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第4回 カリブ海の偉大な叙事詩 革命闘争の記憶|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達

【連載の概要】
西洋列強による植民地支配の結果、カリブ海の島々は英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、オランダ語圏と複数の言語圏に分かれてしまった。そして植民地支配は、被支配者の人間存在を支える「時間」をも破壊した。すなわち、カリブ海の原住民を絶滅に追い込み、アフリカから人々を奴隷として拉致し、アジアからは人々を年季奉公労働者として引きずり出し、彼らの祖先の地から切り離すことで過去との繋がりを絶ち、歴史という存在の拠り所を破壊したのだ。西洋史観にもとづくならば、歴史とは達成と創造をめぐって一方通行的に築き上げられていくものだから、過去との繋がりを絶たれたカリブ海においては何も創造されることはなかったし、大文字の歴史からも零れ落ちた地域としてしか表象されえない。だからこそカリブ海作家たちは、西洋中心主義的な歴史観に抵抗する。〈記念碑や偉大な建築物、世界を形作る出来事といった「目に見える」歴史でなくとも、ここには歴史がある〉——本連載では、記憶をめぐる彼らの詩学的挑戦を巡ってゆく。


偉大な叙事詩のひとつとして

 トリニダードが生んだ知の巨人、偉大なる政治思想家C・L・R・ジェイムズは、1938年に名著『ブラック・ジャコバン』を出版した。この本において、アフリカ系カリブ海知識人として初めてジェイムズはハイチ革命を語り直し、トゥサン・ルーヴェルチュールを指導者としたハイチの黒人奴隷たちが革命闘争に身を投じ、植民地支配によって構造化された社会を変えてゆく様に光を当てた。あるインタビューで、ジェイムズはこの本を書いた理由として、アフリカにおけるアフリカ人による革命闘争を鼓舞するという目的を挙げている。後にケニアの初代首相および初代大統領となるジョモ・ケニヤッタやガーナの初代大統領となるフランシス・クワメ・エンクルマといったアフリカの政治的指導者たちが、こぞって『ブラック・ジャコバン』を読み、その革命史から学んだことで、アフリカにおける革命闘争の芽が育っていった。「彼らに革命闘争の方向性を与えてくれるものはなかった。だから私はその本を書いたのです。そして彼らはそれに反応してくれたのでした[*1]」。続いてジェイムズは、カリブ海で『ブラック・ジャコバン』が影響を与え始めたのは出版直後の1938年ではなく、第二次世界大戦後の1945年のことだったと述べる。カリブ海の人々の間で芽生え始めた自治権を求める政治意識は、第二次世界大戦後に社会運動へと変化した。ジェイムズによって編まれたハイチ革命史は、カリブ海の人々やアフリカの人々に、カリブ海で成功した黒人による革命の物語を提供し、「革命闘争の方向性」を示してくれる知の源となったのである。

 ジェイムズはハイチ革命が誇示した「革命闘争の方向性」に、大衆という核を見出している。「奴隷たちは土にまみれて働き、革命的な農民ならどこでもそうであるように、抑圧者を打倒しようと考えていた。しかし、北部平原一帯の巨大な精糖工場で数百人が一団となって働き、生活している奴隷たちのばあいは、当時のどんな労働者よりもむしろ現代のプロレタリアートに近い存在だった。したがって、蜂起は、周到に準備され、組織された大衆運動であった[*2]」。ジェイムズは、ハイチ革命の闘争に従事することによって、黒人大衆が西洋列強によって押し付けられた非人間的他者としての自己定義を脱ぎ捨て、主体性を模索したと述べる。そしてその大衆を導いたトゥサン・ルーヴェルチュールを、ハイチを近代国家として最初に認識した政治的指導者として評価する。「黒人指導者のなかにあってトゥサンだけが、全員の解放を胸にいだき、一七九二年初頭には、なんの知識も訓練ももたない数千の黒人のなかから、ヨーロッパの軍隊と渡り合えるような軍隊を組織しはじめていた。この反乱軍は、数のうえでの圧倒的優勢という条件にもとづいた攻撃法を編みだしていった[*3]」。ジェイムズは、ハイチ革命史を語り直すことで、黒人大衆が自分たちの社会を変革し、自分たちの文化を定義する様を例証してゆくのである。「人間は自分自身で歴史をつくる。そしてサンドマングのブラック・ジャコバンたちはまさに、何百万の人間の運命を変更し、三大陸の経済潮流を転換させるような歴史をつくるために存在した[*4]」。

 ジェイムズは、補論「トゥサン=ルヴェルチュールからフィデル・カストロへ」において、歴史研究における西洋中心主義がカリブ海の人々の自己認識に及ぼす影響に警鐘を鳴らす。そして彼はその補論を、カリブ海の人間を自分たちの歴史へと接続する試みであると明確に述べる。「西インドにかんする著述家たちはつねに、イギリス、フランス、スペインおよび米国、すなわち西欧文明にのみみずからを関連づけようとし、けっして西インドの歴史との相関のもとで自己をとらえようとはしなかった。補論は、このような試みの最初のものとなろう[*5]」。ジェイムズはその試みにおいて「西インド人は、ハイチ革命のなかからはじめて西インド人としての一体感をいだくようになった」と主張する[*6]。彼の『ブラック・ジャコバン』は、ハイチ革命を、カリブ海の人々がカリブ海の人間として一体感を得ることができる参照点へと変えたのだ。「仲間が一〇〇人いてもたったひとりの白人のまえでさえ恐れおののいていた奴隷たちが、みずからを組織し、当時最強のヨーロッパ諸国を打破しうるような人民へと変容していった過程は、革命闘争とその成就における偉大な叙事詩のひとつである[*7]」。1791年、白人奴隷主を恐れ、ただ虐げられ使役させられていたカリブ海の黒人大衆は、トゥサンに導かれ自らを闘争へと投げ入れ、ハイチ革命を巻き起こした。ジェイムズの『ブラック・ジャコバン』は、彼らの革命史を、その後のカリブ海という世界を生きる人々にとっての「偉大な叙事詩のひとつ」として謳い続けるのである。

過去を沈黙させること

 ジェイムズが補論「トゥサン=ルヴェルチュールからフィデル・カストロへ」を加えた形で『ブラック・ジャコバン』第2版を出版したのは、1963年のことである。興味深いことに、同年にアーレントは『革命論』を出版している。彼女がジェイムズの『ブラック・ジャコバン』を読んだかは不明だが、『革命論』における彼女の語りを見れば、彼女にはカリブ海のその偉大な叙事詩に耳を傾ける気はなかったということがわかるだろう[*8]。

 『革命論』においてアーレントが試みるのは、革命とは暴力によって政治形態の解体を目指すものではなく、新たな政治形態を創設するもの、すなわち新たな「始まり」を志すものであるということを論じることである。自身の革命論を貫く視点として、アーレントは革命として成功したアメリカ革命と失敗したフランス革命という対立図式を展開する。彼女いわく、フランス革命はその指導者たちが「必然性」にとりつかれ、暴力の連鎖が発生したために失敗した。「それはフランス革命において『必然性-窮乏(necessity)』の問題として、すなわち貧民の困窮をめぐる『社会問題(social question)』として革命の指導者たちの心を捉え続けたのであり、その結果、貧民への『同情心コンパッション』こそが革命の最高審級となったとされている[*9]」。そのためフランス革命は、新たな政治形態の創設への志向性ではなく「同情」で動かされるような革命となった。ロベスピエールを引き合いに出しながら、アーレントはこう述べる。「同情は人間どうしの距離を消し去り、それとともに、政治的事象つまり人間どうしの交際においてなされるすべての事象の舞台たる、世界ならでは間の空間も消し去ってしまうので、政治的に言えば、同情は無意味であり、何の帰結ももたらさない。[……]。同情はその本性からして、説得し、承服させ、交渉し、妥協するといった、政治にまつわる行為の手間のかかる退屈なプロセスには躊躇することだろう。その代わりに、苦悩それ自身に声を上げさせ、『直接的行動』へと——すなわち暴力手段でもって行為することへと——赴くことだろう[*10]」。革命において貧困という社会的な問題の解決を自由の条件とすることは、その新たな「始まり」への志向性に破壊的なかつ暴力的な影響を呼び込みうる。失敗したフランス革命と比べて、アメリカ革命は「同情」がその原動力になることはなかったのだ。「その『創設コンスティテュート』という行為自体が神聖な『はじまり』として崇拝の対象となり、『憲法コンスティテューション』それ自体が偉大な『原理』として参照され続けることで、アメリカ革命は『権威』を保持することが可能となった[*11]」。

