自由と不自由
快をプラス/不快をマイナス
旅行カバンに荷物を詰めるとき、どちらのほうをたくさん入れるだろうか?
○楽しみをプラスするもの
○不快をなくすためのもの
「楽しみをプラスするもの」とは、たとえばお菓子とか、漫画とか、ゲームとか。
「不快をなくすためのもの」とは、たとえば傘とか、胃腸薬とか、耳栓とか。
どちらが多くなるか、人によってけっこう分かれるらしい。
私は完全に後者だ。
旅先で困るのはつらいから、「どんな困ったことがありうるだろう?」と前もってよく考え、それに対処するためのものをなるべく入れようとする。
だから、荷物が多くなりがちだ。
しかも、けっきょく雨は一度も降らず、傘を開くことはなかったというように、荷物の大半は使わないままということが多い。
私の知り合いには、「不快をなくすためのもの」はいっさい荷物に入れない人もいる。楽しむためのものしかカバンには入っていない。快カバンだ。
そのせいで困ることも当然ある。雨が降り出して、ずぶ濡れになったり、食あたりになったのに、近くに薬局がなかったり。しかし、それもまた旅の思い出として楽しんでしまうわけである。
じつにかっこいい。私にはとてもマネができない。
私も病気になる前は、「楽しみをプラスするもの」のほうを重視するタイプだったと思う。
しかし、病気になってしまうと、雨にずぶ濡れになったり、食あたりになったりすることを楽しむわけにはいかなくなる。命とりになりかねない。
しかも、病気のせいで、ただでさえ日常が不快だらけなので、もうこれ以上の不快は嫌だ、なくせる不快はなるべくなくしたいという思いが強い。
「快」求めることと、「不快」をなくそうとすることは、似ているようで、ちがう。
映画「砂の女」(安部公房 原作&脚本)
今、「生誕100周年記念 アヴァンギャルドの巨人 安部公房』という映画特集が、大阪の映画館シネ・ヌーヴォで開催されている。
昨日が初日で、映画「砂の女」が上映された。上映後のトークショーで、安部公房と映画について語らせてもらった。
そのために、あらためて映画「砂の女」を見た。やっぱり、よかった!
(残念ながら配信はないようだが、クライテリオンから美しい画像のBlu-rayが出ている)
安部公房の小説『砂の女』を、安部公房自身が映画の脚本にしたものだ。
昆虫採集のために東京から地方の砂丘に来た男が、ひと晩だけのつもりで、地元の民家に泊まる。
なんと、家は砂の穴の底にある。
おしよせる砂を毎晩、その家にひとりで住んでいる女がスコップでかき集め、穴の上から部落の者たちがロープの先に結びつけて下ろしてくれるモッコに入れて、穴の外に運び出すのだ。
ひと晩中、それを続けている。
「砂は休んじゃくれませんからねえ」
男は縄ばしごを使って穴の底の家に下りたのだが、翌朝、その縄ばしごが消えている。
最初から、もう穴の外に出す気はなかったのだ。
「本当に、女手一つじゃ無理なんですよ、ここの生活……」
「砂掻きが間に合わないと、家が埋まってしまいますから」
こうして男は、砂の穴の底の家に囚われてしまう。そして砂掻きの日々。
という男の疑問はもっともだ。
しかし、映画を見ているうちに、観客の自分も、だんだんおかしな気持ちになってくる。
穴の外で自由に暮らしているつもりの自分たちの生活は、この砂の穴の中の生活とそんなにちがうだろうか?
したくない仕事をみっちりして、生きるために働いているんだか、働くために生きていくんだか、わかりゃしないということに、なってはいないだろうか?
女は言う。
「ラジオでもあれば、気がまぎれるんだろうけど……」
そう、けっきょく、砂の穴の中の生活と、外の生活のちがいは、気をまぎらわすためのものがどれだけあるか、というだけのことではないだろうか?
テレビがある、飲み屋がある、いろんな娯楽がある。それで楽しめる。気がまぎれる。
砂の穴でも、お酒と煙草の配給はある。
無意味な生活の中でも、「快」があればやっていけるわけだ。
その「快」もまた、気をまぎらわすだけの、無意味なものであったとしても。
便利な不自由と不便な自由
前回も紹介した、『ホームレスでいること』(いちむらみさこ著 創元社 シリーず「あいだで考える」)に、こういう一節がある。
ここが個人的に、とても考えさせられた。
私は上記したように、「不快」を避けることに懸命になっている。
そうすると、「便利」の喪失は、とてもおそろしい。
たとえば、薬を飲むだけでも面倒なのに、そのための水を手に入れるのに、いちいち手間がかかるとしたら。トイレにかけこんでしまう病気なのに、そのトイレを自由に使えないとしたら。考えただけでも、ぞっとする。せめてそこはすぐに水があって、自分の部屋に綺麗なトイレがあってほしい。
病気じゃなくたって、屋根がない、トイレがない、水道がない、ガスがない、電気がない、に耐えられる人は少ないだろう。不便から便利になるのは短期間で簡単に順応できるが、便利から不便になるのは、想像以上に耐えがたく、慣れるのにおそろしく時間がかかる。
しかし、著者のいちむらさんが言うように、「その暮らしを維持することは簡単なことではな」い。「しかたなく働いて、しかたなく人と競争して、しかたなく家賃を払って、しかたなく生きていた」という。これは、砂の穴の中で、しかたなく砂を掻いているのと同じだろう。
「ほかに何かもっと豊かな暮らし方があるのではないか」と問題提起するのは簡単だ。そう言う人は多いし、思っている人はもっと多いだろう。
しかし、いちむらさんは問題提起しただけではない。実際に、自らホームレスとなったのだ。
これはなかなかできることではない。
いちむらさんは、砂の穴の底の家から抜け出して、穴の外に出たのだ。
今までの生活と比べたら、とてつもない自由だ。とてつもない爽快感だろう。もう家にとらわれることはない、砂を掻かなくてもいい、どこにでも行ける。
しかし、自由になった一方で、「屋根があり、トイレ、水道、ガス、電気があるという点で便利だった」のを失った。
これは不自由とも言えだろう。
私はその不自由が気になってしまう。多くの人もそうだろう。「ほかに何かもっと豊かな暮らし方があるのではないかと感じ」ながら、砂の穴から出られない。
自分の心の底を叩いてみたら
自由とは何なのかと、あらためて思ってしまう。
私は病気になって不自由な身体になったので、その分、いっそう自由を求めている。
でも、それを便利さの中に求めてしまっている。便利=自由というのは、どう考えてもちがうだろう。しかし、そこにはまってしまっている。
「快/不快」「便利/不便」「自由/不自由」
似ているけれども、それぞれちがってもいる。
多くの人がいちばんひきつけられるのは、「快」と「便利」だろう。砂糖を知ってしまった人類が、もはやそれなしではいられないように。
しかし、精神の面で最も求めているのは「自由」だろう。
「快」と「便利」のために、やりたくないことをやるという「不快」と「不自由」に耐えつづけ、そのつらさをまた「快」と「便利」でなぐさめるというループ。心のどこかで「自由」を求めながら。
──それが私たちの生活なのかもしれない。
自分は"本当"は何を求めているのか? と自分に問い質してみても、本当というのは、だいたいまやかしなので、わからない。
「砂の女」のラストで、男は穴の外に出られるチャンスを得る。男は外に出たのか、それとも出なかったのか?
どちらを選んだと、あなたは思いますか?