『デューン 砂の惑星 PART2』灼熱の砂漠に撃て、約束の銃弾を
この、ジョーゼフ・キャンベルが唱えた神話論にあてはめて考えるならば、『デューン 砂の惑星 PART2』の物語は間違いなく「英雄譚」のそれである。
『PART1』の物語は上記における「日常の世界から、自然を超越した不思議の領域へ冒険に出る」という部分にあたり、ハルコンネン家によってそれまでの日常をこなごなにされたポールが、母とともにアラキスの原住民フレメンと邂逅するところまでが描かれていた。
続編となる本作は、ポールがフレメンの戦士として訓練を重ね、徐々にまわりの人々に認められ、戦いに身を投じることで、やがてこの地にかつてからある予言「クウィサッツ・ハデラックの誕生」と「聖戦の勝利」が訪れるまでを描いている。戦闘ではごっつい兵器も多数登場し、10000年後が舞台でありながら見た目は「虫」や「殻」のようなデザインが多く、その「古代兵器」感がすごくいい。チャニとともに対峙するヘリコプターを打ち落とすシークエンスとか、サンドワームを操る場面なんてカタルシスに満ちていて、まさしくヒーローの誕生と活躍を目撃しているかのようだ。
ポールは英雄となる。
このことは最初から決まっていることであり、わかっていることだ。なぜなら彼が夢の中でみる「自身が皇帝となり、そのせいで戦火をもたらす」というビジョンが劇中の要所で繰り返し描かれるため、観客である私たちは”はじめから”この物語の結末を「知っている」こととなる。
その点で本作は、監督のフィルモグラフィーである『メッセージ』と似ている。「未来を知っている者が宿命と向き合う」という構造は、『DUNE』の物語にも共通してあり、編集によって、まだ起こっていないことを先に見せることが可能な”映画”という装置を使うことで、私たち観客もポールと同様の”未来視”という体験をすることとなるわけだ。
『灼熱の魂』でヴィルヌーヴは宿命づけられた母と息子の愛を描いた。生々しく、哀しさにつつまれた物語として。映画ラストで明かされる暴力的でさえある理不尽で哀しみに満ちた「事実」は、しかしすでに「終わっている出来事」でもあった。ヴィルヌーヴの映画はいつでもそうだ。彼のつくる物語は始まった時点ですでにある既定のルートに入っており、それらを見つめる語り手は「手遅れ」となったそれらの出来事に振り回され精神的に摩耗していく。『灼熱の魂』の娘と息子は、かつて起こり、すでに終わっている「歴史」となったそれらをただ追うことしかできない。
そういった流れを踏まえると、宇宙からもたらされた新たな言語を習得することで過去や未来の出来事を認知できるようになる『メッセージ』という作品を手掛けたことは、当然の流れだったと思うし、『ボーダーライン』にしたって、始まりから終わりまで「既定のルート」に則って進行していく物語と言えるだろう。
しかしこの映画は英雄譚ではない。
表面的にはポールが惑星アラキスに存在する神秘の力を使い、砂漠の民たちとともに武装蜂起することで、革命を起こすという流れとなっているが、それらは後半になるほど観客のボルテージを抑えるようにしか描かれてないのだ。
私は話を先走りすぎだろうか。こんなふうに書くと「じゃあ地味な映画なのかな」なんて思われそうだから急いで訂正しておくけど、本作の映像および音響は素晴らしい出来だ。私はIMAXと通常サイズの劇場で2回にわけて本作を観てきたのだけど、IMAXで観た方がいいと断言できる。それくらい映像の圧、音の圧がすさまじく、ハンス・ジマーの重厚なる音楽表現はこの世界をより見事に表現し、清新な視覚効果と作り込まれたディテールに圧倒された。
惑星アラキスを覆う赤茶に輝く砂漠の情景はただただ美しく、轟音で吹き荒れる砂嵐の音、奇妙さと壮麗さを兼ね備えた衣装デザイン、大胆でありながら、いまこの時代にふさわしい脚色。それらが重なり合うことで、私は、私たちは、長年求め続けていた「DUNE」という場所にたどり着くこととなる。巨大なサンドワームをポールが乗りこなす場面なんか喝采を送りたくなるほど迫力とアクション性と新しさを感じる場面だった。
けれど、そんな「アクションすげー」という感動と、ポールが英雄として祭り上げられていく過程は、必ずしも連動したカタルシスとはならない。なぜならこの映画の視点はポールではなく、彼の仲間でありパートナーでもあるチャニが担っているのだから。本作における話の主役はポールだが、チャニという視点を用いることで、この物語は別軸の意味を持つこととなる。
このような主役とは別の視点を用意するという話の運び方は『ボーダーライン』でも用いられていた。FBI捜査官として新たな任務についたケイトの目を通して、アレハンドロという男の殺意を描いた物語。この映画においてケイトはひたすら状況に振り回され続ける。はじめから彼女はアレハンドロの計画における「部品」の一部に過ぎず、最後の場面にいたるまでそのことは変わらない。
