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お笑い沼を泳いで見つけた、私が本当にやりたかったこと
沼だと思っていないものこそが真の沼だったりする。
2022年12月。
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私は初めて「ヨシモトムゲンダイホール」に足を運んだ。
特別お笑いが好きだったわけではなかった。
小学校のときにあった「お笑い係」という毎朝コントをやる班のことはちょっと斜めに見ていたし、話を合わせるためにお笑い番組を見る程度の興味だけ。
つかず離れずだった存在が大きくなったのは、まさに「推し」と呼べるコンビができたからだ。
お笑いに救われた日
大学に入学して、一人暮らしをした。
芸術大学に進学した私は、自分の才能のなさを実感し、途方に暮れ、心を病み引きこもるようになった。
無音のままだと死にたくなる。
見る理由もないのにTVをつけて、ぼんやりと天井を仰ぎ見るだけの日々を過ごしていた時、たまたま漫才の番組が流れた。
TVの向こうから聞こえる笑い声。
私の代わりに笑ってくれているような気がして心が楽になったのを覚えている。そのまま眺めているとつられて私も笑えて、気が付くとのめり込んでいた。
それが、銀シャリが優勝した2016年のM-1グランプリだった。
出会いの大ジャンプ
それから7年。
無事に沈んだ心とお別れし大学生活を終え、社会人として人生のステージを上がらされて、平坦な毎日を繰り返すだけになっていた私に「ケビンスって知ってる?」と友人が声をかけてきた。
聞けば、TVにはほとんど出ていない、劇場をメインに活動している当時結成2年目のコンビだった。
スマートでコミカルな見た目とダイナミックな動きに目を奪われ、インターネット色の強いボケは、自分の通ってきた娯楽に近く、共感が強く、息ができなくなるほど笑った。一瞬で大好きになった。
2chのスレのまとめ記事や、ニコニコ動画ばかりを見て義務教育を終わらせた(掛け言葉)過去があってよかったと思ったのは初めてかもしれない。
Twitterをはじめとするネットのミームをほどよく薄めて溶かしたボケにあの頃のゲームの動き。少しだけ世代が上だなと感じながらも「わかる」ことは本当に面白くて楽しい。
笑いというものは「共感」なのだとこの時知った。
そして、180センチ近くある相方仁木さんの頭部近くまで跳ぶ山口コンボイさんの大ジャンプ。
サーカスでも見ているようなワクワクに、夢中になった。
なんで安定してその高さが出せるんだよ pic.twitter.com/oQOzlj9bND
— 仁木恭平(ケビンス) (@nikikyouhei) November 22, 2021
しかしながら、東北に住まう私にとって劇場に通うのはなかなか難しい。計算すれば往復の足代だけで10~25ステできる。損失がでかい。
都心部の人だけの娯楽なのか、と落ち込んでいると「配信」があると知った。会場で見るよりも少しばかり安い(手数料があるので、逆に高くつくような気もする)ので、気軽に見ることができると聞いて、ケビンスが出演するライブを調べて購入した。
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初手がこれなわけがなさすぎ
初めてライブで見たケビンス。
たぶん、これであって良いわけがない。
興味はめぐる
およそ半年で100ステ程度のライブを観た。
毎日のようにライブを観て、笑う。それだけで気分が明るくなっていくのを感じていた。
ラジオも聞き始め、より深く好きな人たちを知り、関係性に触れて好きな人たちが増えていった。
好きな人から数珠つなぎのように好きが増えていくのが好きだ。愛は大きい方がいい。好きなもので溢れる人生がいい。それが叶っていくのを感じて、幸せだった。
芸人さんの話を聞いていると度々コンビ間での「ネタを書く人」と「書かない人」の意識の差や溝のようなエピソードが出てくる。
分かっていたことだが、彼らはただ演じるのではなく同時に作家でもあるのだと気が付かされた。
「書く」ことは、ジャンルは違えどずっと行ってきたことで、産みの苦しみにも共感ができる。しかし、私が書いてきた作品は、書くことで完成であり、さらに「演じる」だとか「返り」について日々思案することはない。
ネタを書くってどんな感覚なのだろう。どれだけ難しいことを仕事とし、日常としているのだろう。
応援している方の凄さを知りたくて「ネタを書く」ということに向き合ってみたくなった。
架空の寄席を作る
素人が見様見真似でネタを書くのは、冷やかしにも似た侮辱行為なのではないかと、私にできる最大限のリスペクトを込めて、まずは学びを得ることに努めた。
学びを得るといってもそんなすぐに学校に行くことはできない。それこそ冷やかしだ。
即席でできる学びを探してYouTubeや文献を漁り、最低限の基礎を知ることから始め、好きなコンビのネタを書き起こして、分数でのおおよその文字数を見た。
ロジックなど私に語れるものはないが、おおよその構成を自分なりに理解して、笑いが生まれる構造をまずは理屈で知ろうと思った。
とはいえ「笑い」というものは「感覚」だ。
映画やドラマ、小説を持っても、喜怒哀楽の中で一番引き出すのが難しい感情とも言われるのが「笑い」である。
面白いことをしたいと考えることがこんなにも苦しくて、なにも楽しくないのが不思議で、そんな苦しみの中で日々もがくプロへのリスペクトが高まった。
ただネタを書いて自己満足に終わるのが悔しくて「架空の寄席」を作って一冊の本を作った。いつかと思っていた文芸フリマへの参加が、漫才やコントの脚本集になるとは思ってもいなかった。
3か月程度の時間をかけて7本の脚本を書いた。
没にしたものを含めても10本足らずだった。
当時、ケビンスの仁木さんが新ネタを書きすぎていると話題だった。1か月で10本ペースの仁木さんに比べ、私はその三倍も時間がかかったのだ。
プロと比較すること自体がおこがましくもあるが、コンスタントにもっとハイペースで高クオリティのものを書き続けているケビンスの仁木さんの異常さを身をもって体感することになり、敬愛が強まった。
芽生えた、三度目の夢
初めての夢は、役者になることだった。
舞台に立つことに憧れがあった。
高校生になって、演劇部に入った。
舞台に立って、芝居をした。楽しかった。二年生になって脚本を書いた。私の脚本を後輩たちが演じる。もっと楽しかった。
二つ目の夢は、脚本家になることだった。
自分の描いた物語が第三者によって立ち上がり、立体化していくのがとてつもない快感だった。
小説や脚本を書いて、物語を作る。それを、演じてもらいたい。
それを大きな夢として抱きしめて大学に入った。
舞台を諦めながら、細々と文章表現を発表し、時に連載を持たせてもらったり、短歌や短編小説を掲載してもらったりすることがあった。
あの舞台の上で、物語が生きてくれないかと、今でも夢見ながら、作品を書いている。
そんな中で「お笑い」を見て、エンタメを作ることへの憧れが沸いてきた。私は今、現場を作る作家として活動できる未来にたどり着きたいと感じている。
三度目の夢ができた。
沼の先に、夢を見た。
脚本を書いて、小説を書いて、舞台を作って。
私を救ってくれた「お笑い」に貢献したい。手助けになるようなことをしていきたい。
沼の中で生まれたエゴで、沼を育てたい。
今、門を叩くために必要なものを調べ、準備をしている。
沼は落ちるだけでなく、人生を輝かせてくれるものだ。
私は今、最高に生きている。