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自由と不自由

 新しく始めたエッセイの連載の10回目です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 あなたの今の生活は、楽しいでしょうか? 不快でしょうか?
 便利でしょうか? 不便でしょうか?
 自由でしょうか? 不自由でしょうか?

快をプラス/不快をマイナス

 旅行カバンに荷物を詰めるとき、どちらのほうをたくさん入れるだろうか?
○楽しみをプラスするもの
○不快をなくすためのもの
「楽しみをプラスするもの」とは、たとえばお菓子とか、漫画とか、ゲームとか。
「不快をなくすためのもの」とは、たとえば傘とか、胃腸薬とか、耳栓とか。
 どちらが多くなるか、人によってけっこう分かれるらしい。

 私は完全に後者だ。
 旅先で困るのはつらいから、「どんな困ったことがありうるだろう?」と前もってよく考え、それに対処するためのものをなるべく入れようとする。
 だから、荷物が多くなりがちだ。
 しかも、けっきょく雨は一度も降らず、傘を開くことはなかったというように、荷物の大半は使わないままということが多い。

 私の知り合いには、「不快をなくすためのもの」はいっさい荷物に入れない人もいる。楽しむためのものしかカバンには入っていない。快カバンだ。
 そのせいで困ることも当然ある。雨が降り出して、ずぶ濡れになったり、食あたりになったのに、近くに薬局がなかったり。しかし、それもまた旅の思い出として楽しんでしまうわけである。
 じつにかっこいい。私にはとてもマネができない。

 私も病気になる前は、「楽しみをプラスするもの」のほうを重視するタイプだったと思う。
 しかし、病気になってしまうと、雨にずぶ濡れになったり、食あたりになったりすることを楽しむわけにはいかなくなる。命とりになりかねない。
 しかも、病気のせいで、ただでさえ日常が不快だらけなので、もうこれ以上の不快は嫌だ、なくせる不快はなるべくなくしたいという思いが強い。

「快」求めることと、「不快」をなくそうとすることは、似ているようで、ちがう。

映画「砂の女」(安部公房 原作&脚本)

 今、「生誕100周年記念 アヴァンギャルドの巨人 安部公房』という映画特集が、大阪の映画館シネ・ヌーヴォで開催されている。

 昨日が初日で、映画「砂の女」が上映された。上映後のトークショーで、安部公房と映画について語らせてもらった。
 そのために、あらためて映画「砂の女」を見た。やっぱり、よかった!
(残念ながら配信はないようだが、クライテリオンから美しい画像のBlu-rayが出ている)

 安部公房の小説『砂の女』を、安部公房自身が映画の脚本にしたものだ。

 昆虫採集のために東京から地方の砂丘に来た男が、ひと晩だけのつもりで、地元の民家に泊まる。
 なんと、家は砂の穴の底にある。
 おしよせる砂を毎晩、その家にひとりで住んでいる女がスコップでかき集め、穴の上から部落の者たちがロープの先に結びつけて下ろしてくれるモッコに入れて、穴の外に運び出すのだ。
 ひと晩中、それを続けている。
「砂は休んじゃくれませんからねえ」

 男は縄ばしごを使って穴の底の家に下りたのだが、翌朝、その縄ばしごが消えている。
 最初から、もう穴の外に出す気はなかったのだ。
「本当に、女手一つじゃ無理なんですよ、ここの生活……」
「砂掻きが間に合わないと、家が埋まってしまいますから」

 こうして男は、砂の穴の底の家に囚われてしまう。そして砂掻きの日々。

「こんな無理をしてまで、なぜこんなところに、しがみついていなきゃならないんだ? 正気を疑うね。生きるために、砂掻きをしているんだか、砂掻きのために生きているんだか、分りゃしない」

 という男の疑問はもっともだ。
 しかし、映画を見ているうちに、観客の自分も、だんだんおかしな気持ちになってくる。
 穴の外で自由に暮らしているつもりの自分たちの生活は、この砂の穴の中の生活とそんなにちがうだろうか?
 したくない仕事をみっちりして、生きるために働いているんだか、働くために生きていくんだか、わかりゃしないということに、なってはいないだろうか?

