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太平洋の死線、ミッドウェー、ガダルカナル

割引あり

はじめに

私たちの今生きる世界とは隔絶された極めて異質な世界がありました。
人が人を滅していくために辿った恐ろしい戦争の時代とはまさに第二次世界大戦の頃ですが、たかだか100年に満たない歴史の話です。
中でも私たち大日本帝国の行った大東亜戦争の記憶としても屈指の悲惨な戦歴の一つがこのミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いであるともいえるでしょう。ミッドウェー海戦で散った数々の戦闘部隊、ガダルカナル島に餓死した無残な兵隊。私たちの命を繋ぐために命がけで挑んだこれらの戦いについて、今この戦雲の立ち込めたる時にこそ探ってみたいと思います。
再確認いたしますが、戦争とは突入してしまった両者が負けであり、突入に導いた者こそが戦犯者です。今の世にこれを冷静に見つつも、私たちにとっての忘れがたいこの悲しい歴史を今辿っていただきたいと思います。

ガダルカナルの戦い

ガダルカナルの戦いとは、ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった要の戦いである。第二次世界大戦において、1942年8月以降に日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げたこの戦いにより、日本側は激しい消耗戦となり、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

1941年12月、ハワイ空襲、北部マレー半島上陸、比島航空撃滅戦をもって開始された日本軍の南方作戦は、予想以上に順調に進展し、1942年3月9日、オランダ領東インド植民地政府が保有していた地上軍である蘭印軍の降伏によって概成し、日本軍は当初の攻略目的を果たした。これは予想以上に早期の進展であったため、1942年1月には、ビルマ、ベンガル湾のアンダマン諸島、オセアニアのポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の早期強化を企図し、次なる作戦の計画を速やかに策定しなければならなかったのである。
1942年4月、かくして日本海軍では第二段作戦が立案されたが、軍令部は米豪遮断を目的とするフィジー方面の攻略を主張し、対して連合艦隊ではアメリカを早急に戦意喪失させるためにミッドウェー作戦とハワイ攻略を主張しており、軍令部と連合艦隊とで意見が分かれていた。最終的に連合艦隊が主張していたミッドウェー作戦が認められ、連合艦隊側も軍令部に歩み寄って、ニューカレドニア、フィジーを攻略確保し、遠方のサモアにも攻略破壊を行い、後に引き上げることを認めた。
このように、日本海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点であるオーストラリアとアメリカの分断を考えていた。だが、日本陸軍は、あくまで日中戦争解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、海軍が主張する戦線拡大には否定的であった。したがって大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったのだが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致していた。
このような作戦状況の中、米豪分断作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から成るものとして準備が進んでいた。ところが、日本海軍はミッドウェー海戦において「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の主力航空母艦4隻などを失う大損失を被ることとなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなったのである。

オーストラリア空襲
オーストラリア本土は、第二次世界大戦中に日本軍機により少なくとも97回の攻撃を受け、これらの攻撃に対し、オーストラリア側の連合軍が反撃を行ったほか、ブリスベンをはじめとした都市部では、防空シェルターの整備が行われた。また日本軍の上陸が予想されたことから、オーストラリア政府と軍により沿岸の警備や海岸線への地雷の埋設、避難訓練が行われたほか、学童疎開の実施も検討された。
1942年2月19日の北部の街ダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。2月19日に4隻の日本航空母艦、赤城、加賀、飛龍、蒼龍はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、これらの艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。これらの攻撃に使用された弾薬量は、前年12月に行われた真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。
日本軍は軍事施設や軍用兵器類だけではなく、港湾や民間管理の飛行場、鉄道や燃料タンクといった戦時の補給線であるインフラストラクチャーも攻撃目標としたため、これらの施設に勤務する、もしくは近隣に在住する多くの非軍属の労働者らも被害に遭った。
避難した多くの民間人と共に、軍すらも街から逃亡してしまったため、損害の確認に手間取ることとなったが、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍やアメリカ軍などの、オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。ダーウィン市を防衛していたオーストラリアおよびアメリカ軍はわずかに日本機4機を撃破できただけであり、この一連の空襲は完全に成功したとされている。

ミッドウェー海戦

1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。太平洋戦争の転換点と言われる要の海戦で、このわずか三日の戦闘における敗北により日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったとされている。
1942年4月、山本五十六司令長官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官は、ハワイから空母部隊を出撃させて迎撃を行った。それぞれの主力は、日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻、艦載機248機、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻、艦載機233機とミッドウェー島基地の航空部隊126機であった。航空兵力で100機以上劣勢の日本空母部隊は、索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。日本軍は空母4隻と重巡洋艦1隻を失い、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機も全て喪失した。勝利したアメリカ軍も、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され、航空機約150機を失った。
日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功したため戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回ったが、この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。

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