 この図式においてアーレントが同情という感性を否定している、という批判は不当である。この批判を牽制しながら、哲学者の森一郎はこう述べている。「アーレントが行なっている『同情批判』は、『同情否定』ではない。苦しんでいる人に同情するのは人間として大事なことのはずなのに、それに異を唱えるアーレントは、なんと冷酷な人なのだろう、などと子どもじみた、あるいは年寄りじみた反応をするのは、やめたほうがいい[*12]」。アーレントによる革命理論において同情が「政治的」には無意味であるとされるのは、その「社会的」要因で動かされる革命は暴力手段を辞さない方向へ進み、ただ古い政治形態を破壊するだけで新たな「始まり」を希求できないため、ということだ。

 しかしながら、私たちのうち何人が、カリブ海が彼女の革命論に投じる批判に耳を傾けたことがあるだろうか。カリブ海の革命論において批判の焦点となるのは、同情ではなく沈黙である。ハイチ系アメリカ人人類学者のミシェル=ロルフ・トルイヨが名著『過去を沈黙させること——権力と歴史の生産』において力強く述べているように、西洋が構築する人類の革命史は、カリブ海で初めて成功し、その後の革命を指導した者たちの羅針盤となったハイチ革命に沈黙を押し付けてきた。トルイヨは、その「沈黙」が発生する段階をこのように理論化する。「歴史が生産される過程に沈黙が入り込むのは、次の4つの重要な瞬間においてである。まず事実が作られる瞬間(証拠の作成)、次に事実が収集される瞬間(アーカイブの作成)、それから事実が回収される瞬間(物語の作成)、そして回顧的に意義付けられる瞬間(最終的な歴史の生産)だ[*13]」。この4つの瞬間を通して西洋は、自身たちの常識や理解の範疇に収まるものには歴史として生産される資格を与え、収まらないものには沈黙を押し付け、歴史から消去してきた。トルイヨいわく、アメリカ革命とフランス革命と同時代に起きたハイチ革命も、西洋人たちが作り出す人類史においては「想像の及ばないもの」(the unthinkable)という扱いを受け、沈黙を押し付けられてきたのだ[*14]。その片棒を、アーレントの革命論も担いでいたのではないだろうか。アメリカの哲学研究者キャスリン・ガインズは、「アーレントの意向に合わせたとしても、ハイチ革命の重要性はいくら誇張しても足りないぐらいである」と批判的に述べている[*15]。ハイチ革命ほど、そしてその闘争に身を投じた奴隷たちほど、「新しい始まり」を追い求めたものはなかっただろう。それほど彼女の革命論に相応しい革命であるにもかかわらず、アーレントはハイチ革命に沈黙を課してしまっているではないか——そのようにカリブ海が彼女の革命論を批判したら、それはあなたの眼には子どもじみた、あるいは年寄りじみた反応のように映って見えるだろうか?

作家は記憶を保存する

 カリブ海文学・文化研究者のシビル・フィッシャーが、2004年に研究書『否認されしモダニティ——革命の時代のハイチと奴隷制の文化』を出版した。この書においてフィッシャーは、トルイヨによる議論を引き継ぎながら西洋による歴史記述を批判し、それにおいてハイチ革命がいかに周縁化されているかを詳述する。「ハイチ革命は、フランスでの革命やアメリカ合衆国建国のきっかけとなった出来事と同じように、革命期を語る上で重要な位置を占めていると思うことだろう。そうはならなかったのだ。西洋のモダニティを形成し、自由と平等の概念を政治思想の中心に位置づけたこの時代にかんする記述のほとんどは、今日に至るまで人種平等の問題を中心に据えた唯一の革命について触れていないのである[*16]」。アメリカ革命とフランス革命と同じ時代に、カリブ海という世界の一部分において、人種差別、奴隷制、植民地支配という現代にも甚大な影響を残した問題に対して不屈の闘争的意志を見せ、そして勝利を収めた唯一の革命といえるハイチ革命に、西洋の革命期語りは沈黙を命じているのである。

 その西洋中心的な歴史認識のひとつとしてフィッシャーはアーレントを名指しで批判し、彼女が同情という感情を用いて展開した、成功例としてのアメリカ革命と失敗例としてのフランス革命という図式にメスを入れる。

奴隷制を政治的問題として扱うことを避け、アーレントは素早く社会問題へと戻り、[……]奴隷制が結局のところ社会問題でありうる、あるいはそうあるべきだということを示している。[……]。ここで私たちが目撃するのは、社会的なものと政治的なものとの間に、「良い」アメリカ革命と「悪い」フランス革命とを生み出すまさにその区別としてアーレントが置く中核的な区別が、自己解体する瞬間である。合衆国における奴隷制度の存続が、アメリカ革命の美点を疑う十分な余地を与えていることを考慮すれば、これはまったく驚くべきことではないだろう。しかし、それ以上重要なのは、奴隷制が、社会的なものと政治的なものをきれいに切り離すことはできないこと、解放について考えることなしに自由を理論化することはできないこと、そしてどのような解放からどのような自由が生まれるのかを考えることなしに自由を理論化することはできないことを示しているということだ。革命的な反奴隷制運動は、アーレントの言葉を使えば社会的なものと政治的なものを組み合わせたものであり、彼女にとっては難解なものである。奴隷制を政治的な問題として考えることに彼女は反発するが、それは彼女自身が現代の人種的奴隷制(とその革命的な対抗)を自分の概念的枠組みに適合させることができないことの表れである。奴隷制度は、純粋に政治的でも純粋に社会的でもないため、語られえない。奴隷たちは、まず文字通りに、彼らを覆い隠して不可視にする制度を通して、そして次に概念的に、社会的なものと政治的なものとの間の深淵の中に、消えてしまう。革命的な反奴隷制運動とは矛盾した言葉である。ハイチは想像の及ばないものとなる。

[*17]

フィッシャーに従えば、アーレントがハイチ革命に対して押し付ける沈黙は、彼女の革命論には奴隷制について語る意志が欠如しているということの証左である。奴隷制は社会的かつ政治的な問題であり、革命が「成功した」はずのアメリカの社会に今もなお深々と根付いている。フィッシャーは、アーレントが扱うことを避けたこの奴隷制という問題を前景化することによって、彼女が革命論のための概念的枠組みとして提出した、成功した「政治的」アメリカ革命と失敗した「社会的」フランス革命という図式の限界を晒しだすのだ。ハイチ革命は、社会的かつ政治的な問題としての奴隷制を相手取った革命である。そしてそれは何より、奴隷たちが新たな「始まり」を求め、その死闘の果てに独立した黒人国家を樹立したという、人類の革命史を語るにおいて避けては通れない革命なのである。そのような革命に沈黙を課すことはすなわち、「深く根付いたヨーロッパ中心主義」がその議論の中心に居座ってしまっているということだとフィッシャーは強く非難する[*18]。

