クィアと空間の政治|クィアのカナダ旅行記|水上文
実を言うとわたしはカナダに行くまで、カナダについてほとんど知らなかった。
わたしにとって最も身近な「外国」はずっと、韓国や中国、台湾だったのだ。
というのはもちろん、地理的に近くて、日本にはたくさん韓国や中国、台湾をはじめとするアジア諸国にルーツを持つ人々がいて、小学生から大学生までずっと、友だちに必ずひとりは在日コリアンがいたから。中学からの最も長い付き合いのある親友も、在日コリアンだから。実際、わたしは中国へ行ったことはないけれど、台湾には2回、韓国には4回行ったことがあって、それがわたしにとっての主たる「海外旅行」だったから。
そしてそこで意識される違いとは、主として国籍や民族によるものだった。要するにこれまでわたしは、「人種」について意識する機会をほとんど持たなかったのである。
わたしは日本国籍を持った人間として、この国の多数派として生きてきていて、だからわたしが経験していた「差異」とは主として、見ただけではわからないけれど言葉を発すれば際立つ何かだった。思い出すのはたとえば、大学のプログラムで台湾に滞在していた際に、互いに相手が台湾人だと思い込んで拙い英語でやり取りしていて、しばらくしてようやくどちらも日本人であると気が付いた時のこと。あるいは学生時代、朝鮮大学の学生との交流イベントに参加していて、外見上特に違いのない人々の集団が「日大生(=日本の大学生)の皆さん」と「朝大生の皆さん」と呼びかけられ、2つのグループに分かれた時のこと。伊是名島に行って、旅先で知り合った見知らぬ人々に混じって食事をしながら、琉球諸語で話し続けるおじいさんを前に、彼の言葉をところどころ「翻訳」してもらいながら感じていた不思議な感触のこと。
言葉を交わさなければ際立つことのない差異を感じる時——言うまでもなく、それは国籍や民族に限らず様々に存在する——それは強烈な印象を残した。一見してわからない、「見えない」差異が言葉を通じてふと意識される瞬間を、日本で生きてきたわたしの身体はたくさん記憶していた。そしてそうした経験において、わたしはいつも歴史的な加害者の側だった。なぜならわたしは日本国籍の、生まれも育ちも関東の人間だから。
だからLとCの家に招かれ、アジア系のクィアで集まったのはとても楽しい思い出だけれども、実際その場にいる人々の経験を、わたしは全く共有していないのだった。
クィアのホームパーティーでは白人中心的な場に対する批判と揶揄も当たり前のように出ていたけれど、わたしは共に笑うことはできなかった。わたしはもちろんカテゴライズとしては有色人種だけれども、白人中心的な社会で暮らしたことはないのだから。
でも当たり前だけど、かれらにとって人種は常に意識せざるを得ないもので、それは個人的で親密な関係や欲望の内にも入り込んでいる何かなのだ。たとえばHは「自分の友だちはアジア系ばかりだけど、今のパートナーは白人で、だから友だちの集まりにパートナーを連れて行きづらい」と言っていた。日本よりずっとカップル文化が強くて、セットでコミュニティに関わることがより自明視されているカナダでHが感じている困難について、わたしはあまりにも不十分な想像を巡らせることしかできない。
またタマも以前、カナダのある都市におけるクィアコミュニティへの馴染めなさについて、こんな風に言っていた。
以前タマの訪れたある都市のクィアコミュニティでは、有色人種と付き合っている白人も、有色人種のクィアコミュニティへの出入りが許されてしまう部分があったのだと。アジア系に対するフェティシズムを持っている可能性のある白人にも出入りを許してしまう空気があったのだと。だから有色人種のための空間から締めだされた白人パートナーが、そのことに文句を言うこともまた許されてしまう部分があるように感じて馴染めなかったのだと。タマが普段いるトロントのクィアコミュニティには、人種に関してもっとはっきりとしたスタンスがあって、タマとしてはトロントの方が居心地よく感じるらしい。
有色人種のための空間を確保することの政治的重要性、マイノリティのための安全な空間の必要性を、タマは強調していた。日本では「見えない」マジョリティであるわたしにはない空間に対する感性を、タマと話していると感じるのだった。
*
ホームパーティーの2日後、わたしたちはトロントのチャイナタウンに出かけた。