 女は言う。
「ラジオでもあれば、気がまぎれるんだろうけど……」
 そう、けっきょく、砂の穴の中の生活と、外の生活のちがいは、気をまぎらわすためのものがどれだけあるか、というだけのことではないだろうか?
 テレビがある、飲み屋がある、いろんな娯楽がある。それで楽しめる。気がまぎれる。
 砂の穴でも、お酒と煙草の配給はある。
 無意味な生活の中でも、「快」があればやっていけるわけだ。
 その「快」もまた、気をまぎらわすだけの、無意味なものであったとしても。

便利な不自由と不便な自由

 前回も紹介した、『ホームレスでいること』(いちむらみさこ著 創元社 シリーず「あいだで考える」)に、こういう一節がある。

 屋根があり、トイレ、水道、ガス、電気があるという点で便利だったが、その暮らしを維持することは簡単なことではなかったし、ほかに何かもっと豊かな暮らし方があるのではないかと感じていた。

 ここが個人的に、とても考えさせられた。
 私は上記したように、「不快」を避けることに懸命になっている。
 そうすると、「便利」の喪失は、とてもおそろしい。
 たとえば、薬を飲むだけでも面倒なのに、そのための水を手に入れるのに、いちいち手間がかかるとしたら。トイレにかけこんでしまう病気なのに、そのトイレを自由に使えないとしたら。考えただけでも、ぞっとする。せめてそこはすぐに水があって、自分の部屋に綺麗なトイレがあってほしい。

 病気じゃなくたって、屋根がない、トイレがない、水道がない、ガスがない、電気がない、に耐えられる人は少ないだろう。不便から便利になるのは短期間で簡単に順応できるが、便利から不便になるのは、想像以上に耐えがたく、慣れるのにおそろしく時間がかかる。

 しかし、著者のいちむらさんが言うように、「その暮らしを維持することは簡単なことではな」い。「しかたなく働いて、しかたなく人と競争して、しかたなく家賃を払って、しかたなく生きていた」という。これは、砂の穴の中で、しかたなく砂を掻いているのと同じだろう。

「ほかに何かもっと豊かな暮らし方があるのではないか」と問題提起するのは簡単だ。そう言う人は多いし、思っている人はもっと多いだろう。
 しかし、いちむらさんは問題提起しただけではない。実際に、自らホームレスとなったのだ。
 これはなかなかできることではない。
 いちむらさんは、砂の穴の底の家から抜け出して、穴の外に出たのだ。
 今までの生活と比べたら、とてつもない自由だ。とてつもない爽快感だろう。もう家にとらわれることはない、砂を掻かなくてもいい、どこにでも行ける。

 しかし、自由になった一方で、「屋根があり、トイレ、水道、ガス、電気があるという点で便利だった」のを失った。
 これは不自由とも言えだろう。
 私はその不自由が気になってしまう。多くの人もそうだろう。「ほかに何かもっと豊かな暮らし方があるのではないかと感じ」ながら、砂の穴から出られない。

自分の心の底を叩いてみたら

 自由とは何なのかと、あらためて思ってしまう。
 私は病気になって不自由な身体になったので、その分、いっそう自由を求めている。
 でも、それを便利さの中に求めてしまっている。便利=自由というのは、どう考えてもちがうだろう。しかし、そこにはまってしまっている。

「快/不快」「便利/不便」「自由/不自由」
 似ているけれども、それぞれちがってもいる。
 多くの人がいちばんひきつけられるのは、「快」と「便利」だろう。砂糖を知ってしまった人類が、もはやそれなしではいられないように。
 しかし、精神の面で最も求めているのは「自由」だろう。

「快」と「便利」のために、やりたくないことをやるという「不快」と「不自由」に耐えつづけ、そのつらさをまた「快」と「便利」でなぐさめるというループ。心のどこかで「自由」を求めながら。
 ──それが私たちの生活なのかもしれない。

 自分は"本当"は何を求めているのか? と自分に問い質してみても、本当というのは、だいたいまやかしなので、わからない。
「砂の女」のラストで、男は穴の外に出られるチャンスを得る。男は外に出たのか、それとも出なかったのか?
 どちらを選んだと、あなたは思いますか?



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頭木弘樹
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