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五行歌を書く技術についてなんとなく思っていること

 こんにちは。南野薔子です。
 五行歌を書くための技術ってなんだろう、どうやったら培えるんだろう、みたいなことについてなんとなく思っていることを。
 
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 五行歌界隈の一部では、私が羽生結弦選手のファンであることは知られているのだが、その羽生選手の言葉の中で私が好きなものの一つが下記である。平昌で五輪二連覇した後の会見の中で。
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芸術というのは、明らかに、正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力、芸術であって、それが足りないと芸術にはならないと僕は思っています。
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 この言葉に接したときに、はて、じゃあ五行歌で「正しい技術、徹底された基礎」に当たることってどんなことだろう、とあらためて考えたのだった(それから何年も経ってるわけだが……)。五行歌に限らず、言語表現全般について考えたのだが便宜上ここでは五行歌を例として話をする。
 さて、五行歌を書いていて、それが「芸術」たることを目指しているかどうかは人によってさまざまだと思うし、そもそも芸術ってなんだということになるといろいろ難しいけれど、それはさておき誰もがその人なりに「よいもの」を書きたいという動機は持っているだろうと思う。そうするために持つべき技術、基礎ってなんだろう。「技術」はいわゆる「技巧を凝らす」といったことでイメージされるような話ではなく、それも含み得るけれど、それ以前の、もっと基本的な何かをここでは指しておきたい。まあ平たく云えば言葉の選び方と並べ方。
 スケートだと、スケート靴を履いて氷の上に乗って、練習しなくちゃね、ということがある意味見えやすいのだが、言葉はそれなりに生活していれば、人生の最初期を除いては特に練習するまでもなく接するもの、使うものであるだけに、それを使って五行歌という作品にする際の基礎とか基本的技術ということをあらためて考えようとすると、なかなか簡単に云いあらわしにくいものがある。
 まあもちろん、誤字脱字はしないようにとか、文法がおかしくならないようにとか(あえて文法を崩すとか、しゃべり言葉の感じを活かすために文法を無視するとかはあり得るとして)、そういうことはまずある。あとは、五行歌の場合は、自分の呼吸を大事に、ということが云われる。入門書を読めば、ある程度推敲のコツとかも書いてある(と思う)。
 しかし、じゃあどうやったら自分の呼吸で書けるのか、どうやったらそれをうまくあらわすような推敲が実際にできるのか、ということになると、身も蓋もないが「読む」と「書く」を繰り返すしかないな、というのが実感である。いや、まあ、才能があって、わりと最初っから上手いものを書けてしまう人というのもいるし、また、言葉の使い方などがまだ拙い子どもの作品が非常に新鮮味があって魅力的ということもままあるし、また、大人になってからでも子どものような感覚で言葉を新鮮に使えてしまう人というのもいないことはない、が。
 それらはすべて狙ってできるものではないし、また最初のうちにそういう感じで書けていた人もそれが続くとは限らないということもある。だからまあ結局地道に「読む」「書く」を繰り返すしかないなあと思っている。
 「読む」について、量読乱読か、限られたものをじっくり読み込むか、なども人によってスタイルはあると思う。ただ、ある程度の質量のものを読むことで「言葉の選び方、並べ方」の感覚みたいなものが自分の中にだんだん蓄積されてくるということだと思う。その蓄積はあるに越したことはない。ただ、何でも「学ぼう!」っていう意識で読むのもありとしても、学ぶという意識を先立たせるよりは、自分が「これが好き」と思って、楽しんで読めるものからの方が吸収はいいかもしれないということはなんとなく思う。自分の好きな傾向というのがある程度明確化されればそういったものをたくさん読んでみるというのがいいような気がしている。五行歌を読むのも、他の言語作品を読むのもいい(言語作品以外でも、発想のヒントになったりすることはもちろんあり得る)。そうしているうちに影響を受けて自分の作品が模倣的になったりすることもあるが、全くのパクりにならないように気をつけさえすれば、そういう時期もあること自体は自然なことではないかと思っている。
 「書く」については、自分が「こういうことを、こういう感じであらわしたい」と思ったことをなるべく精確にあらわせるように、ああでもないこうでもない、と、言葉の選び方とその並べ方とを試行錯誤する時間を積むしかない。そして自分が「書けた」と思ったものが、実際に人にそのように受け取ってもらえるかについてもある程度的確な判断を下せるようにならないといけない(もちろん、読み手と書き手が違う人間である以上100%の受け取りはないのだがそれはそれとして)。それにはもちろん、誰かに読んでもらって感想を云ってもらうというのも有効だが、読み手としての自分の目を鍛えることも重要だと思う。自分の作品を客観的に読むのは時間をおかないと難しい面もあったりするけれど、自分の中の読者の目というのを培うことで読み手側の受け取り方の判断の精度を上げることができるということはある。そのためにもやはり「読む」のが大事なのだと思う。
 そして「歌会に出る」ことから得られるものは大きいと思う。歌会に出るからには当然自分の歌を一首は書くことになるし、出席者の人数分だけの歌は読むことになる。そして、他の人の歌にコメントをしたり、自分の歌にコメントをもらったり、また自分の歌について説明したりすることになる。そうした中で、自分の歌について「ここは伝わったようで嬉しかった」「ここはわかりにくかったみたいだから変えた方がいいかも」といったことがわかるし、他の人のコメントを聞いていて「なるほどそういう発想がこういう言葉になるのか」とか「この歌にはこういう工夫があったのか」とか学ぶことが多い。また、人の歌についてどんなところがどういうふうにいいと思ったか云う必要があるので、そこで他の人の言葉の選び方、並べ方の良さを明確化できる可能性がある。自分の歌について説明しないといけないので、自分がどういう意識で、どういうふうに書いているのかということをあらためて明確化する機会にもなる。
 五行歌では「添削をしない」というのが慣行になっているが、歌会の中で「こうした方がよくなる可能性はあるかも」といった示唆があることもある。もちろん、そういったことを必ず採り入れないといけないというのではない。ただ、採り入れるかどうかも含めて、考える機会にはなる。
 私は非社交的な性格だが、五行歌の歌会(主に九州五行歌会)にはそこそこの頻度で顔を出すのは、そういったコメントの交換が充実していて楽しいというのがある。いつからか、歌会で誰かの歌についてコメントをするときに、歌の内容自体への感想なども云うのだが、できるだけ、その歌の言葉の選び方や並べ方について、どんなところがどういうふうにいいと思ったか云うようにしている。いつもうまく云えるとは限らないけれど。自分の歌についても、自分のあらわそうと思ったことをあらわすために、どういう理由でどういう言葉を選びどう並べたか、ということをなるべく云えたらと思っている。これもいつもうまく云えるとは限らないけれど。
 というか、えらそうにこうやってえんえんと書いた全てを、いつもみっちり心がけてやってます、と胸を張れるわけでもない。いろいろ読まなきゃなと思ってもついついだらけて過ごしてしまったり、〆切りに追われるなどで推敲不十分になったり……。ただ、意識の方向性としてはこんな感じでやってますという感じである。

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