 フィッシャーと同年に、記憶という観点からさらにアーレントのハイチ革命への沈黙に切り込んだのが、ジャマイカ人人類学者デイヴィッド・スコットである。『モダニティの徴集兵——植民的啓蒙の悲劇』において、スコットはアーレントのアメリカ革命とフランス革命という対立的構図に記憶論を見出す。「フランス革命(革命的伝統の原点)以降のすべての革命が自由の名の下に行われたが、それらのすべてが自由を創設する機会を逸してきた、すなわち自由に適切かつ永続的な政治制度的形態を与えることに失敗してきた、とアーレントは主張する。その結果、『公的自由、公的幸福、公的精神』の原理(18世紀の革命家たちを鼓舞し、彼らの動機となった原理)に体現されていた『革命精神』は、実践からだけでなく記憶からも消えてしまった、と彼女は主張する[*19]」。スコットいわく、アーレントにとって革命に重要なのは、その革命精神の記憶が後世に語り継がれてゆくことなのだ。彼女は革命論においても、やはり記憶を物語と接続してこう述べている。「概念的な解明や濃縮化のプロセスをくぐり抜け、それにもとづいて現実にさらに作用を及ぼし、発展していくことがおぼつかないなら、いかなる追想も、安全なままではいられないのである。経験それ自体は、それどころか、人びとの共同行為から当然ながら生じてくる物語も、生き生きした言葉や生き生きした行ないのたどる運命と同様の滅びやすさに晒される。繰り返し話題にされていつまでも語られるのでなければ、そうならざるをえない[*20]」。

 フランス革命とは対照的に、アメリカ革命は貧困という社会的問題に気を散らされることなく自由の創設という政治的問題に集中的に取り組んだという点で「成功した」革命である。しかしながら、革命が成功し合衆国が建国されると、「革命精神」——すなわち「新しく始めることの精神」——は忘れさられていった[*21]。アメリカ建国の父祖たちは、結局のところ自分たちの革命精神を維持することができなかったのだ。アメリカ革命を支えた「公的」の原理は「私的」の原理へと入れ替わり、人々は経済的利益を追求する(ウィンター的には「ヒト(2)」になる)ために自由を利用し始めたのである。「いずれにせよ明白なことは、思考し追想することに失敗したことによってこの国の革命精神は失われてしまった、ということである[*22]」。

 しかし、18世紀の革命精神の記憶を語るのであれば、ハイチ革命について触れないのはやはり不可解である。スコットは、ハイチ革命に対するアーレントの「沈黙」を指摘し、彼女が革命的伝統とその記憶の物語を携えたハイチ革命の存在を革命論から完全に排除していると批判する。「しかしながら、アーレントの見落としはいっそう不可解であり、そしてよりいっそう失望させられる。なぜなら、彼女が『革命論』で嘆いているのは、まさに記憶の失敗だからである。彼女は実際、革命的伝統の精神を維持するために『記憶』が重要であると訴えている[*23]」。その記憶の失敗は、ハイチ革命を議論に招き入れることで嘆かずに済むはずだ。しかしながら、「アーレントにとって、18世紀の革命はフランスとアメリカの2つしかない。彼女自身がまるで18世紀の新世界における革命はアメリカ革命だけであったかのように進めているのにもかかわらず、お馴染みのヨーロッパ中心主義的傲慢さをもって、『まるで新世界に革命など起ったことがなく、政治と統治の領域で一考にあたいするアメリカ的観念や経験などまるでないかのように』話を進める人々を、彼女が容赦もなく軽蔑しているのは逆説的な事実である。まるでトーマス・ジェファーソンとジェイムズ・マディソンとジョン・アダムズだけが、新世界の市民で『政治と統治の領域で一考にあたいするアメリカ的観念や経験』を持っているかのようであり、まるでトゥサン・ルーヴェルチュールが世界史の舞台ではマイナーか無視できる存在であるかのようである[*24]」。アーレントの革命論は、あたかもアメリカ革命とフランス革命のみが世界の歴史に残った18世紀の革命であるかのように語り、そして「アメリカ革命に関する認識が一般にかくも欠如している」と批判する[*25]。しかしその裏では、彼女はハイチ革命に「沈黙」を押し付けているのである。

 ハイチ革命を排除しながら、18世紀の革命における「革命精神」の記憶の語り継ぎが失敗したことを嘆くアーレントは、記憶を保存する存在としての詩人の役割に光を当てる。「この失敗は、想起し出来事をつくづく考えることによって、その喪失が最終決定的となることをたえず繰り返し阻止すべく試みるのでなければ、もはや何物によっても埋め合わせることができない。詩人とは、われわれ他の人間がそれをよすがにしてゆけるような言葉を見つけ、刻むことによって、人間の記憶の蓄えに関する見張り役となってくれる存在である[*26]」。アーレントに従えば、革命的伝統がその後の政治から失われたとすれば、それを補うことができるのは、詩人たちがその革命精神を保存した記憶と追想の物語である。そのため、失われた革命精神の記憶を求めて私たちが目を向けなければならないのは、ソフォクレスのような詩人たちなのである。とはいえ彼女は結局、アメリカ革命にしてもフランス革命にしても、革命精神を語り継ぐことに失敗したことをただ嘆くだけであった。しかしその裏では、カリブ海作家たちが、西洋中心的な革命論によって黙殺され続けてきたハイチ革命の記憶を、「偉大な叙事詩」として自分たちの物語の中に保存しているのである。

カリブ海の「驚異的現実」

 キューバ人作家のカルペンティエールは、1904年にスイスのローザンヌで生まれた[*27]。彼が8歳の頃に、一家はキューバに移住した。建築家だった父の影響でカルペンティエールは早くから建築に関心を示し勉学に励んでいたが、17歳の時に父が失踪したことで、家計を支える必要が生じジャーナリズムの道に入る。独裁者ヘラルド・マチャドへの抗議文に署名した結果投獄され、釈放後フランスに亡命。そこでフランスの詩人アンドレ・ブルトンらと交流し、シュルレアリスムという目に見える現実を超越した無意識や夢などの次元を表現しようとする芸術運動に身を浸す。1939年にキューバに帰郷し、創作活動を展開する。

 1943年に友人のフランス人俳優ルイ・ジューヴェに誘われハイチを旅行し、サン=スーシ宮の廃墟やラ・フェリエール城砦といった歴史的遺跡、そしてノルマンディー風の街並みが残るカプ市を巡ることで、彼が「驚異的現実」(lo real maravilloso)と呼ぶものに遭遇する[*28]。この「驚異的」と形容されるものは、カルペンティエールいわく、「常識的には出会いそうもないオブジェ同士が結び合わされ、手品めいたトリックによって生み出される」ものである[*29]。しかし、彼がハイチで目撃した「驚異的現実」は、ヨーロッパ文学において描写される「驚異的なもの」とも、旧世界のシュルレアリストたちがこぞって表現しようとしていた怪奇的なものとも異なる。それは、新世界特有の「現実」に生い茂った「驚異的なもの」である。『この世の王国』の序文で、西欧のシュルレアリスムを批判しながら、カルペンティエールはこう述べる。「ヨーロッパのいくつかの文学は、ここ三十年ばかり懸命になって驚異的なものを呼びさまそうと努めており、それが特徴となってきたが、ハイチのあのような現実をもとにすれば、易々とそれに近づき得るのではないかという気がしたのである[*30]」。ハイチの廃墟と街並みを眺め、新世界の「驚異的現実」に魅入られたカルペンティエールは、ハイチにおける大衆の革命闘争の記憶を自身の作品の中に保存する。

