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ダメージ人生の味わい

 また新しくエッセイの連載を始めてみることにしました。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 アップできないときもあるかもしれませんが……。
 どうぞよろしくお願いいたします!

『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 今回は、まえがき的な内容です。
 ちょっと長いですが、よろしかったら、お読みください。



人生の〝味わい〟

 革製品は使いこむとだんだんあめ色になって、風格が出てくる。
 きこんで傷だらけのブーツなどは、なんとも貫禄かんろくがあり、ピカピカの新品では横に並ぶのが恥ずかしいほどだ。

 陶磁器が割れてしまったときには、金継きんつぎという技法(うるしで接着し、金粉で仕上げる)で修復することができ、割れる前よりかえって価値が上がることもある。

 ジーンズにいたっては、わざとダメージ加工したりする。

 私たちは「汚れ」「傷」「しわ」「しみ」「古さ」「割れ」「ダメージ」などの積み重ねを、ただたんにマイナスとはとらえずに、〝味わい〟として大切にしている。

 自分の人生についても、そんなふうにとらえることはできないだろうか?

幸せを求めるとは、プラスを求めることなのか?

 モノについては、ダメージの味わいを愛する人でも、いざ自分の人生となると、そうはいかなくなる場合が多い。

 なるべく傷つかないように、嫌なことは起きないように、できるだけダメージを避けようとしてしまう。

 マイナスなことからは可能な限り目をそむけ、そむけきれなくなったときも、マイナスをできるだけ早くプラスに転換しようとする。マイナスのまま愛するということがない。

 人生になるべくプラスのことばかりがあって、マイナスのことがないように願いながら、いつでもそうなりそうな道のほうを選択をしている。

 そして、ダメージを受けても、ゴムボールがへこむような、また元通りに戻れるダメージなら、ほっとする。
 しかし、アルミ缶がへこむような、もう元通りには戻れないダメージなら、がっかりしてしまう。もう人生がだいなしになったような気がしてしまう。

自分という一点物、人生という一回きりのもの

 これは自分というのが〝一点物〟だからでもあるだろう。
 モノだって、「これは世界にひとつだけで、どこを探しても、同じものは他にありません」と言われれば、たとえ高価なものでなくても、うかつに傷つけないよう、やはり丁寧にあつかうだろう。

 自分というのは、たとえそんなに好きではない場合でも、どうしたって一点物だ。自分にはこの自分しか手に入らず、まさにかけがいがない。どうしたって、あつかいに慎重になる。

 人生もいちどきりしか生きられない。二度、三度と生きられたら、さすがにもっとましに生きられると思うのだが、そうはいかない。
 初めて生きる人生だから、いつだって初心者で、ミスしないようにするので精一杯になりやすい。

ジーンズは泣かないが、人は泣く

 また、〝感情〟ということも大きいだろう。モノはダメージを受けても苦しむわけではないが、ヒトは苦しんでしまう。
 これが困る。

 ケガ自体はしかたないと思えても、痛みのほうは我慢できないことがある。それと同じように、起きた出来事を頭では受け入れられても、心が苦しんで、その苦しみに耐えられないことがある。

 だから、身体の痛みをおそれて危険な行動を避けるように、心の苦しみをおそれてマイナスな出来事を避けようとしてしまう。
 それは理屈ではなく感情だから、コントロールが難しい。

人生を倍味わう

 それでも、なんとか、傷だらけの人生の味わいというものを考えてみたいと思うのだ。
 なぜなら、傷つかずに生きていくなんてできないからだ。
 プラスだけでマイナスのない人生なんてありえないからだ。

 いや、ありうるかもしれないが、本当にそのほうがいい人生だろうか?
 つねに無傷でピカピカのカバンを持ち、傷ついたら捨てるという生き方もあるだろう。しかし、ピカピカも味わい、傷ついたら傷ついたでまた味わうほうが、幅広く、奥行きがあるのではないだろうか。

 マイナスを愛するという感性も大切にしたほうが、プラスだけにこだわるより、ずっと豊かなように思うのだ。

人生についてずっと考えつづけてきた

 私は十代のころ、「人生とは?」とか「なぜ生きるか?」とか、考えたこともなかった。
 そんなのは哲学者の考えることだと思い、まったく興味がなかった。

 しかし、二十歳のとき、突然、難病になってしまった。
 ずっと健康だったので、まったく思いがけないことだった。
「これが本当に自分の人生なのか?」と信じられない気がした。

 どうしたって、「人生とは?」と考えざるをえなかった。

 生きるのが楽しければ「なぜ生きるのか?」とは考えないが、生きるのがつらくなってしまったので、「なぜ生きるのか?」と考えざるをえなくなったのだ。

 哲学者の考える高尚なことだと思っていた問いかけが、自分にとっておそろしく切実なものとなってしまったのだ。

 それ以来ずっと「人生とは?」とか「なぜ生きるか?」とか考えつづけている。

生きづらい人たちとたくさん出会ってきた

 普通、人生について何か聞くとしたら、〝うまく生きている人〟に聞くだろう。
 道をたずねるときに、道に迷っている人に聞いてもしかたない。いちばんいいコースを歩いている人に、「私も同じ道を歩くにはどうしたらいいでしょう?」と聞きたくなるのは当然だ。

 しかし、名選手が名コーチとは限らない。才能に恵まれず、いろいろ苦労してきた選手の話のほうが参考になる場合もある。

 私は病院の六人部屋で、たくさんの人たちと出会ってきた。
 みんな、傷ついた人たちだ。身体もだが、病気になるということは社会からの脱落でもあり、そのことで心も傷ついている。壊れてしまった人間として、普通以下になってしまった自分に苦しんでいた。うまく生きている人の真逆で、とても生きづらい人たちだ。

 だが、そういう人たちに魅力がないかというと、そうではなかった。順調に生きているときに出会ったら、おそらくまったく魅力を感じなかっただろう人たちからも、まさにダメージジーンズのような魅力がぷんぷんと漂っていた。

愛しにくい人生を、どう愛したらいいのか?

 人を愛すると、自分も愛せるようになると言うが、六人部屋の人たちの魅力に気づけたおかげで、自分自身の気持ちもかなり救われたと思う。

 難病というのは、プラスに転換しようのない大きなマイナスだ。治らない病気なので、乗り越えることもできない。
 ただ幸い、すぐ死ぬということでもなかった。つまり、「マイナスを抱えたまま生きていくには、どうしたらいいのか?」というのが私の課題となった。

 そういう人間がいったいどういうふうに生きてきたのか?
 そして人生についてどう感じ、どう考えているのか?
 ダメージ人生にも味わいはあるのか?
 もしよかったら、ちょっと耳を傾けてみてもらえるとありがたいのだが、どうだろう?





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頭木弘樹
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