それは本作『PART2』において、まるで『ボーダーライン』をリフレインするようなかたちで再現されている。ポールが戦いに身を投じていくにつれ、チャニがポールに抱く不信感は大きくなり、しかしポールからすれば、それらはすべて「命の水」によって未来視していることから「変えたくても変えようのない事実(歴史)」であるのだと受け入れており、ふたりの心は離れていくばかりだ。ポールはそのことに苦悩する。いや苦悩していた。少なくとも劇中で「命の水」を飲む前までは。彼は自身の行動がやがて悲劇を生むということをなんとなく予測しているからこそ、旅の道中で葛藤し、役割を投げ出そうとさえする。しかし「命の水」によって過去と現在を認知できるようになって以降は、まるで人が変わったようにある種の諦念を抱き、英雄というポジションを受け入れてしまう。
チャニはそんなポールを見つめながら、自身の中に湧いてくる不信感を止めることができない。
これは原作にはない要素だ。原作におけるチャニの造形や役割は、「ポールを支える善き妻」という側面が強かったわけだが、本作においては彼の行動や世界の成り立ちに疑問を呈する存在となっている。
このため『デューン 砂の惑星 PART2』は、物語が後半に進むにつれ、ポールに感情移入することは難しくなり、圧倒的な映像や音の迫力に反してカタルシスも減少していく。最終決戦であるフェイド・ラウサとポールの戦いがどうにも盛り上がらず、むしろ居心地の悪ささえ感じてしまうのはこのせいなのだ。敵軍が反抗を続けるというのならば核を用いて脅しをかけ、皇帝の妻を娶ると宣言するポール。残忍な人物として知られるフェイド・ラウサと彼のどこがどれだけ違うというのだろうか。
繰り返しになるが、この映画は英雄譚ではない。むしろ私には、「人が英雄として祭り上げられていく過程を見つめる”視点”についての映画」という印象が強い。
異郷の地における異教は、母であるジェシカの精神も変え、ポールを死なせないため、そしてまだ生まれていない妹の宿命を「変えない」ため、自身の信じる教義を人々に伝播させていく。ポールのことを”予言された英雄”として信じて疑わないスティルガーはバカのひとつ覚えのように「リサーン・アル=ガイブ!」と叫び人々を先導していくし、再会した師であるガーニイも苦悩しつつ役割を受け入れる。
この映画に登場する多くの人物は何らかの信仰にとらわれ、宿命にとらわれ、それ以外の道を見失った状態だ。
だからこそチャニという女性がより存在感を増すこととなる。変わっていくポールのことを第三者視点から冷静に見つめる「眼」としての役割、それをチャニが担っているのだ。そしてその視点は観客である私たちとも重なり、だからこそ最後の決闘が終わったあと、大衆がポールにひれ伏すなか、たったひとり彼女だけがひれ伏すことなく屹然とポールを見つめている姿に胸打たれてしまう。
変えることができないと決定づけられた未来を受け入れたポールと、彼のもとを去るチャニ。空虚で悲しいラストだ。しかしカタルシスなき最終決戦において、もっともカタルシスを感じる場面でもある。
チャニは言っていた「あなたがあなたでいる限り傍に居る」と。ポールとチャニの道は分かれたのだ。もう戻れないほど、もはや再び交えることがないほどの大きな隔たりをもって。
この映画が描き出すのは、そうした「決別」についてだ。
チャニはラスト、自らがサンドワームに乗ることで、ポールやフレメン、つくられた英雄譚に支配された構造からの離脱を試みる。彼女は彼女のサーガをつくるため、既定のルートから外れて生きようと決意するのだ(そのことはつまり原作からの逸脱も意味している)。彼女がポールと決別するとき、それは『DUNE』という物語そのものに、新たなサーガが宿ることを意味するのだ。
その意思を、ヴィルヌーヴはチャニという存在を通して描く。
それは『ボーダーライン』のラストで、銃の引き金を引くことができなかったケイトと重なる。銃弾を放つことができなかったケイトは本作においてついに引き金を引いたのだ。『ブレードランナー2049』においてKにとっての慰めであり、良き理解者”以上の役割”を持つことが叶わなかったジョイというヒロインを覚えているだろうか。私にはチャニが、ドゥニ・ヴィルヌーヴのフィルモグラフィーにおける「状況に支配され続ける人物」のひとりでありながら、そこから果敢に離脱を試みようとする人物のように思えてならない。
状況を受け入れ、死を受け入れること。未来を知りつつも我が子を”愛する”決意をすること。それらの決断は悲壮感に満ち、かつて私の心をつかんで離さなかった。しかし本作でヴィルヌーヴはそんな自身がたどってきたルートそのものに疑義を呈するようなラストを提示する。
圧倒的で不可能な現実に対しNOをつきつけ、己の道を選ぶということ。
私にとって『デューン 砂の惑星 PART2』は、決別と、決別した先にある現実を正視しようともがく者の視点についての映画だった。
なお、私的本作の萌えキャラは映画前半でがんばって状況を変えようと奮闘するハルコンネン男爵の甥であるラッバーンです。作戦が上手くいかず激おこなラッバーン、男爵につめられてビビりまくるラッバーン、解任されたうえ弟であるフェイドに「靴をなめろ」とせまられ絶望的な顔をするラッバーン。冷静で狂信的なキャラの多い『DUNE』のなかで彼の存在は一種の癒しです。あなたにもぜひいろんなラッバーンを堪能してみてほしい。もしかしたら彼は、チャニと同じくらい運命に抗おうとした存在なのかもしれません。