 カルペンティエールはシュルレアリスムを全面的に否定しているわけではない。彼にとってシュルレアリスムの問題は、その表現者たちが「驚異的なもの」を生み出す形式に拘泥することで「官僚化」してしまっていることにある。「芸術の奇術師たちは驚異的なものを生み出そうと努めるあまり、けっきょくは官僚化してしまっている。つまり、お決まりの定則に従って、水飴のように溶ける時計や縫子のマネキン、何やら巨大な賜物を思わせるモニュメント、そうしたなんの変哲もない安っぽい代物でキャンバスを埋めつくしているのだ。そのせいで驚異的なものは解剖台の上、あるいはもの悲しい部屋の中や岩のごろごろしている砂漠に置かれたコウモリ傘やイセエビ、それにミシンといったものの中に閉じこめられている[*31]」。彼らの試みは結局のところありふれたものとなってしまい、「法典の棒暗記」でしかなくなってしまっているのである[*32]。講演「バロック的なものと現実の驚異的なもの」において、カルペンティエールは旧世界のシュルレアリストたちが生み出そうとしていた「驚異的なもの」が、新世界においては現実に存在していると主張する。

シュルレアリスムが驚異的なものを追求したのだとしても、現実の中にそれを探すことはほとんどなかったと言わざるを得ません。確かにシュルレアリストたちはウィンドウ・ディスプレイや市場が持つ詩的な力を見出す方法を初めて知ったのですが、ほとんどの場合彼らが捏造する驚異的なものは前もって熟考されたものだったのです。キャンバスの前に立った画家はこう言うのです。「驚異的なヴィジョンを生み出すような奇妙な要素で絵を描くつもりだ」。[……]。
 一方、私が擁護する驚異的現実、それは私たち自身の驚異的現実なのであって、ラテンアメリカであるものすべてにおいて、潜在的かつ遍在的に存在し、生の状態で遭遇するものなのです。ここでは、奇妙なものはありふれたものであり、そして常にありふれたものだったのです。

[*33]

 仏語圏カリブ海文学研究者のマイケル・ダッシュは、『もうひとつのアメリカ』においてカルペンティエールの「驚異的現実」論を、ネグリチュードやクレオール性、アンティル性のようなカリブ海思想史における詩学的結晶のひとつとして説明する。「ネグリチュードや土着主義に次いで、驚異的現実の理論は、新世界の空間に他者性を根付かせようとする最も勇敢な試みのひとつとみなすことができる。新世界の現実の驚異的な性質というカルペンティエールの概念は、アメリカ独自のアイデンティティを確立する必要性の入れ替えられたものである[*34]」。キューバ人ラテンアメリカ文学・文化研究者のロベルト・ゴンサレス・エチェバリアも、カルペンティエールが「驚異的なもの」が「潜在的かつ遍在的に」存在すると主張する現実は、インドやアフリカ、ヨーロッパ、新古典主義や近代性など、複数の文化と時代に由来する「スタイルの混合物」(mélange of styles)によって特徴づけられていると述べる[*35]。この様々なスタイルのしゅうごうは、新世界において植民地支配により邂逅し、様々な人種と文化が衝突しては混ざり合うクレオール化の過程を象徴するものである。『カリブ海フィクションにおける神話と歴史』において、カリブ海文学研究者バーバラ・ウェッブはカルペンティエールの「驚異的現実」とウィルソン・ハリスやエドゥアール・グリッサンらの思想との間の近似性を見出している。「[……]彼は、この『ありえない調和』に、新たな文化的統合という肯定的な根源を認識した。同様にグリッサンとハリスも、新世界の文化が持つ対照的な要素の中に、断片化され、分裂された意識として一般的に認識されているものを克服する能力を見出している[*36]」。

 また、「驚異的現実」という概念によって捉えられるクレオール的文化に、カルペンティエールはバロックという表現を与えている。バロックは、ポルトガル語のbarroco(バロッコ)という、形が不規則で品質の劣る真珠を指す言葉から派生したと言われている。16世紀から18世紀までにヨーロッパで流行した美術様式で、均整的で調和のとれたプロポーションを特徴とするルネサンス様式に対し、より壮大さや不規則性、躍動感を演出するダイナミックなスタイルとして発展した。ウェッブが述べるように、「異質な要素の統合を驚異的現実の基本的特徴として確立したカルペンティエールは、アメリカスの複雑な現実に対応する物語形式を、新世界のバロックの一形態と呼んでいる[*37]」。「バロック的なものと現実の驚異的なもの」で、カルペンティエールはこう述べている。

 なぜラテンアメリカがバロックに選ばれたのでしょうか? それは、あらゆる共生、あらゆる混血(mestizaje)がバロックを生み出すからです。アメリカ的バロックは、シモン・ロドリゲスによって見事に指摘されたように、ヨーロッパ白人の息子であれ、アフリカ黒人の息子であれ、大陸生まれのインディアンの息子であれ、クレオール文化とともに、クレオールの意味とともに、アメリカ人という自己意識とともに、発展していくのです。その意識とはつまり、他者であること、新しくあること、共生的であること、クレオールであることの意識です。そしてクレオールの精神は、それ自体がバロック的な精神なのです。

[*38]

ラテンアメリカ、そしてカリブ海の現実は、新世界においてクレオール化という永遠の過程を通り、様々な人種と文化が衝突し、交差し、混淆してゆく中で醸成されてゆく比類なきバロック的文化、すなわち稀有な文化的混血が生み出す創造性の写し鏡なのである。カルペンティエールは続けてこう述べている。「このように多様なもののそれぞれがバロックの様式を提供することで、私たちは私が『驚異的現実』と呼んでいるものと交差するのです[*39]」。

 カリブ海思想の名著『繰り返す島』において、アントニオ・ベニーテス=ロホはカルペンティエールの「カリブ海性」を検討しながら、こう主張している。「ヨーロッパがカルペンティエールの自我を支配しているからといって、彼がカリブ海の人間であることを否定するものではない。カリブ海の人間であることの最終的な尺度は、カリブ海の人間であることを探求することである[*40]」。この「カリブ海の人間であること」を探求する旅が、カルペンティエールをカリブ海の現実に備わる「驚異的なもの」に遭遇させたのだろう。ベニーテス=ロホはこう述べる。「彼の記述的論説には、[……]他者が所有する黄金の城塞を襲撃する準備をしている旅行者にふさわしい茫然自失が多く見られる。このような精神状態によって、彼はハイチの(無)秩序化した規則と接触した後、『驚異的現実』という概念へと導かれ、それを記憶し、語るようになる。しかし何よりも、それは探検家が木の幹に痕跡を残すように、次から次へと名前をつけるよう彼を動かすのだ[*41]」。カルペンティエールは、バロックによってラテンアメリカ/カリブ海の現実にある「驚異的なもの」を次々に名付けてゆく[*42]。こうして、彼が名づけたものはヨーロッパとアメリカというふたつの世界の間の「言葉の道」となるのである。「彼のバロックは、突飛で騒々しい螺旋のメタ言語ではない。それは垂直的で、換喩的で、凝集体の直線的な総和である。それは彼の実存的な道程の不変性であり、ふたつの世界の間での振り子のような揺れ動きの不変性である。それは何よりも、ヨーロッパとアメリカ、彼のヨーロッパと彼のアメリカを結びつけようとする『言葉の道』である[*43]」。

