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1995年1️⃣

年明け早々に未曾有の大災害が起こった。「阪神・淡路大震災」だ。
早朝の5時過ぎに兵庫県南部を中心に淡路島を含む阪神地域一帯をマグニチュード7.3の地震が発生したのだ。

善は、この日、麻布の自宅で寝ており、10時頃に目が覚めて、テレビのニュースでこの震災発生を知った。
当然、すぐに金本翔子(楓)の携帯に電話をかけた…が、繋がらなかった。
昨年末に京都の美月を失い、傷心のまま年を越した善だったが、ここに来て翔子まで失うのか?と、居ても立っても居られず、善は何も考えずにバッグに荷物を詰め込むと、単車に飛び乗り真っ直ぐ大阪に向かった。

高速を飛ばしに飛ばしたが、大阪に近付くに連れて大渋滞が発生。善は当然この渋滞が予想できたため、車ではなく単車にしたのだった…それでもやはり必要以上に時間がかかり、東京を11時に出て、大阪市内に入った時はすでに夜だった。

善は真っ直ぐ翔子のマンションに向かった。翔子のマンションは外壁が剥がれたり、窓ガラスが割れたりといった被害を受けていたが、崩壊の恐れはなさそうだった。善は、翔子の住む8階まで上がり、合鍵で室内に入った…が、翔子の姿は無かった。
善は、ここに来るまで、何度も翔子の携帯に電話したが繋がらない。この部屋の中でも電話をかけたが、やはり繋がらなかった。
善は部屋を出て、翔子が働くクラブアンシャンテに行った。
この日は当然、どこの店も営業していなかったが、店内の片付けのために従業員が出て来て、割れたボトルやグラスなどの片付けをしていた。
アンシャンテも同様にスタッフ達が後片付けをしていたが、そこに翔子の姿は無かった。そして、ママもいなかった…そして善はここで衝撃的な事実を知らされた。
翔子は、神戸でアンシャンテのママの妹がしているクラブ「シャトレーゼ」にヘルプのため、一昨日から神戸に行っているとのことだった。そしてママは、神戸の妹はもちろん楓とも連絡が取れない…となって、神戸に向かったとのことだった。
善もその話しを聞いて、神戸に向かった。神戸市内の状況は最悪だった。
都市高速道路は倒れ、いくつものビルが倒壊していた。あらゆるところで消防や自衛隊が人命救助に当たっていた。
まさに地獄絵図だった。
救助隊が倒壊したビルの中から担架に乗せた負傷者を運び出す…が、明らかに存命ではないことが明らかだった。

善は、市外の外れでキャンプしながら三日間に渡って翔子を探し続けた。
誰かに連絡を取ろうとにも携帯が繋がらない…。
そして一旦、大阪に戻り再度、アンシャンテに行くと、ママからの伝言で妹が亡くなっていたことと、その妹のマンションで一緒に寝ていた翔子は、同じく瓦礫に埋もれた状態で救出され、辛うじて息はあるが重体だそうで、大阪市内の大学病院にヘリコプターで緊急搬送されたそうだ。
善は、すぐさま翔子が搬送された病院に駆けつけたが、集中治療室で絶対安静の状態らしく一切の面会が遮断されていた。
翔子は、生死の境目を彷徨い続けること1週間…死を免れることができた。
この間、翔子の母と妹が、和歌山の実家から駆けつけ善が挨拶をすると、翔子から善の話を聞いていると…言われ、翔子が大阪で幸せな毎日をおくれているのは、全て進藤さんのおかげだと申しておりました…と言って深々と頭を下げられた。
善も、自分も翔子さんに支えられて、幸せな時間を共有することができましたと感謝し、頭を下げた。

善は、親族でないため当然面会は不可能だ…が、翔子の母妹が来たことで、家族の承諾の下、面会可能…かと思ったが、本人及び家族の都合により、面会は叶わなかった。
そして、必ず連絡するから、それまで待っていて欲しいとの翔子からの伝言をもらい、善は東京に戻った。
が、翔子からの連絡は一向に無かった。
そして約半年が経過した頃、翔子の妹、金本千草から1通の手紙が届いた。
そこには、衝撃の事実が書かれてあった。
翔子は、震災によって倒壊したマンションの瓦礫に埋もれ、身体中に深い傷を負い脊椎を損傷して身体の自由を奪われ、完全介護が必要な状態にあるとのことだった。
そして、手紙の最後に、ミミズが這うような細く薄い文字で…

しあわせをありがとな
しんでもあいしてる

と書かれていた。
翔子が恐らくペンを口に咥えて、書いたであろうことが想像できた。
善は、手紙を読み、美月の時と同じぐらき、いや…それ以上にひとり号泣し、深い…深い悲しみに打ちひしがれた。

善は妹を通じて多額のお見舞いを送り、それ以後も翔子とその母と妹への経済的支援をし続けた。
が、善が生きている翔子と顔を合わせることは二度となかった。

この震災から5年後、翔子は多臓器不全によりこの世を去った。
訃報の知らせを受けた善は、翔子の母と妹が暮らす和歌山の実家に飛んだ。
棺に納められた翔子の顔に手を合わせた善に妹の千草が、別人みたいでしょ?と泣き腫らした目を善に向けて聞いてきた。
確かにあの明るく元気だった頃の面影はなかった。死化粧により顔色を良く見せてはいるものの、痩せ細り目の周りも窪んでいて、額に大きな傷痕があった。恐らく震災の時に負った傷だろう。
遺影は、翔子がまだクラブで元気に働いていた頃の写真だった。しかもその写真に映る順子の横には間違いなく善が写っていたものだった。
善は棺の前で泣き崩れ、しばらくの間、立ち上がることができなかった。
生前の翔子が、口にタイプペンを咥えて、パソコンのキーボードを押して書いた手紙を妹の千草から手渡された。
自分がこの世を去った後に善に渡してくれと頼まれたとのことだった。

善へ。

善は、うちにとって最愛の人。
善がうちの人生を薔薇色に染めてくれたの。
善に愛された思い出を胸に抱いて毎日眠るの。そうすれば毎晩夢で善と会えるから。
正直な気持ちは、死ぬほど善に会いたかった。
でも、こんな姿になったうちのことを善に見られたくなかった。
善は、間違いなく、うちがどんな姿になっても、うちのことを抱きしめてくれるってわかってる。
でも、うちは善の前では、いつでもイイ女でいたかったから。
だから、会えなかった。ごめんなさい。
最後に善にお願いがあります。
必ず聞いてください。
善には、人を幸せにする力があるの。
だから、うちの分までひとりでも多くの善が愛する、善を愛してる女の子を幸せにしてあげてください。
うちは善の中に生きて、善が幸せな人生を送ることで、うちも一緒に幸せになれるから。
お願いします。
愛してるよ。善    翔子

翔子は善からプレゼントされた真紅のドレスを着て、常に枕元に置いてあったという善との写真を胸に抱いて、煙となってあの世に旅立った。享年34歳。



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