雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる
ボブ・マーリー?
このタイトル、じつはボブ・マーリーの言葉だ。
ボブ・マーリーは、ジャマイカのレゲエのミュージシャン。
レゲエというのは、1960年代後半にジャマイカで生まれた音楽のことで、ボブ・マーリーはその代表的なミュージシャンだ。
たとえば、こんな曲がある。
「リデンプション・ソング(Redemption Song)」
どちらにしても雨に濡れている
そのボブ・マーリーの言葉。
『CATCH THE FREEDOM』(A-Works)という本からの引用で、翻訳は高橋歩(あゆむ)とロバート ハリス。
この言葉、どちらにしても雨に濡れている。
傘を持っていたり、雨宿りできる人の話はしていない。
そこがまず面白い。
名言はひとり歩きする
この言葉は、いったいどういう意味なのか?
引用した本には、どういうときに、どういう文脈で語られたのかは書いてない。
だから、ボブ・マーリーがこれをどういう意味で言ったかはわからない。
ただ、名言というのは、ひとり歩きするもの。
本来の意味からは離れて、読んだ人の人生の中で、独自に解釈され、感動を与えたり、衝撃を与えたり。
そういうこともありだと、私は思っている。
人生を変えたシャンプー
私がこの言葉を強烈に思い出したのは、じつは病院で手術を受けて、その後に、初めて髪を洗ったときのことだ。
手術後というのは、すぐには髪が洗えない。今はどうかわからないが、その頃はそうだった。私はかなり大きな手術だったから、髪を洗うことができたのは、術後、たしか2週間くらい経ってから。
まだお風呂には入ることはできなくて、洗面台の前の椅子にすわって、頭を前に倒して、看護師さんに頭だけ洗ってもらった。
そしたら、これがとてつもない、感動体験だった!
前に倒した頭の上から、シャワーでお湯をかけてもらうので、後頭部から顔のほうに向かって、お湯が流れていく。
それがもう無数の筋となって流れていくのだ。その無数の筋をすべて感じられる。本当にすべてかどうかはもちろんわからないけど、とにかく、そう思える。
わーっとお湯が流れていく、そのすべてが強烈に感じとれる。それこそ、わーっと声をあげそうだった。
こんなに水というのも鮮烈に感じたことは、それまでになかった。
これは、シャンプーしてさっぱりしたとか、そういうレベルのことではなかった。水が頭皮や肌にふれて流れていくという、そのこと自体に感動するのだ。
びっくりして看護師さんにそのことを言ったら、「なぜだかわからないけど、感動する人がいるのよねー」とおっしゃっていたので、私だけではない。
一時的なことではなかった
なぜ、そんなふうに感じたのか、今でもよくわからない。
手術を乗り越えて、また生きていけるというような、そういう状況だったからなのかもしれない。
とにかく、感覚が鋭敏になっていたんだと思う。
でも、これは決して一時的なことではなかった。
それ以来、私は水に対する感じ方が変わった。
たとえば、お風呂でシャワーを浴びるとき。水を感じるようにしようと意識すると、そのとたん、全身の肌を流れていく、無数の水の筋を感じられる。
頭から肩へ、胸からお腹、足をつたって足先まで。それをすべて感じることができる。
そして、それはとても感動的。ああ、肌を水が流れていくのはなんて気持ちがいいんだと、何度でも驚ける。
だんだん動いてきて、ついにはぐにゃんぐにゃんに
私は、宮古島という沖縄の離島に移住した。
海がとてもキレイで、長い期間、泳ぐことができる。
私は泳ぐというより、海で浮かんでいる。シュノーケルをくわえて、うつぶせに、海の上に大の字になって浮かぶ。
宮古島の海は、なぎの日には、とてもおだやかなので、まるで空に浮かんでいるような気分になれる。下にサンゴや魚たちの世界がある。透明度が高いから、それがよく見えて、まるで空から見ているようなのだ。
その状態から、だんだん身体の力を抜いていく。
これがけっこう難しくて、自然と力が入ってしまう。
それを意識して頑張って抜いていく。
そうすると、そんな穏やかな海でも、じつは無数の波のうねりがあることに気づかされる。
海面にも海中にも、じつに複雑な水の動きがある。
その動きによって、身体が動かされ始める。
だんだん動いてきて、ついにはぐにゃんぐにゃんに、びっくりするほど激しく複雑に動かされる。
そのとき、肌にふれる海の水を意識して感じるようにする。
すると、これがまた、えも言われぬほど、感動的なのだ。
自分の力で泳いで、海をかき分けていくときには、決して感じられない種類の感動だ。
そういうことを言っているのではないだろうけど
雨の話に戻る。
ボブ・マーリーの言葉。
私は20歳で難病になって以来、雨をとても恐れていた。
濡れてカゼを引くと、カゼだけではすまなくて、持病にまで響いてしまうからだ。
なので、大きめの傘を買って、ふりそうなときはいつも持って出ていた。
ただ、先に書いたように、手術後、水の感じ方が変わった。
それである日、傘を持っていたけど、雨に濡れてみた。もう家が近かったので、カゼもひかないだろうと。
そうすると、やっぱりすごかった。
高いところから落ちてきて、頭のてっぺんにあたる雨粒、そこから顔に流れてくる水、全身が上のほうから濡れていく感じ。
雨を全身で受けとめて、全身で感じるのは、こんなにも感動的なのかと、やはり驚いた。
傘を持っているのに、雨に打たれながら、嬉しそうに歩いている男というのは、かなり無気味だったと思うので、目撃した人には申し訳なかったが。
もちろん、ホブ・マーリーの言葉は、本当に雨の話をしているわけではないだろう。
つらいことがあったときに、ただ打ちのめされているだけの人間もいれば、そこから何かを得る人間もいる、というようなことを言っているのだと思う。それもちがうかもしれないが。
しかし、「感覚を研ぎ澄ませば、いろんなところにじつは未知の感覚、感動がある」という意味にもとるのも、また面白いように思うのだ。
いったん知ってしまうと
水の感じ方が変わってから、私は文字通り、雨にただ濡れるだけでなく、雨を感じられるようになった。
これは水だけのことではない。他の感覚についても同じことだ。
食べ物を味わう、何かを見る、何かのにおいをかぐ、何かにさわる、さわられる。
そういう感覚のすべてについて、じつはもう少しだけ意識的に、もっと深く感じるようにしてみると、そこには意外なほど大きな感動がある。
「そんな感動、どうでもいいよ」と思うかもしれないが、いったん知ってしまうと、それまでの生活がひどく味気なかったことに気づくほどだ。
元手もかからないし、ぜひ試してみてほしい。
私は病気をきっかけにそれに気づいたが、そうでなくても、少し意識すれば可能なことだと思う。
私だって、何か考え事をしているときなどは、何の気なしにシャワーを浴びたりしてしまうことがある。途中ではっと気づいて、「ああ、もったいなかった!」と思って、お湯を感じるように気持ちを切り替える。
この切り替えが肝心で、それは誰でもできることだと思う。やってみようとしたことがないだけで。
もしよかったら、次にお風呂に入るときに、肌の上を流れる水に意識を集中してみてほしい。
なんでもない日常の中に、思いがけない何かがあるかもしれない。