 「驚異的現実」は、カルペンティエールがカリブ海の人間としてヨーロッパとアメリカの間を、植民者と非植民者の間を、そしてハープと影の間を彷徨いながら見出した新世界特有の概念なのである。この詩学的概念は、カリブ海の記憶を想像的/創造的に描き、保存する。マジック・リアリズムが記憶を描く際に用いられることについて、ポーランドの研究者アグニエスカ・ジェパはこう主張する。「マジック・リアリズムにおいて記憶は、しばしば植民地時代以前の過去や神話の隠された『テクスト』を取り戻し、現代の文脈でそれの正当性を認識することを可能にするための道具として使われる。それはまた、断絶された共同体のつながりを再構築し、共同体を再生させ、報復と和解の両方の可能性を与える道具として、そしてまた国家の物語が形成・展開される様を検証し、それを修正する道具としても使われる[*44]」。彼独自の創造的アプローチをもって、カルペンティエールは、植民地支配によって抑圧されたカリブ海の物語や世界観を「驚異的なもの」として噴出させ、西洋の視点で構成された歴史を解釈の余地がある物語へと語り直すのである。カリブ海文学研究者のヴィクター・フィゲロアが述べるように、新世界はカルペンティエールにとって、「ヨーロッパの認識論的、存在論的な規範性に食ってかかるほどまでに新しい何か、『驚異的な』何かが、世界の歴史の中に噴出することを象徴しているのである[*45]」。ハイチの黒人奴隷たちが身を投じた革命闘争の記憶もまた、「驚異的なもの」としてカリブ海の現実を通して噴出する。

カルペンティエール、『この世の王国』

 カルペンティエールは、1949年の小説『この世の王国』(El reino de este mundo)の物語をこのように解説している。「このテキストでは、かつて、人の一生にも満たない期間に、サント・ドミンゴ島でつぎつぎに起こった一連の奇怪な事件が語られており、細部にいたるまで忠実に現実を踏まえている。その一方で、驚異的なものが奔放自在に立ち現れてくる仕掛けになっている[*46]」。続いて彼は、「一見、物語は歴史とはなんの関わりもないようだが、そのじつ日付や年代に関しても細かな照合が行なわれている」と宣言する[*47]。しかしながら同時に、「ヨーロッパでは決して考えられないものであり、それゆえ一切が驚異的なものになっている」とも述べる[*48]。この現実と驚異的なものの奇妙な同時の成立、つまりこの「ありえない調和」こそが、カルペンティエールが「驚異的現実」と見なすものである。フィゲロアが述べるように、ジェイムズによる「偉大な叙事詩」とはまた違う方向性で、カルペンティエールは「革命を題材にして、驚異的現実の概念を探求している。それは、ヨーロッパの退廃した合理主義的文明とは対照的に、魔法と創造性に目覚め、生命力を保ち続けるラテンアメリカの文化的特異性を提起する彼の試みの一部である[*49]」。

 本作品は4部構成であり、第3者の視点で展開が語られる。物語の中心は、黒人奴隷ティ・ノエルという主人公である。彼は架空の人物だが、それ以外の主要人物は歴史上の人物をフィクショナルに仕立てあげたものだ。第1部では、ギニア生まれの黒人奴隷マッカンダルが事故で片腕を失い、その後プランテーションから逃走する。彼はマルーン(逃亡奴隷)集団を結成し、白人たちの毒殺を図るが未遂に終わり、捕えられて公開のふんけいとなる。第2部では、ジャマイカから逃走してきた黒人奴隷のブックマンが、カイマンの森の中で集会を主宰し、そこで奴隷たちは一斉蜂起を誓い合う。ブックマンが捕まり処刑されても、この蜂起はハイチ中に広まっていき、全土を制圧した[*50]。フランスからはルクレルク将軍が派遣されるが黄熱病で死亡する。元黒人奴隷ジャン=ジャック・デッサリーヌがハイチの独立を宣言した後の話となる第3部では、奴隷主のムッシュー・ノルノマン・ド・メジーが賭博で負けたことで、ティ・ノエルはサンティアーゴ・デ・クーバの農場主に売り渡される。そこで金を貯めて自由を購入し、自由の身としてハイチへと戻ってくる。そこでは「すでに奴隷制は廃止されていた」が、元黒人奴隷アンリ・クリストフが絶大な権力を握っていた。クリストフは国王としてサン=スーシ宮に君臨するが、反乱のさなか自決する。第4部では、ムラート(混血)たちがハイチを統一し、政府を樹立する。しかし、度重なる圧政に失望したティ・ノエルは、様々な動物に姿を変え、最終的には天翔ける鳥となり、カイマンの森に姿を消す。

 カルペンティエールは、ジェイムズとは異なり、大衆の中のひとりである黒人奴隷ティ・ノエルを主役に据えることで、人類史に刻まれていないハイチ革命の記憶を創造する。ハイチの景色を巡った旅を思い返し、カルペンティエールは自分の踏みしめた大地が、「自由になりたいと願った何千人もの人間が、マッカンダルの変身能力を信じた土地であり、そこでは、彼が処刑される日に、集団的な信仰の力によってもう少しで奇蹟が起こりかけたのである」と語る[*51]。カリブ海の現実において「驚異的なもの」が可能になるのは、その奇跡を信じる大衆がいるからである。この主張を考慮すると、カルペンティエールが物語の焦点としてトゥサンやデッサリーヌ、クリストフといった時の為政者たちではなく、ティ・ノエルを選んだのは、彼が「信仰」する大衆側にいるためだと言えるだろう。物語の語り手は、革命の「現実」とティ・ノエルたち大衆の信じる力が可能にする「驚異的なもの」の間に立ちながら、驚異的な叙事詩としてのハイチ革命の記憶を語る。

 この小説において「驚異的なもの」は、大衆の「宗教」と「自然」に対する姿勢に、その表現の場が与えられている。マッカンダルは、片腕を失い家畜番へと回されると、自然と深く交わるようになる。「牛がゆっくりと四方に散らばり、腹のあたりまで伸びたクローヴァーを食べる様子を眺めていた。そのうちこれまで見過ごしていた植物が生えているのに気づいて、好奇心を掻き立てられた。イナゴ豆の木陰に横になると、残った腕で身体を支えながら、なじみのある草花を掻きわけ、これまで気にも留めなかった、大地から生まれ出たものを探した[*52]」。マッカンダルは草から毒を作り、番犬に試してその効果を確認すると、山へと姿を消す。そこで彼はマルーンの集団を結成し、白人たちが口にするようなものに毒を仕込み、彼らの殺害を始める。しかしある奴隷が、マッカンダルの動向を白人農園主たちに教えてしまう。マッカンダルはマルーン集団で自らをヴードゥー教の祭司としていたのである[*53]。「何度か偉大な神々の霊が乗り移って倒れたのですが、そのせいで人並すぐれた能力を授かり、いまでは疫病の神さまです。海の向こうの支配者たちから最高権力を与えられたのですが、その時あの男は十字軍を編成して、白人を皆殺しにするのだ、と宣言したのです。サント・ドミンゴに解放された黒人奴隷による一大帝国を築こうと考えています[*54]」。

