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感動を間違いと言われても、困る

 新しく始めたエッセイの連載です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップします。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 今回は、「感動を間違いと言われても、困る」ということについて。



ムンクの「叫び」は顎関節症

 顎関節症になった。
 正確には、またなった。
 前にもなったことがあって、気をつけていたのだが。
 口を大きく開けて、また閉じるときに、とても痛い。
 だから、顆粒の薬を飲むときに困る。どうしたって口を大きく開けないといけないし、開けた口は閉じないわけにいかないから。ギャーッとなる。

 そのせいで、ムンクの「叫び」が顎関節症で痛がっている人を描いているとしか見えなくなってきた。

 口をあけて、両方のアゴをおさえていて、すごく痛そうだ。
 これはもうどうしたって、顎関節症の人を描いているにちがいない。
 他にはありえないでしょう。

間違いはダメ?

 もちろん、それは間違いだ。
 ムンクは顎関節症の人を描いたわけではない。
 そういうふうに見られるのは心外だろう。ムンクは怒るかもしれない。

 では、顎関節症に見えてしまった私の思いは、闇に葬りさらないといけないのだろうか? 
 こんなにも、そうとしか見えないのに。

私の感動は〝間違い〟?

 カフカの『変身』を読んだときも、私には難病患者のドキュメンタリーだと思えた。
 自分が難病患者であり、その気持ちや状況がじつに見事に描いてあったからだ。

 しかし、これももちろん、間違いだ。
 カフカは難病患者のことを描いたわけではない。

 では、私の感動は〝間違い〟なのだろうか?

感動は否定できない

 感動を間違いと言われても、困るのである。
 もう感動してしまって、それはたしかなことなのだ。
 間違いだから、ないことにしろと言わても、もう産まれてしまったものは腹に戻せない。
 私はそれはちゃんとかわいがって、育てていいと思うのだ。むしろ、大切にすべきだと思うのだ。
「間違いなのに?」
「そう」

カフカの目玉装丁

 カフカの英訳の本に、こういう目玉がいっぱいついている装丁のシリーズがある。

 監視社会とか、疎外感とか、そういうことを表現しているのかなあと思っていた。

 すると、ある雑誌に、この装丁をしたデザイナーさんのインタビューが載っていた。
「どうして、こういう装丁に?」と質問されて、彼はこう答えていた。

「みんな、カフカを読み間違えている。本当のカフカをよく見ろというメッセージです」

 びっくりした。よく見ろという意味の目だったとは。

 このデザイナーさんは、自分の解釈が正しくて、他の人は間違っていると思っているわけだ。
 カフカとか太宰治とかには、「この作品のことを本当にわかっているのは自分だけだ」と読者に思わせる力がある。
 いや、カフカや太宰に限らず、文学はそういうものだろう。
 そして、「自分だけがわかっている」と思えることは大切だと思う。

「作者がどういうつもりで書いたか」が正解なのか?

 そもそも、本当とか、正解というのは、どういうものなのだろうか?
「作者がどういうつもりで書いたか」は、ひとつの正解と言えるだろう。
 しかし、それだけに縛られる必要もないと思う。

 私自身はあらゆる文学作品の読みは読者ひとりひとりに委ねられていると思います。作者の自註自解ですら作品の読みとしては正解とは限りません。作品の言葉の深い意味を読み解いた読者の読みのほうがすばらしく、作者の自句自解を聞いたら本当につまらない、ということは歌会や句会でよくあります。だからといって、作品がつまらないわけではない。となると、「わかる」は一人の読み手として解釈できるか、鑑賞できるかということに尽きます。
 わかった上でつまらないと思うこともあるでしょうし、作者の言いたいこととは違った解釈をしたとしても「わかる」ことになります。

堀田季可『俳句ミーツ短歌』(笠間書院)

 読者には読みの自由がある。

自由と誤読の境い目

「とはいえ、ムンクの『叫び』を顎関節症というのは、どう考えても間違いでしょう」

 たしかに、いくら自由に読んでいいと言っても、誤読というのもはたしかにありうる。
「人の命は大切に」と書いてあるのに、「人の命なんて知ったことではない」と読まれては、作者もたまらない。

 でも、許容できる読みと、トンデモ解釈との線引は難しい。

 カフカの『変身』について、「虫になった主人公が、そのあと外に出て暴れ回ると思ったのに、ずっと部屋から出なくてつまらない」という感想を言った人を、笑う人が多かったが、私は「そうか! たしかに、普通は部屋から出るよな。部屋から出ないのを当然と思っていたけど、出ないままってすごいな」と、目からウロコだった。

自分にひきよせて読む

 ある偉い人が、「自分にひきよせた個人的な読み方ではなく、普遍的な読み方をすることが大切」と書いていた。
 これも、もっともだと思う。
 私のムンクの「叫び」の見方がいい例だ。こんな見方ではいけないだろう。

 しかし、それでも私は、まずは、強引にでも、自分にひきよせて読むべきだと思っている。
 作者がどういうつもりで書いたか、他の人がどう読むかなどには関係なく、この作品は自分自身にとってどういうふうに読めるか、そこが肝心だと思っている。
「これは自分のことを書いた小説だ」「自分の気持ちを書いた小説だ」と思えるとき、作品は最も輝きを増す。

〝勝手読み〟のススメ

 たとえば、ニュートンの万有引力の法則を理解するとき、「ニュートンがリンゴが落ちるのを見てその法則を発見したとき、どういう気持ちだったのか」とか「落ちたリンゴはどんなリンゴだったのか」ということより、自分が落としたスイカが地面に落ちて割れたのも、万有引力のためだったのかと、まず個人的な体験で納得することのほうが肝心だ。
 そして、個人的体験で納得することが、すべてのものに引力が働いているという普遍的な理解への第一歩になる。

 それと同じで、文学も、まずは自分にひきよせて、自分の実感として理解することが肝心だと思う。
 そうすれば、そのうち、他の人はまた他の人なりに読むということも、受け入れられるようになってくる。
 そうして、いろんな読み方があることがわかれば、「リンゴも落ちる、みかんも落ちる、スイカも落ちる——万物には引力の法則が!」ということになるわけだ。

 いきなり普遍的な読み方をするなんて難しい。
 まずは勝手に読んでいいんだと思う。

 だから、やっぱり私は、ムンクの「叫び」は顎関節症の絵だと思う。



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頭木弘樹
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