そしてチャイナタウンで用事があるタマと別れ、わたしはひとり、近くにあるトロント大学へと向かった。その日は2024年5月6日。トロント大学で親パレスチナの学生たちによる抗議活動の一環として行われているキャンプが始まって、5日目だったのだ。
トロント大学の中心には、キングス・カレッジ・サークルと呼ばれる円形の道があって、その内側は緑の芝生が広がる公園になってる。キャンプが行われていたのはこの公園だ。公園と歩道を隔てるようにフェンスがはりめぐらされているのだけど、柵にはパレスチナへの連帯を示す様々な言葉が躍る横断幕やプラカード、ポスターが取り付けられている。中にはもちろん、LGBTQ+の象徴であるプログレッシブ・プライドフラッグや、パレスチナへの連帯を示すクィアのプラカードもいくつもある。「NO PRIDE IN GENOCIDE(虐殺にプライドはない)」——も見える。イスラエルがLGBTフレンドリーを取り繕う一方でパレスチナへの加害を続けていること、差別に抵抗するためのクィアの「プライド」を、加害の正当化に利用しようとしていることを念頭に置いているのだろう。日本語で「パレスチナと連帯」と書かれたプラカードもあった。
特に興味深かったのは、赤いドレスがフェンスに張り付けられていたことである。赤いドレスは、行方不明になっている、あるいは殺害されてしまったカナダの先住民女性たち——この問題はMissing and Murdered Indigenous Womenの頭文字をとってMMIWと呼ばれる——の象徴である[1]。カナダの先住民族であるメティ(Métis)[2]のアーティスト、ジェイミー・ブラックによるインスタレーション「The REDress Project」が元になったもの[3]。人権先進国のイメージがあるカナダだけど、先住民の人々に対する迫害の歴史は今も根強く人々のありようを規定し続けているのだ。たとえば1980年から2012年の間にカナダで行方不明になった、あるいは殺害された先住民族女性の数はおよそ1181人にのぼる。カナダの人口に占める先住民女性の割合は5%以下であるにもかかわらず、殺害された女性のおよそ24%が先住民族女性なのだ。
だからカナダの親パレスチナの人々が強調するのは、イスラエルの虐殺に反対すること、パレスチナの人々に連帯することは、自国の植民地主義の歴史があるからこそ一層重要なのだということだ。もともとその地に住んでいた人々を虐殺し、迫害し、抑圧し、植民者によって作られた国であること。それはイスラエルの、建国から今にまで続く加害と重なっている。パレスチナの旗と並ぶ赤いドレスは、カナダの親パレスチナの人々がどのような認識に基づいてこの運動に参加しているかを指し示している。
着る人を持たずフェンスで揺れる赤いドレスを見ながら、わたしは藤本和子さんの『砂漠の教室』を思い出していた。
藤本さんは、アメリカ文学の翻訳者で、リチャード・ブローディガンやトニ・モリスンをはじめ多数の翻訳を手掛けた人物である。1939年生まれの彼女は1967年に渡米し、のちにユダヤ系アメリカ人の男性と結婚して、夫と共にヘブライ語を学びにイスラエルに滞在した経験を持つ。エッセイ集『砂漠の教室』は、1977年にイスラエルの語学学校に通い、そのイスラエル滞在について記したもので、とてつもなく魅力的な一冊だ。短期滞在ではあるものの、藤本さんならではの鋭い観察眼をもってイスラエル内部の差異(たとえばヨーロッパからの移民と、旧ソ連や中東からの移民の差異)、一口では語りつくせないあまりに多様な「ユダヤ人」の姿、ベドウィン(アラブの遊牧民)との交流が語られている。
ハイファの台所で彼女が実際に作ってみた数々の中東料理のレシピも紹介され、藤本さん自身の個人的な体験も含めて描かれたその本は、イスラエルに関する他のどんな本とも違う。なかでも、インドから単身でイスラエルに移民してきたヨセフ・モリスという人物の家庭を訪問し、インタビューした経験について書かれた「ヨセフの娘たち」は、不思議な一篇だ。そこではもっぱら、藤本さん自身の不妊治療の経験が語られている。ヨセフの幼い娘たちを見て、子どもたちの笑い声がこんな風に家中に響き渡っているのは「いいことじゃないの」と思ったこと、そしてひとつのひらめきのように、養子についての考えが生まれたことが記されているのだ。藤本さんはヨセフの家で、「自分でうんだのではない子供らと一緒に暮らしてみようかしら、という考えに接近する自分をわたしはそのとき見ていたのだ」という[4]。