 マッカンダルにはヴードゥー教の神々によって姿をあらゆるものに変えることができる能力が与えられたと大衆は信じていた。「緑のイグアナ、夜行性の蛾、見たことのない犬、とんでもない場所にいるペリカン、これらはあの片腕の男が変身した姿にほかならなかった。双蹄動物、鳥、魚、あるいは昆虫に変身する能力を授けられたマッカンダルは、姿を変えて平原に点在する農場を訪れ、信者の動きに目を光らせ、彼らがまだ自分の帰還を信じているかどうか確かめていたのだ[*55]」。そのため、マッカンダルが捕まり、公開で火刑に処される場面でも、大衆が予想外に平然としていることに白人プランターたちは気づく。彼らがマッカンダルを火によって処刑すると決めたのは、「奴隷をしつけるには、血の出る思いをさせるよりも火刑のほうが効き目があると踏んだ」からで、彼らはさらに「いつまでも記憶に残るようにとランタンまでともした[……][*56]」。しかし、祭司マッカンダルの奇跡を信じる大衆は、自分たちの記憶をそのような「現実」によって構築されることを拒否する。はりつけにされたマッカンダルにいざ火がつけられる直前になっても、彼らはマッカンダルの不死を疑わず、こう考える。「偉大なるロワの神々に選ばれた男を敵に回せば、どうあがいても勝ち目のないことが分かるだろう[*57]」。

 死刑執行人が火をつけると、マッカンダルは暴れだした。そして彼を縛り付けていた縄が切れたため、彼は飛び出し、黒人奴隷たちの群がりの中に飛び込んでいった。「マッカンダルが逃げたぞ」と声が上がり、大混乱が起こった[*58]。その混沌の中、兵士たちがマッカンダルを捕らえ再び火の中へ放り投げたのだが、「その断末魔の絶叫もまわりの騒ぎに掻き消された[*59]」。騒ぎが収まり、その日の夕方、それぞれのプランテーションに戻ってゆく奴隷たちは、「やはり、マッカンダルの言葉に嘘はなかった、この世の王国に踏み留まっていたのだからな。またしても白人どもは、海の向こうに住む至高の神々ににされたというわけだ」と笑い通していた[*60]。一方で白人プランター側は、「黒人どもは仲間が責苦を受けているのを目のあたりにしながら、顔色ひとつ変えないのだから、呆れたものだ」と言う[*61]。このように、マッカンダルの焚刑ひとつの描写にしても、白人側から見た「現実」と黒人大衆の信じる力が可能にする「驚異的なもの」が同時に成立している。ティ・ノエルは、マッカンダルの「驚異」を人々の記憶に保存するため、「子供たちにマンディンゴ族の男から教わった物語りを聞かせてやったり、自分がこしらえた彼を称える簡単な歌を憶えさせたりした。片腕の男は、大事な仕事をするためにいまは土地を離れているが、いつ戻ってきてもいいように彼のことを思い出していたのだ[*62]」。

 マッカンダルによる闘争は、その後ブックマンに引き継がれる。雨が降りしきる中カイマンの森で開かれた集会に訪れたティ・ノエルは、そこでブックマンの熱弁を聞く。ブックマンは、「フランス本国で何かが起こり、指導者たちが黒人奴隷を解放すべしという宣言を出した、しかしカプ市に住む金持ちの農場主どもときたら、いまいましい王党派ぞろいで、そうした宣言に目もくれない」と述べる[*63]。このフランス本国での出来事とは、フランス革命のことである。しかしその人権宣言にもかかわらず、自分たちを奴隷として扱うことをやめない白人プランターたちに対し、彼らはアフリカのロワの神々の加護のもと闘争を誓い合う。彼らは法螺貝の音を合図に一斉に蜂起し、プランテーションを破壊して回った。ブックマンは捕らえられ、マッカンダルが燃やされた場所にその首を晒された。しかしその蜂起は、(史実上トゥサンによって)さらに加速され、革命へと成長してゆく。ド・メジーは、大衆が信仰している宗教の存在に気づく。「なるほど、太鼓というのは木をくりぬいて筒状にし、そこに仔山羊の皮を張っただけの代物だが、時にはそれ以上の意味を持つことがあると思い当たったのだ。そうだ、奴隷どもはきっと陰でこっそり異教を信仰しているのだ、やつらが急にふるい起ち、みごとな結束を見せて白人に叛旗をひるがえした背後には、そうした信仰があったのだ[*64]」。ハイチ革命において、ジェイムズの『ブラック・ジャコバン』が照らし切れていない大衆の信仰という記憶が、こうして描き出されてゆく。

 ブックマンによる蜂起の後、サント・ドミンゴ島全域で反乱が絶えなくなり、ド・メジーは奴隷たちを連れてキューバのサンティアーゴ・デ・クーバへと避難する。サンティアーゴデ・クーバは、白人プランターのメジーにとっては怠惰を約束するような場所であったが、黒人奴隷のティ・ノエルにとってはアフリカ由来の信仰がカリブ海の地で生気と放っている場所であった。メジーはティ・ノエルを連れ教会を訪れるのだが、そこでティ・ノエルは、メジーには感じ取ることができない、カリブ海の現実に生い茂る「ありえない調和」の兆候としてのアフリカの宗教とキリスト教の混淆を見る。

 そうした中で、ティ・ノエルはスペイン人が建てた教会に、カプ市の聖シュピルス会の寺院では一度も見かけなかった、ヴードゥー教の信仰熱を物語るものがあるのに気づいた。黄金づくしのバロック様式の装飾、人間の髪をつけたキリスト像、り形でごてごてに飾られた謎めいた雰囲気をたたえた告解室、ドミニコ会士の犬、聖者の足で踏みつけられた龍、聖アントンの豚、蒼ざめた顔の聖ベニート、黒い聖母たち、フランスの悲劇役者が用いる胴着と半長靴を身につけた聖ホルヘたち、降誕祭の晩に弾かれる牧人の楽器、そういったものがその外見、象徴性、属性、表徴によって、見るものを抗いがたい力でとらえて離さなかった。その力は、蛇神ダンバラーをまつるやしろから生まれるものにそっくりだった。かつてブックマンの息のかかったものたちが、嵐の元帥オグン・ファイのまじないを執り行なったあと蜂起したことがあったが、サンティアーゴこそオグン・ファイにほかならなかった。

[*65]

カリブ海における文化的・宗教的混淆主義が、「バロック様式の装飾」を施された教会に象徴されている。ティ・ノエルが目撃したサンティアーゴ・デ・クーバでの「驚異的現実」は、まさしく「あらゆる共生、あらゆる混血」が新世界のバロックを生み出しているというカルペンティエールの信念を示している。

 賭博で負けたド・メジーによってサンティアーゴ・デ・クーバのプランターに売り飛ばされたティ・ノエルは、貯めた金を使い自由の身となり、生まれ故郷へ帰ってくる。ハイチとして独立し、奴隷制が終焉を迎えたその土地では、権力を掌握したクリストフが圧政を敷いていた。

 カプ市を治めていた歴代のフランス人総督も考えつかなかった、目の前の壮麗きわまりない世界が、黒人の作り上げた世界だと知って、ティ・ノエルは茫然となった。さきほどからトリートーンの噴水のまわりでロンドを踊っている、がっしりした腰の麗しい貴婦人たちも黒人なら、仔牛皮の書類入れを小脇にはさんで正面階段を降りてくる、白い靴下の二人の大臣も黒人、狩猟頭に先導されて村人たちがかついできた鹿を受け取っている、はくてんの総飾りつきのコック帽を被った料理係も黒人なら、馬場でトロットで馬を走らせている軽騎兵たちも黒人、野外劇場で鷹匠と肩を並べて黒人の役者たちの下稽古を眺めている、銀の鎖を首から吊るした酌取り係も黒人なら、金ボタンひとつ足りなくても緑の上着をきた侍従長から小言をくらう、白い鬘にお仕着せ姿の召使いも黒人、礼拝堂の主祭壇の上からサルヴェの練習に励む黒人楽士たちをほほえましそうに見守っている、無原罪の宿りの聖母までが、闇夜のような黒人だった。ティ・ノエルは、ようやく自分がアンリ・クリストフ国王ご自慢のサン=スーシ宮殿にいることに思い当たった[*66]。

[66]

