『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』あまい夢、しあわせな時間。
ファンタジックでビューティフルでファニーなミュージカル映画が観たいか。
なら『ウォンカ』を観に行こう。
子どものころ『メリー・ポピンズ』が好きだった。歌と踊りと多幸感につつまれた物語はとても素敵だったが、それ以上に、趣向をこらした場面場面の不思議な光景こそが最高で、心を奪われながら観ていたことを覚えている。メリー・ポピンズの鞄の中から出てくる色んな物は明らかに鞄の中には入り切らないサイズの物ばかりで、なんでも取り出せる四次元ポケットみたいだ。傘を差して空から優雅に舞い降りてくる場面も魅力的だったし、指パッチンひとつで散らかった部屋がすいすい片付いていく様子なんかまさに魔法のようだった。アニメと実写を合成させたシーンも奇妙でわくわくしたし、あの画面の中には「夢」が広がっていた。
きっとこの『ウォンカ』もそんな「夢」や「魔法」を画面に宿らせようとした映画なのだ。
ウィリー・ウォンカは亡き母との約束を胸に、チョコレートの街で自身の店を開くため遠くの地からやってきた青年だ。ところが街を取り仕切るチョコレート組合は彼のことを目の敵にして営業を妨害、さらにうっかり泊まった宿屋と不当な契約を交わすはめになり、対価の見合わない労働を押し付けられる。警官も聖職者も賄賂(チョコレート)に釣られて邪魔してくるし、上手くいかないことばかり。しかし魔術師であり、発明家であり、チョコレート職人である彼は、持ち前の明るさと人懐っこさ、そして大きな”夢”を原動力に奮闘する。魔法と発明とチョコレート、そして仲間たちの協力、ウンパルンパという謎の小さな紳士、さらには”キリン”も登場して事態は思わぬ展開に。はてさてウォンカは無事に店を持つことが出来るのか。
主演のティモシー・シャラメの魅力が爆発してますなあ。オープニングからとても良く、ウォンカの純朴さや優しさがよく表現されていて素敵です。きっと多くの人がここだけで彼のことが好きになってしまうし、応援したい気持ちになるんじゃないかな。彼の歌声は必ずしもミュージカル向きではないけれど(歌声の”質”で言えばヌードルの方がミュージカル向きではある)、彼の存在感と魅惑的な表情は現実とファンタジーの境界を一気に取っ払い、魔法の世界へと連れて行ってくれるでしょう(っていうかティモシー、あなた歌や踊りもできたんですね。すごいなあ、パーフェクトかよ)。キャラクター的にはだいぶ素直でやさしく、言うなれば無垢すぎて危なっかしいので、必ずしも『チャーリーとチョコレート工場』に繋がるようには作っていなさそう。彼のトランクには物がいっぱいつまっていて、機械仕掛けの仕様になっています。小瓶や美しい装飾が見事で、こういう細部を作りこんでいる作品を見ると嬉しくなっちゃいますね。ハットの中から次々と物を取り出すところなんか『メリー・ポピンズ』みが強く、あの作品で感じた「魔法」の感覚は確かにこの作品にも宿っていました。
また、衣装デザインや舞台美術のレベルの高さにも注目。アンティーク感と少々スチームパンク感のある街並みは見事で心が躍りました。チョコで作られた「食べられる花」だらけの店内は、様々なギミックが盛り込まれているので、一度見た程度では把握しきれないほど世界観を形作る「デザイン」にこだわりを感じる映画となっています。
この映画は「移民」の物語として、あるいは「ベンチャー企業」のお話として見ることもできるでしょう。ウォンカが文字を読めないというのは、移民以外にも、「教育」の格差が貧富の差につながっていることを表しているようにも見えますし、既得権益によって新しい才能の芽を摘んでいるという構図のようでもある。でもさ、そんな風に見なくてもこの映画はもっと純粋な、とびきりの楽しさがいっぱいつまった作品だと思う。ウォンカとヌードルが夜の街を風船で飛び回るロマンチックな光景とか、お店につめかけたお客さんたちが不思議なチョコレートを食べる光景とか、そういう場面を見ていると、世界が不思議に満ちていて、そのときめきを忘れないことで、世界はより色づいていくことを思い出させてくれるのだから。
