『陪審員2番』
イーストウッドが撮ってきたものとは何だろう、と考えたとき私の頭の中にはいくつかのキーワードが思い浮かぶ。「アメリカ」「正義」「罪と罰」「銃社会」「加害者と被害者」「継承」。イーストウッドは保守とかリベラルとかいう二項対立の枠組みのなかにあってなお、また別の、捉えきることが困難な「現代」というものを撮ってきた監督なのだと思う。
イーストウッドは常に果敢だった。『許されざる者』においても『ミスティック・リバー』においても『グラン・トリノ』においてもアメリカが抱える問題を鋭く見つめ、”当事者”という意識を持ちながら映画と向き合っていた。そうして見つめた先にある現代を、映画という箱につつみ、観客に差し出すこと。差し出すことで観客に問いかけを発すること。彼は監督としていつもそのことを、その役目を忘れてはいなかったと私は思う。
面白い(と言ったらもしかして不謹慎に感じる方もいるかもしれないけれど)のは、イーストウッドの作品はそういった重たいテーマを扱うことが多いにもかかわらず常に一定の”フラットさ”があることだ。扱っているテーマがどれだけ重く、陰鬱で、痛みを覚えるものであったとしても、そこには「だから社会をこうこうこのように変えていかねばならない」といった啓蒙する姿勢は感じられない。その点で、私は宮崎駿のことを思い出したりもする。宮崎駿が『君たちはどう生きるか』を作り、そこに込めたものってなんだろう。あの映画にはぐつぐつ煮えたぎり処理することを放棄した感情と、ファンタジーへの憧憬と、彼の人生が注がれていたけれど、やっぱり何かを啓蒙するような話では無かった。同じように、御年94歳となるイーストウッドが撮った映画もまたやっかいなテーマに反して、その手つきはフラットだ。まるでサイコロを転がして「今回はこれを撮るか」というくらいの気楽さすら感じられる。
しかして今回イーストウッドは「陪審員」という題材を選んだ。やはりここでも「アメリカ」「正義」「罪と罰」というテーマが見てとれ、裁きを下すことの危うさ、正義の行方についてという、込み入った、のっぴきならない、無視することの難しい現実が提示される。
陪審員が主人公ということもあり、この映画を見て『十二人の怒れる男』のことを思い出す向きもあるだろう。作り手の意図としてもその現代版として本作を据えようという思いがあったのかもしれない。いまのアメリカで何らかの犯罪が起こり、陪審員としてそこに関わるということは、正しさとは何かを考えること以外にも、現代とはどういう時代なのか、と考えることと同義だと私は思う。だからこの映画では性別も国籍も年齢もバラバラな12人が集められ話し合いが進んでいく。
物語は「真実」と「正義」が主人公のあいだで振り子のようにゆれ動き、さらには裁判にかかわる者たちの姿を見せることで何をもって「正しさ」を決めることが出来るかが映される。主人公であるジャスティン(この名前もまたずいぶん意地悪だなと思うが)は自身が陪審員として携わることとなった裁判で、扱われている事件そのものに自分が深く関係している可能性があることに気づき懊悩する。
あの夜、アルコール中毒歴のある彼が飲酒していたかどうかは物語におけるひとつの鍵であり、観客である私たちにはジャスティンが(おそらくは)酒を飲んでいないことがわかっている。しかしそのことを彼が映画のなかで証明する術はなく、天秤の上で彼の心はゆれ動く。
裁判を5本掛け持ちせざるを得ない弁護士や、検事長となるかどうかがかかっている検事の存在。その他の陪審員たち。証人として発言する人々や、断酒会の世話人で弁護士でもあるラリーなど。こうして書きだしていくと登場人物はわりと多く、入り組んでいるように見えるけど、それらの要素はほとんど無駄なく物語のなかに収まっており、交通整理がしっかりされた脚本によってすんなり話が入ってくる。