国王としてハイチに君臨したクリストフは、「すべての面で宮廷をヨーロッパ風のものにしようと考え[……]、ハイチ独立時代の指導者たちが信じていたアフリカの神秘主義に近づかないようにしていた[*67]」。サン=スーシ宮内におけるすべてのものが、クリストフの西洋文化崇拝とハイチの大衆が守り続けてきた伝統的な信仰に対する軽蔑を表していた。彼は「ヴードゥー教を黙殺し、カトリック教徒からなる貴族階級を作り出そう」ともしていたのだ[*68]。カリブ海における宗教混淆を象徴するサンティアーゴ・デ・クーバの教会とは対照的に、クリストフが自身の理想として建設させたサン=スーシ宮は、ハイチの黒人大衆の伝統を完全に排除し、ただ西洋文化を称える空間になり果てていたのである。

 元奴隷という身分でありながら、クリストフは白人に代わる新たな支配者と化し、同胞である黒人大衆を虐げる新たな奴隷制を展開した。ティ・ノエルはサン=スーシ宮で突如守衛に打ちのめされ、奴隷のように労働を強いられる。そして、クリストフの圧政を白人たちによる植民地支配と比べて、こう言い表す。「すべてがいとわしい奴隷制のおかげで生まれたものだ。奴隷制は、ムッシュー・ノルノマン・ド・メジーの農場にもあったが、こちらのほうが、はるかに始末が悪い。わしと同様に肌の色が黒くて、下唇が厚く、髪はちぢれ、潰れた鼻をしている黒人、生まれが卑しくて、わしと同様におそらく身体に焼印を押されている黒人に棒で殴られ、こき使われるのだから、まったくやりきれん[*69]」。しかし白人奴隷主たちと同様に大衆の伝統的価値観を蔑ろにしたクリストフには、新たな反乱が待っていた。この反乱の中、クリストフは自ら命を絶つ。そして彼の遺体は城の砦を作る材料に沈んでいき、ついには建築物の中に埋め込まれてしまうのである。

 クリストフの死後、今度はムラートたちが北部平原の地主となり、白人プランターたちのように黒人に対して鞭を振るうようになる。権力を得ては私腹を肥やす、マッカンダルやブックマンと対照的な者が繰り返し現れは大衆を弾圧し虐待する様に、ティ・ノエルは失望する。彼は、マッカンダルやブックマンたちが起こした奇跡の記憶の保存者である。ウェッブが述べるように、「彼は歴史の証人として、また集合的記憶の担い手として、マッカンダルとブークマンの遺産に忠実であり続ける[*70]」。マッカンダルのものと同じ魔術的能力を使用して様々な動物に変身し、自然の世界に溶け込もうとする。そこでの経験から、「さまざまな悲しみと義務に苦しめられ、貧困にあえぎながらも気高さを保ち、逆境にあっても人を愛することのできる人間だけが、この世の王国においてこのうえなく偉大なものを、至高のものを見出すことができる」という悟りに至る[*71]。その後、彼は人間の姿に戻り、嵐を呼び込んでムラートたちが地主として支配するハイチの北部平原を破壊する。そして彼は鳥へと姿を変え、カイマンの森へと消えていった。

 カルペンティエールによる「驚異的現実」という創造的概念は、ハイチ革命史に名を残した者たちがなぜ失墜していったかを想像することを可能にする。クリストフのような為政者たちは、大衆に支えられながらも権力を確保するや否や彼らから離れ、西洋文明が自身の優位性として喧伝し、ウィンター的に言えば「ヒト(1)」の必須条件として扱われた「理性」の虜となっていた。大衆がヴードゥー教の信仰を絶やさず、それが彼らの抵抗的精神の源泉になっているにもかかわらず、ド・メジーは「もっとも、教養ある人士が、蛇を崇めるような連中の野蛮な信仰などにかかずらってはいられない」と嘲笑する[*72]。クリストフも、大衆の信仰から身を離し、西洋が誇示する理性の文化に自身を浸そうとした。しかし、西洋の「理性」を通した眼には、カリブ海の「驚異的なもの」は映し出されない。それを皮肉的に示すのが、ティ・ノエルである。クリストフに対する反乱が収まった後、大衆はサン=スーシ宮からあらゆるものを持ち帰っていった。ティ・ノエルも「大百科事典三巻」を持ち帰ったのだが、彼がそれを使用する様は西洋の「理性」に対するカリブ海の「驚異」の勝利を示唆していると言ってもいいだろう。「羊飼いの娘の服装をした人形や刺繡を施したクッション付きの安楽椅子、大百科事典三巻なども運びこんでいたが、彼は、その本の上に腰かけて砂糖きびをかじったものだった[*73]」。

 トルイヨが述べていた通り、西洋の歴史学では、ハイチ革命は実際には起こらなかったものとして人類史から消去されてきた。アーレントの革命論でも同様の事態が起きており、ハイチ革命は沈黙を強制されてきた。しかしジェイムズの歴史社会的アプローチとカルペンティエールによる創造的アプローチによって、ハイチ革命はカリブ海の記憶の詩学の一部として保存されている。カルペンティエールが文学作品において巧みに表現する「驚異的現実」は、西洋が理性をもって記述する歴史によって行われる記憶の消去に抵抗し、それを無効化する。読者である私たちがすべきことは、その「驚異的現実」を通して噴出してゆくカリブ海の革命闘争の記憶を、ティ・ノエルよろしく敬意を込めて西洋の分厚い歴史書を尻に敷きながら、読み続けてゆくことである。