藤本さんは、抽象的な思弁の「だし」としてのみイスラエルについて語る左翼男性への苛立ちを随所で露にしながら、この上なく個人的なこと、自分の身体のことも含めてイスラエルについて書いていた。だから『砂漠の教室』で最も参照されるのは、森崎和江なのだ。「まわりくどい論理、それがわたしだ」と語りながら朝鮮について考え、言葉を絞り出していた森崎和江——藤本さんは、植民地朝鮮で生まれ育った森崎和江の「朝鮮について語ることは重たい」という言葉に導かれながらイスラエルについて思考し、日本人としてヘブライ語やシオニズムといかに相対するか格闘し、その格闘を通じてアジアを蹂躙した「日本人」なるものを問い直そうとしていたのである[5]。
赤いドレスを見ていると、そんな藤本さんの態度が思い出された。
赤いドレスは、クィアの権利が日本よりずっと進んだカナダで旅行者としてただ単に観光を楽しみ、アジア系クィアの人々に歓迎され、居心地よく過ごしていたわたしに、そうした彼女たちの言葉を思い起こさせた。わたしはここで、居心地よく過ごすばかりでいいのだろうか? ただ、他者の言葉が思い起こされるばかりで、自分自身の言葉は見つからなかった。それはわたし自身の言葉ではなかった。物事はどれもわずかに指先をかすめるばかりで、カナダからも日本からも、わたしは愚鈍で遠かった。
キャンプの前で立ちすくんだままのわたしをよそに、人々が通り過ぎる。
道行く人の中には、フェンスの前の学生たちと話し込んでいる人もいれば、まるで何も起きていないかのように散歩をしている人もいる。様々なプラカードで彩られたフェンスが区切るその道で、通りすがりの小さな子どもが興味深そうにフェンスに顔をくっつけて中をのぞきこんでいる。父親らしき男性が後ろをのんびり歩きながら、「ベイビー、中東がどこにあるか知ってる?」と尋ねる。その子は答えないまま、ただじっと公園を見ている。答えを知らなかったのかもしれない。そもそも中東という言葉がいったい何を意味するのかも、5歳くらいのその子は知らないのかもしれない。でも結局のところ、わたしもその子とたいした違いはないように思える。
*
翌日、わたしたちはゲイエリアとして知られるチャーチストリートへ行った。
チャーチストリートを歩きながら、「STEAMWORKS」と書かれた看板を指して、あそこはゲイ男性のハッテン場だよ、とタマが言う。なるほど。
もちろんわたしたちの目的地はそこではなくて、向かったのはGLAD DAY Bookshopというクィア向けの書店兼カフェである。1970年から存在するその店は、クィアによって、クィアのために存在してきた場所である。昨年、トロント・プライド期間中に訪れた時には、入り口に「単にPRしたいだけの企業や銀行の前にまず、クィアのビジネスをサポートするように」と書かれた看板が掲げられていた。プライド期間中だったこともあって、あらゆる大企業がこぞってレインボーに染め上げられていたけれど、地元の小さなお店は実際かなり厳しいようである。そのせいか、書店のわりにあまり本の種類はなかった。居場所という意味合いの方が強いのかもしれない。今回は、虐められ、暴行されて亡くなってしまったノンバイナリーの学生、ネックス・ベネディクトを追悼する小さなプラカードが置かれていた[6]。クィアのための場所が必要な理由。それは、この世界のほとんどの空間はシスジェンダーで異性愛者の人々を中心としていて、クィアにとっては危険な場合が多々あるから。
書店を出たわたしたちは、ブロアストリートのRBC Royal Bankへ向かって歩いた。親パレスチナの集会「HANDS OFF RAFAH(ラファに手を出すな)」が行われているからである。ラリーへ向かう道すがら、「Chick-fil-A」と書かれたお店が目に入る。タマが「クィアはあそこではモノを買わない」と言う。なぜならこの店のオーナーが同性婚に反対していて、クィアの権利に敵対的な団体へ巨額の出資をしているから。世界的にも有名なゲイエリアであるチャーチストリートから歩いて10分足らずのところだけど、そういうところもあるのだ。いったい、クィアにとって本当に安全な場所ってどこにあるんだろう?