これが例えば一人称を採用した映画であったなら、つまりジャスティンが見聞きした情報だけを見せていく映画であったなら、「真実はどこにあるのか」といった『落下の解剖学』のような描き方も可能だっただろう。しかしこの映画においては、真実は主人公ジャスティンのなかでほとんど確定している状態にあり、であるならば自身の半径5メートル以内にある手の届く範囲の生活といったごくごく小規模な(そして何より大事な)ものを守るか否か、というところが最後の決め手となる。その身近過ぎる状況が彼と観客を近づける。
だから、彼が葛藤を感じているとき、私は「葛藤」を感じた。
彼が利己的に見えたとき、しかしその気持ちが理解できた。
彼が公平に見えたとき、自分は公平でいられるか想像した。
そう、主人公であるジャスティンの心のゆらぎは私自身の心のゆらぎだった。
途中から、検察官自身もその意思がゆらぎ調査に乗り出したように、あらゆる状況が「答え」を提示していたとしても、そこには不明な領域が常にある。物事の全てを把握することは不可能なためジャスティンが轢いたのがシカだったのかはわからず、作中では何があったかは明示されない。というかこの映画においてそのことはさほど重要では無い。
被告人の男はワルで通っているやつで、周囲の人からすると町の厄介者。裁判においても被告人に不利な発言が多くなされ、陪審員たちも(早く審議を終わらせたいということもあり)有罪判決の方に傾く。でもジャスティンは真実(だと思われる)ことを知っているため、いやいやそうは言うけど公平に考えようよ、人の一生を左右する問題なんだからさ、という罪悪感込みの善良さを発揮する。しかしそれは自身が安全圏にいるからこそ示せる善良さであって、自分自身が罪に問われる可能性があるならばこの限りでは無い。
イーストウッドはそんなちょっと意地悪だとすら感じるような状況を用意し、現実として、制度に弱さや脆さがあるということ。あるいは真実がどんなときでもイコール正義となり得るのか。という問いを提示する。
そして主人公のジャスティンが感じているゆらぎは私の心にも波紋となって広がっていく。
じゃあこの映画で最終的に言いたいことってなんなのだろう。
現行の司法制度にある綻びについて?あるいは正義の基準について?もしくはそれぞれの中に正義や真実があるということ?はたまた世の中はグラデーションで出来ているから明確な答えは出せないということ?
たぶんどれもそれなりに当たっていて、しかしどれも微妙に的外れ。
ジャスティンは己の良心と守るべきものを天秤にかけて、どうするかを決めた。真実と正義の狭間にあってどうするのかを選択した。もしかしたら最後まで彼の心はゆれていたのかもしれない。時間切れでなあなあに決めただけかもしれない。私自身がその答えを出しかねているように。映画ではその最後の過程は描かれない。
だが、ニーバーの祈りが引用されるように、私たちは何かを選ばなくてはいけない。選び取らなければならない瞬間がきっとくる。
公平性に限界があるとするならば、そこで選ぶことにより負うこととなる責任にしろ罪悪感にしろ私たちは引き受けなければならない。例えそれが矛盾や暴力性を孕んでいたとしても、四の五の言ってる場合じゃないときが来れば決めざるを得ない。イーストウッドが描いたのはそういう”のっぴきならない状況”なのだと思う。完全ではない制度、完全ではない人間を描くことで社会がいかに複雑でしちめんどうな状況にあるかを見せながら、しかし最後にはどちらかを選び取り、覚悟を決めなくてはいけないときがあると。あのラストシーンから私はそんなことを受け取った。
かように本作は監督が撮ってきた作品の系譜に自然なかたちで収まるような、現代のアメリカを捉えた映画となっている。でも個人的には、これがイーストウッドの引退作になるのかどうかはわからないけれど、ぜんぜん気負いを感じさせない点や、すんなり話を理解させる手際の良さといったフラットさに何よりしびれるし、そここそにイーストウッドのらしさを感じたりもした。
*
ちなみに本作は日本で劇場公開はされておらず、U-NEXTで観ることが可能です。配給システムの話は置いておくとして、法廷もの、陪審員ものとして非常によく出来たスマートな作品なのでおすすめです。イーストウッド監督の新作が見られるのはU-NEXTだけ!(業者の回し者ではありません)