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雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる

 エッセイ連載の第13回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 今回のお話は、ラジオでも語ったことがあり、一部は『食べることと出すこと』という本にも書きましたが、ここであらためて。

ボブ・マーリー?

 このタイトル、じつはボブ・マーリーの言葉だ。

 ボブ・マーリーは、ジャマイカのレゲエのミュージシャン。
 レゲエというのは、1960年代後半にジャマイカで生まれた音楽のことで、ボブ・マーリーはその代表的なミュージシャンだ。
 
 たとえば、こんな曲がある。
「リデンプション・ソング(Redemption Song)」


どちらにしても雨に濡れている

 そのボブ・マーリーの言葉。

雨を感じられる人間もいるし、
ただ濡れるだけの奴らもいる。

『CATCH THE FREEDOM』(A-Works)という本からの引用で、翻訳は高橋歩(あゆむ)とロバート ハリス。

 この言葉、どちらにしても雨に濡れている。
 傘を持っていたり、雨宿りできる人の話はしていない。
 そこがまず面白い。

名言はひとり歩きする

 この言葉は、いったいどういう意味なのか?
 引用した本には、どういうときに、どういう文脈で語られたのかは書いてない。
 だから、ボブ・マーリーがこれをどういう意味で言ったかはわからない。

 ただ、名言というのは、ひとり歩きするもの。
 本来の意味からは離れて、読んだ人の人生の中で、独自に解釈され、感動を与えたり、衝撃を与えたり。
 そういうこともありだと、私は思っている。

人生を変えたシャンプー

 私がこの言葉を強烈に思い出したのは、じつは病院で手術を受けて、その後に、初めて髪を洗ったときのことだ。

 手術後というのは、すぐには髪が洗えない。今はどうかわからないが、その頃はそうだった。私はかなり大きな手術だったから、髪を洗うことができたのは、術後、たしか2週間くらい経ってから。

 まだお風呂には入ることはできなくて、洗面台の前の椅子にすわって、頭を前に倒して、看護師さんに頭だけ洗ってもらった。

 そしたら、これがとてつもない、感動体験だった!

 前に倒した頭の上から、シャワーでお湯をかけてもらうので、後頭部から顔のほうに向かって、お湯が流れていく。
 それがもう無数の筋となって流れていくのだ。その無数の筋をすべて感じられる。本当にすべてかどうかはもちろんわからないけど、とにかく、そう思える。
 わーっとお湯が流れていく、そのすべてが強烈に感じとれる。それこそ、わーっと声をあげそうだった。
 こんなに水というのも鮮烈に感じたことは、それまでになかった。

 これは、シャンプーしてさっぱりしたとか、そういうレベルのことではなかった。水が頭皮や肌にふれて流れていくという、そのこと自体に感動するのだ。
 びっくりして看護師さんにそのことを言ったら、「なぜだかわからないけど、感動する人がいるのよねー」とおっしゃっていたので、私だけではない。

一時的なことではなかった

 なぜ、そんなふうに感じたのか、今でもよくわからない。
 手術を乗り越えて、また生きていけるというような、そういう状況だったからなのかもしれない。
 とにかく、感覚が鋭敏になっていたんだと思う。

 でも、これは決して一時的なことではなかった。
 それ以来、私は水に対する感じ方が変わった。

 たとえば、お風呂でシャワーを浴びるとき。水を感じるようにしようと意識すると、そのとたん、全身の肌を流れていく、無数の水の筋を感じられる。
 頭から肩へ、胸からお腹、足をつたって足先まで。それをすべて感じることができる。
 そして、それはとても感動的。ああ、肌を水が流れていくのはなんて気持ちがいいんだと、何度でも驚ける。