さて、ラリーに辿り着くと、クフィーヤ[7]を身に着けた人々、「イスラエルによるアパルトヘイトを粉砕せよ」と書かれた緑の大きな横断幕、パレスチナ国旗が至る所に見える。ラリーにお決まりのコール——「何を望む?/正義!/いつ?/今!」——や、「虐殺はもういらない」「イスラエルはテロリスト国家だ」「パレスチナに自由を」といったコールが響き渡り、どんどん人が増えていく。通りすがりのトラックがアジテーションに合わせるようにクラクションを盛大に鳴らし、歓声が上がる。アジテーションが上手い。リズムがある。音楽がある。行進が始まる。工事中らしき建物に上り、緑や赤の煙幕を出す人々が出てくる。大通りを人とコールが埋め尽くし、赤と緑の煙がたなびく。それはたとえば、永田町で行われるデモとはずいぶんと違った光景だ——まるで大きな集会などできないかのように開けた場所の見当たらないその土地で、狭い道に長々とした人の列が並ぶ光景とは違った活気がある。時折「私たちの道だ」という叫びも聞こえる。ラリーをすること、街で、道でアピールすることは、決して妨げられてはいけない権利なのだと。
ラリーを見渡していると、タマがわたしに「サブリナがいる」と言う。
振り向くと、首周りにクフィーヤを巻いた黒髪ボブの女性が見えた。サブリナ(仮名)である。わたしたちはまるで知り合いを見つけたかのように沸き立ったけれど、実は別に知り合いではない。サブリナは、ラリーに行く前日、トロント大学のキャンプへ行った後タマと共に出かけたバー、The Harbord House見かけたクィアの女性だ。
木の生い茂る2階のテラス席、気持ちよく開けたその場所で、わたしたちは昨夜、ビールとフィッシュアンドチップスを楽しんでいた。そんなわたしたちの斜め後ろの席に、ロングヘアにキャップを被り、だぼっとしたジーンズをはいた白人女性がひとりで訪れ、足を豪快に開いて座り、ビールを飲み始めたのだ。あれはもう絶対、ホッケーゲームを見ながら歓声をあげているタイプのスポーティーレズビアンだよね、とタマと言い合っていると、彼女の親らしき老年の白人夫婦が現れ、のちに黒髪ボブの有色人種の女性も現れた。漏れ聞こえる会話から察するに、どうやら白人スポーティーレズビアンが、付き合って1年になる彼女、すなわちサブリナを両親に紹介しているようなのだった。でも傍から見ていると、スポーティーレズビアンとサブリナばかりが話していて、両親は目を伏せて、黙ってご飯を食べてばかりいた。
わたしはそれを、白人スポーティーレズビアンの両親が、クィアの恋人を紹介されることに乗り気じゃないからかもしれないと思ったのだけど、タマは「クィアだからじゃなくて、サブリナが中東系だから親は嫌がっているんじゃないか」と言っていた。そうかもしれない。タマの言う通りかもしれない。もちろん本当の答えは通りすがりのわたしたちにはわからないけれど、ただタマの意見を聞いて、わたしはまたしても自分が人種に関して鈍い感性しか持ち合わせていないことに気づかされたのだ。
そして理由がどこにあるにしても、サブリナを取り巻く雰囲気は、あまり良いものとは言えなかった。サブリナの表情が次第に曇っていく。居心地が悪そうだ。昨夜、心の中でサブリナにエールを送りながら、わたしたちは店を後にしたのだった。
そのサブリナが、ラリーにひとりで訪れていたのだ。白人の彼女の両親の前で居心地悪そうにしていたサブリナは、自分の彼女やその両親に、パレスチナの話をすることはできるのだろうか?
もちろん、他にも考えるべきことはたくさんあった。空間は常に隅々まで政治的だった。白人中心的な社会における有色人種のための空間、シスジェンダーの異性愛者を中心とする社会におけるクィアのための空間。イスラエルによるパレスチナ占領、日本の、そしてカナダの植民地主義。トロント大学で行われるキャンプ、街中で行われるラリー。わたし/わたしたちは、どんなところには行けて、どんなところには行けないのか? どこにいるべきではなくて、どの空間なら安全に過ごせるのか? まとまらない考えを抱え込んだまま、警察の姿が見えたところでわたしたちはラリーを離脱した。カナダ国籍を持っていないわたしは強制送還の恐れがあるからである。それもまた、日本でデモに参加する時にはさほど気にせずに済んでいることのひとつだ。