[*1]C. L. R. James, quoted in Kas-Kas: Interviews with Three Caribbean Writers in Texas: George Lamming, C. L. R. James, Wilson Harris, edited by Ian Munro and Reinhard Sander (Austin: University of Texas Press, 1972), 35.
[*2]C・L・R・ジェームズ『ブラック・ジャコバン——トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命[増補新版]』青木芳夫監訳(東京:大村書店、2002年)、93。
[*3]同書、122。
[*4]同書、38。
[*5]同書、11。
[*6]同書、383。
[*7]同書、13。
[*8]2021年に発行されたHA: The Journal of the Hannah Arendt Center for Politics and Humanities at Bard Collegeの9巻が、アーレントとジェイムズの比較検討を特集している。
[*9]石田雅樹「革命・権力・暴力——自由と合致する権力、自由のための革命」『アーレント読本』日本アーレント研究会編(東京:法政大学出版局、2020年)、100。
[*10]ハンナ・アーレント『革命論』森一郎訳(東京:みすず書房、2022年)、106。
[*11]石田、101。
[*12]森一郎『アーレントと革命の哲学——『革命論』を読む』(東京:みすず書房、2022年)、78(強調原著者)。
[*13]Michel-Rolph Trouillot, Silencing the Past: Power and the Production of History (Boston: Beacon Press, 1995), 26.
[*14]Ibid., 73.
[*15]Kathryn T. Gynes, Hannah Arendt and the Negro Question (Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 2014), 74.
[*16]Sibylle Fischer, Modernity Disavowed: Haiti and the Cultures of Slavery in the Age of Revolution (Durham: Duke University Press, 2004), ix.
[*17]Ibid., 9.
[*18]Ibid.
[*19]David Scott, Conscripts of Modernity: The Tragedy of Colonial Enlightenment (Durham: Duke University Press, 2004), 215.
[*20]アーレント『革命論』、288。
[*21]同書、369。
[*22]同書、289。
[*23]Scott, Conscripts of Modernity, 218.
[*24]Ibid., 217. ここでスコットが引用しているアーレントの文章は英語版からであり、森による翻訳『革命論』にはない。そのためここにおいては志水速雄による翻訳『革命について』から引用している(ハンナ・アレント『革命について』志水速雄訳〈東京:筑摩書房、1995年〉、352)。
[*25]アーレント『革命論』、283。
[*26]同書、369。
[*27]キューバの首都ハバナで生まれたと思われていたが、彼の死後に出生証明書がスイスで発見され、ローザンヌ生まれが確定した。
[*28]この序文では、当の旅行が実際はフルヘンシオ・バティスタ治下のキューバ政府使節団として行われたことなど、カルペンティエールが触れていない事実がある。柳原孝敦「アレホ・カルペンティエール『この世の王国』についての覚え書き」を参照。
[*29]アレホ・カルペンティエル『この世の王国』木村榮一、平田渡訳(東京:水声社、1992年)、10。この序文は後に加除修正を施され、1967年に「アメリカにおける驚異的現実について」(De lo real maravilloso americano)というひとつの論考として出版されている。なお、仏語圏カリブ海においても「驚異的現実」という言葉を用いて自身の芸術観を表現していた人物がいる。それがハイチ人作家ジャック・ステファン・アレクシである。アレクシによる「驚異的現実」にかんする研究が日本でも出てくるのを待ちたい。ちなみに奇妙なことに、カルペンティエールから多大な影響を受けているにもかかわらず、アレクシは論考などでカルペンティエールへの言及を行っていない。
[*30]同書9–10。
[*31]同書、11。
[*32]同書。
[*33]Alejo Carpentier, “The Baroque and the Marvelous Real,” translated by Tanya Huntington and Lois Parkinson Zamora, in Magical Realism: Theory, History, Community, edited by Lois Parkinson Zamora and Wendy B. Faris (Durham: Duke University Press, 1995), 103–104.
[*34]J. Michael Dash, The Other America: Caribbean Literature in a New World Context (Charlottesville: University Press of Virginia, 1998), 88.
[*35]Roberto González Echevarría, Alejo Carpentier: The Pilgrim at Home (Ithaca: Cornell University Press, 1977), 223.
[*36]Barbara J. Webb, Myth and History in Caribbean Fiction: Alejo Carpentier, Wilson Harris and Edouard Glissant (Amherst: The University of Massachusetts Press, 1992), 22.
[*37]Ibid,, 19.
[*38]Carpentier, “The Baroque and the Marvelous Real,” 100.
[*39]Ibid., 101.
[*40]Antonio Benítez-Rojo, The Repeating Island: The Caribbean and the Postmodern Perspective, translated by James E. Maraniss, 2nd ed. (Durham: Duke University Press, 1996), 234.
[*41]Ibid., 183.
[*42]ベニーテス=ロホに共鳴するように、牛島信明と内田吉彦はラテンアメリカのバロックを「ものを与える必要から生じた」と解説している。「アメリカの芸術は、コロンブス以前の見事な彫刻に始まって、植民時代の大聖堂から現代の最良の小説作法にいたるまで、常にバロック的であった。それはラテンアメリカのものを与える必要から生じたバロックであり、それゆえ、ラテンアメリカの作家の正統的な文体はバロック的なものである」(牛島信明、内田吉彦「解説 カルペンティエール」『集英社版世界の文学28——カルペンティエール/マルケス』牛島信明、内田吉彦、桑名一博訳〈東京:集英社、1978年〉、317(強調原著者))。
[*43]Benítez-Rojo, 183 (original emphasis).
[*44]Agnieszka Rzepa, Feats and Defeats of Memory: Exploring Spaces of Canadian Magic Realism (Poznań: Wydawnictwo Naukowe UAM, 2009), 22–23.
[*45]Víctor Figueroa, Prophetic Visions of the Past: Pan-Caribbean Representations of the Haitian Revolution (Columbus: Ohio State University Press, 2015), 35.
[*46]カルペンティエル『この世の王国』、17。
[*47]同書。
[*48]同書、18。
[*49]Figueroa, 33. フィゲロアは理論的枠組みを立てるために、アフリカ系カリブ海思想研究の代表的研究者パジェット・ヘンリーによる「歴史主義者」と「詩学主義者」を参考にしている。ジェイムズを「歴史主義者」とすると、カルペンティエールは「詩学主義者」である。ヘンリーの「歴史主義者」と「詩学主義者」の議論にかんしては重要著書Paget Henry, Caliban’s Reason: Introducing Afro-Caribbean Philosophy (New York: Routledge, 2000)を参照。
[*50]史実ではトゥサンが蜂起に合流したことで全土を制圧できたが、物語の中では彼への言及はされない。
[*51]カルペンティエル『この世の王国』、14。
[*52]同書、31。
[*53]ハイチ革命史とフランス革命史が専門の浜忠雄によるヴードゥー教の解説を以下に引用する。「ヴードゥーはアフリカに起源を持つ精霊信仰とキリスト教とが混淆してサン=ドマングで生まれた信仰である。ヴードゥーの元になっているのはヴードゥンで、西アフリカのギニア湾岸、現在のベナン共和国に住むフォン語を話す人々の言葉で『神』『精霊』『生命力』を意味する。[……]サン=ドマングを支配するフランスはキリスト教(カトリック)を『唯一の宗教』としたから、ヴードゥンは『邪教』として禁止された。しかし、黒人たちはヴードゥンを捨て去らない。故地アフリカから強制的・暴力的に切り離され、生きて再び戻る希望を捨てない黒人たちは、故国や祖先の霊に救いと生命力の源を求め、死後における『魂の帰郷』に心の平安を見出した。黒人たちは、ヴードゥンを進行し続けると同時に、キリスト教を拒否するのではなく、これを取り込んだのである」(浜忠雄『ハイチ革命の世界史——奴隷たちがきりひらいた近代』〈東京:岩波書店、2023年〉、19)。
[*54]同書、40。
[*55]同書、43。
[*56]同書、49。
[*57]同書、50。ロワ(ロア)はヴードゥー教における精霊たちのこと。
[*58]同書、51。
[*59]同書。
[*60]同書。
[*61]同書、51–52。
[*62]同書、60。マンディンゴ族は西アフリカに存在する有力な種族のひとつで、13世紀に現在のマリ共和国が位置する地域にマリ王国を建設した。
[*63]同書、61。
[*64]同書、71。
[*65]同書、77–78。
[*66]同書、101–102。
[*67]同書、122。
[*68]同書、124。
[*69]同書、106。
[*70]Webb, 37.
[*71]カルペンティエル『この世の王国』、153。
[*72]同書、72。
[*73]同書、142。

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● 浜忠雄『ハイチ革命の世界史——奴隷たちがきりひらいた近代』東京:岩波書店、2023年。
● 森一郎『アーレントと革命の哲学——「革命論」を読む』東京:みすず書房、2022年。
● 柳原孝敦「アレホ・カルペンティエール『この世の王国』についての覚え書き」『れにくさ——現代文芸論研究室論集』13号(2023年)、222–234。

凡例

・引用文中の亀甲括弧〔 〕は原著者・翻訳者による補足を、角括弧[ ]は引用者による補足を意味している。
・引用文献のうち、邦訳のないものはすべで引用者が原文から訳し起こしている。

著者略歴

中村 達(Tohru NAKAMURA)
1987年生まれ。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に日本人として初めて在籍し、2020年PhD with High Commendation(Literatures in English)を取得。現在、千葉工業大学助教。主な論文に、“The Interplay of Political and Existential Freedom in Earl Lovelace's The Dragon Can't Dance”(Journal of West Indian Literature, 2015)、“Peasant Sensibility and the Structures of Feeling of "My People" in George Lamming's In the Castle of My Skin”(Small Axe, 2023)など。日本語の著書に『私が諸島である——カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)。