だんだん動いてきて、ついにはぐにゃんぐにゃんに

 私は、宮古島という沖縄の離島に移住した。
 海がとてもキレイで、長い期間、泳ぐことができる。

 私は泳ぐというより、海で浮かんでいる。シュノーケルをくわえて、うつぶせに、海の上に大の字になって浮かぶ。

 宮古島の海は、なぎの日には、とてもおだやかなので、まるで空に浮かんでいるような気分になれる。下にサンゴや魚たちの世界がある。透明度が高いから、それがよく見えて、まるで空から見ているようなのだ。

 その状態から、だんだん身体の力を抜いていく。
 これがけっこう難しくて、自然と力が入ってしまう。
 それを意識して頑張って抜いていく。

 そうすると、そんな穏やかな海でも、じつは無数の波のうねりがあることに気づかされる。
 海面にも海中にも、じつに複雑な水の動きがある。

 その動きによって、身体が動かされ始める。
 だんだん動いてきて、ついにはぐにゃんぐにゃんに、びっくりするほど激しく複雑に動かされる。

 そのとき、肌にふれる海の水を意識して感じるようにする。
 すると、これがまた、えも言われぬほど、感動的なのだ。

 自分の力で泳いで、海をかき分けていくときには、決して感じられない種類の感動だ。

そういうことを言っているのではないだろうけど

 雨の話に戻る。
 ボブ・マーリーの言葉。

雨を感じられる人間もいるし、
ただ濡れるだけの奴らもいる。

 私は20歳で難病になって以来、雨をとても恐れていた。
 濡れてカゼを引くと、カゼだけではすまなくて、持病にまで響いてしまうからだ。
 なので、大きめの傘を買って、ふりそうなときはいつも持って出ていた。

 ただ、先に書いたように、手術後、水の感じ方が変わった。
 それである日、傘を持っていたけど、雨に濡れてみた。もう家が近かったので、カゼもひかないだろうと。

 そうすると、やっぱりすごかった。
 高いところから落ちてきて、頭のてっぺんにあたる雨粒、そこから顔に流れてくる水、全身が上のほうから濡れていく感じ。
 雨を全身で受けとめて、全身で感じるのは、こんなにも感動的なのかと、やはり驚いた。

 傘を持っているのに、雨に打たれながら、嬉しそうに歩いている男というのは、かなり無気味だったと思うので、目撃した人には申し訳なかったが。

 もちろん、ホブ・マーリーの言葉は、本当に雨の話をしているわけではないだろう。
 つらいことがあったときに、ただ打ちのめされているだけの人間もいれば、そこから何かを得る人間もいる、というようなことを言っているのだと思う。それもちがうかもしれないが。

 しかし、「感覚を研ぎ澄ませば、いろんなところにじつは未知の感覚、感動がある」という意味にもとるのも、また面白いように思うのだ。

いったん知ってしまうと

 水の感じ方が変わってから、私は文字通り、雨にただ濡れるだけでなく、雨を感じられるようになった。

 これは水だけのことではない。他の感覚についても同じことだ。

 食べ物を味わう、何かを見る、何かのにおいをかぐ、何かにさわる、さわられる。
 そういう感覚のすべてについて、じつはもう少しだけ意識的に、もっと深く感じるようにしてみると、そこには意外なほど大きな感動がある。

「そんな感動、どうでもいいよ」と思うかもしれないが、いったん知ってしまうと、それまでの生活がひどく味気なかったことに気づくほどだ。
 元手もかからないし、ぜひ試してみてほしい。

 私は病気をきっかけにそれに気づいたが、そうでなくても、少し意識すれば可能なことだと思う。
 私だって、何か考え事をしているときなどは、何の気なしにシャワーを浴びたりしてしまうことがある。途中ではっと気づいて、「ああ、もったいなかった!」と思って、お湯を感じるように気持ちを切り替える。
 この切り替えが肝心で、それは誰でもできることだと思う。やってみようとしたことがないだけで。

 もしよかったら、次にお風呂に入るときに、肌の上を流れる水に意識を集中してみてほしい。
 なんでもない日常の中に、思いがけない何かがあるかもしれない。



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頭木弘樹
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