「私が7歳の時、私の名付け親であるパパ・グランディソンが彼の小さな家を強制的に引っ越しさせられるのを目撃するという衝撃的な経験をした。その土地は、世代を越えて子どもたちが『山羊を飼っているパパが生きているあの角』と呼ぶようになっていた場所だった」(Ibid., 226)。
[*104]ラミング『私の肌の砦のなかで』、450。
[*105]同書、451。
[*106]Sylvia Wynter, “We Must Learn to Sit Down Together and Talk About a Little Culture: Reflections on West Indian Writing and Criticism,” in We Must Leatn to Sit Down Together and Talk About a Little Culture: Decolonising Essays, 1967–1984, edited by Demetrius L. Eudell (Leeds: Peepal Tree Press, 2022), 111.
参考文献
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● 山名淳「〈記憶の教育学〉モデルを構想する──比喩としての記憶と教育に関する試論」、『記憶と想起の教育学――メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ』、山名淳編、282–309。東京:勁草書房、2022年。
● ---「はじめに――「記憶」が導く教育への問い」、『記憶と想起の教育学――メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ』、山名淳編、i–vii。東京:勁草書房、2022年。
● ラミング、ジョージ『私の肌の砦のなかで』吉田裕訳。東京:月曜社、2019年。
● 山本伸『カリブ文学研究入門』。京都:世界思想社、2004年。
凡例
・引用文中の亀甲括弧〔 〕は原著者・翻訳者による補足を、角括弧[ ]は引用者による補足を意味している。
・引用文献のうち、邦訳のないものはすべで引用者が原文から訳し起こしている。
著者略歴
中村 達(Tohru NAKAMURA)
1987年生まれ。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に日本人として初めて在籍し、2020年PhD with High Commendation(Literatures in English)を取得。現在、千葉工業大学助教。主な論文に、“The Interplay of Political and Existential Freedom in Earl Lovelace's The Dragon Can't Dance”(Journal of West Indian Literature, 2015)、“Peasant Sensibility and the Structures of Feeling of "My People" in George Lamming's In the Castle of My Skin”(Small Axe, 2023)など。日本語の著書に『私が諸島である——カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)。2024年11月、同書で第46回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。