また、この映画は「色んな個性を持った仲間たちが協力して成功を目指す」という話でもあり、そういう点でも好みの作品だった。会計士に電話交換手、自称コメディアン、孤独な少女、さらに敵のような味方のようなウンパルンパも合わさって、みんなでわいわい街を駆け抜けていく姿のわくわく感。こういうの好きだなあってシーンが多かったし、ちょっとした台詞が最後に繋がっていくのも上手い。
あと聖職者のくせに、チョコレート組合とべったり癒着している神父役は『Mr.ビーン』で有名なローワン・アトキンスがやっていて、絵面がつよつよ。その他、悪役がしっかり悪役をしてるのでわかりやすくていいですね。そして、そういう要素要素を2時間の尺にきれいに収めていて、きちんと引き算が出来ている良質さにも好感が持てる(最近はやたらと長い映画が多いんだもんなあ、という軽いグチ)。長くしようと思えばもっと色んな要素を入れることが出来ただろうけど、そういう部分をそぎ落とした結果、緩急のしっかり取れた芯のある作品となっていました。
今回の作品はチョコレート工場を作り、大成功を収める前の若きウィリー・ウォンカの物語、ではあるけれど、ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』に必ずしも繋がるわけじゃない。ウォンカのキャラクターや生い立ちが違うし、『チャーリーとチョコレート工場』で最後に示された結末にこの時点で辿り着いていることから、無理に繋げればここから何も学んでいなかったことになる。でもさ、たぶんこの映画で描こうとしたことは「幸せはずっと続くわけじゃない」ってことでもあるのだと思う。チョコレートのようにとろけるほど甘美な時間はしかしいずれ消えてしまい、場合によって人は学んだことを忘れてしまう。でもその一瞬の幸せは確かにあったもので、そういうちょっとした幸せに価値があるのだと。きっとそのことを描こうとしてるのだろう。そう考えると『チャーリーとチョコレート工場』でなんであんなにウォンカがひねくれちゃってるのか、あそこに至るまで色んな苦労があったのかもな、なんて想像してしまう。そういう想像ができるくらいにはこの映画は自由で懐が深かった。
また、『チャーリーとチョコレート工場』が、ある種の毒々しさによってチョコレートを表現していたのに対して、今回のチョコレートはただただ美味しそうだった。あんまり美味しそうだったから映画を観終わった後にチョコレートを買って帰っちゃったくらいだよ。私が帰りにチョコを買ったお店は「カズノリ・イケダ」という店名で、このお店も、あるいは「ゴディバ」なんかも、映画の台詞の通り「すべて夢から始まった」のだろうなと、そんなことを考えながら口の中に甘い味が広がっていく。
何か新しいことを始めるのは勇気がいることだ。誰にも相手にされない可能性だってあるし、笑われたり嫌われたり、嫌なことだってきっとある。でもウォンカはいつもそういうとき深呼吸をして、心にある母との記憶を思い出し、胸を張ってみんなの前に躍り出る。よく通る声で、やさしく微笑みながら。やがてその行動は周りを動かす原動力となる。だからこそ、この映画で大事なものは最終的にチョコレート”以外”となるのだろう。
誰かとその喜びを分け合うことで、あなたも周りの人も笑顔になれる。夢をかなえる力となる。とても「普通」のことだ。みんな知ってることだ。でもみんな忘れがちなことでもある。
世の中にはいろんな基準があって、何が完璧なものかなんてわからない。でも、だからこそ、ウォンカが母親のチョコレートを「最高」だと感じた気持ちは決して間違ってなんかいなくって、そのことを大事にしたからこそ、彼は遠く遠く離れた地でもやっていけるのだ。誰かを笑顔に出来るのだ。最後に自身のチョコレート工場を持ち、そこで歌われる歌詞の通りに。
”君の夢がみえるよ”