『オッペンハイマー』
引き裂かれるようだ。
生み出された映画に罪はない。作品を作った監督にもスタッフにも罪はない。罪があるとするならば、それは歴史そのものが罪なのだ。
「原爆の父」と呼ばれた男の伝記映画。編集によって時間や空間を交錯させ、目まぐるしく場面展開しながら、視点人物を変え、その都度モノクロとカラーのあいだを行き来し、オッペンハイマーという人物を立ち上がらせる。観客はその濁流に飲み込まれ、細部ではなく全体を把握することとなる。画面に映される映像それぞれは単一の時間軸にありながら、編集によって個々の時間軸は無効化され、時勢そのものが意味を持ち始める。
繰り返し描かれる聴聞シーン。徐々に完成へと近づく原子爆弾。冒頭で行われるアインシュタインとの会話。あらゆるシーンが次なるシーンへとシームレスに繋がり、次々に場面を変えながらも、音が、音楽が鳴り続けることで、ひとつの連続したストーリーが――「オッペンハイマー」というナラティブが出来上がってくる。
同時にそれは、どこかで区切りを用意し、明確な終着点を拒むことを意味している。恐怖の蓋を開け、その絶望的な光景を私たちは濁流の中で幻視し、しかし常に終着点には辿りつかない。編集によって、時間を操作することによって、カタルシスを避け続ける。
言ってみれば、この映画で終わるものは何もない。
通常、映画はひとつの時間軸に沿って、始まりから終わりへと一方通行に語られるものだ。始点から終点へ。なぜならカタルシスとは、映画内で発生した緊張が解除されたときに得られるものだから。物語を語るのならば、物語を語り終えなければならない。
しかし『オッペンハイマー』は終わらない。何かを「終わらせる」ことを懸命に避け、終わらないことによって、恐ろしい景色を持続させる。ずっと、ずっと。いま、このときも、彼が作り出した大量破壊兵器は波紋となって世界に広がり、堪えがたい現実あることを示し続けるために。
オッペンハイマーは何かを「成し遂げた人物」ではない。少なくともこの映画では彼のことをそのようには描かない。子育てを他人に任せ、家にキッチンを作ることを怠り、科学以外のことは疎く、他人の感情の機微が理解できない人物として――科学に人生を捧げた人物として、その人間性をむしろ批判的に描く。
その視線は映画全体に通底してある。彼のまわりにいる科学者、政治家、彼を賞賛する大衆、オッペンハイマーと何らかの関わりを持ち、戦争に加担した者達を擁護するようなことはしない。あるがままを冷徹に映し出すのみ。
そう、この映画は反核、反戦の映画なのだ。それは間違いない。オッペンハイマーを戦争終結に導いた英雄視することは決してなく、核の実験が成功したことを喜ぶ大衆の姿を醜悪なものとしてカメラは捉える。
しかし、
しかしそこに「悲しみの伝承」という視点は欠けている。
ドイツが降伏した後、作られてしまった原子爆弾を日本に投下することが目的と化していたこと。科学者としてその流れに加担してしまったこと。実際に広島と長崎に原爆が投下されたこと。それらを批判的な目線でこの映画は描いている。主としてオッペンハイマーの視点から。それは言い換えれば被害を受けた日本からの視点の欠如でもある。だがそれもまた、時勢をずらし、オッペンハイマーの主観から感じたことなのだと描くことによって、それらの批判をかわす。言ってみれば、この映画はあまりにもクレバーなのだ。クレバー過ぎてその欠如を受け入れざるを得なくなるほどに。
当然だが、同じ映画を見ていても、見えているものはひとりひとり違う。物理学に詳しい人が見たとき、キュビズムに精通している人が見たとき、ロスアラモス国立研究所の歴史を理解している人が見たとき、アメリカ人がみたとき、日本人がみたとき、広島の人が見たとき、長崎の人が見たとき。あなたが見たときと、私が見たときで感想は違う。
そのことに引き裂かれる。
だってこの映画はあまりにもよく出来ているから。私はそう感じてしまったから。欠如した視点があることも含めて、それが議論を生み出す効果となり、戦争や核兵器について思いを馳せる契機となるから。なっているから。同時に描かれていないことに対して怒りや悲しさや空しさを覚える人がいることも想像できるから。
人類が史上初の核実験を成功させようと、徐々に瓶が満杯になっていく様を見つめながら、原子爆弾が完成に近づく様を見つめながら、それが進行すればするほど私は涙が止まらくなった。
時勢は歪み、過去は現在へと繋がり、映画の中でこれから起こることを知っているせいで、その未来を(過去を)想像してしまい私は悲しくてしょうがなかった。
そしてその断裂はこの映画の中心となる部分と重なる。大衆が熱狂し、足を踏む耳障りな音と、賞賛の声、光と轟音が画面を包み、すべてが焼き尽くされる光景をオッペンハイマーが幻視する瞬間、あの決定的な瞬間に彼は(私は)引き裂かれる。
つまりこの映画は伝承しようとしているのだ。「恐怖」と「罪」を。終わらせないことで。
「原爆が完成した」「原爆を日本へ投下した」「戦争が終結した」。それらの描写はすべて事が終わった後、あるいはその予感を感じさせる描写を残し、ずらすことによって、編集を用いて止まらせないことによって、「終結」を意識させない。観客がどこかのタイミングでホッと一息つくような状況を避け続ける。ほとんど偏執狂のようなこの編集は緊張状態を持続させ、映画館をあとにしても解除しない恐怖を植え付ける。
『オッペンハイマー』が提示するのはそんな景色だ。
それは引いてみれば映画というアートフォームの破壊なのかもしれない。この語り方によって、この構造によって、映画はこれまでの語り口と、『オッペンハイマー』以後の語り口で断裂するかもしれない。そんなことを意識せざるを得ないほど、『オッペンハイマー』の景色は強烈だ。
そして私は幻視する。世界に核が波紋のように広がっていく光景を。核兵器によって世界が破壊される光景を。
終わらせることを拒むことで、『オッペンハイマー』はその景色を持続させる。ずっと、ずっと。
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